藤原道長は,平安時代においていわゆる摂関政治の全盛期を築いた人です。日本史の教科書には必ず,藤原道長が詠んだ次の歌とともに登場しますね。



「この世をば 



我が世とぞ思ふ



望月の



欠けたることも



なしと思へば」



この藤原道長の歌(望月の歌)は,威子が中宮になった時に,嬉しさのあまり詠まれたと言われています。



「この世は自分のためにある。まるで満月が欠けていないように,私の人生も完全なのだ。」という意味ですね。



平安時代に登場した「摂関政治」は,天皇の外戚(外祖父など母方の親戚)が摂政や関白の地位について,天皇のいわば後見人として政治をとる制度をいいます。



でも実は,藤原道長は,自らはその関白の地位にはついていないのです。それはつまり,あくまでも娘を天皇の妻とすることで実質的な権力者としての地位を得たことを意味します。



当時,天皇の外戚になるためには,娘を天皇の妻にすることが絶対的に必要でした(娘を天皇の妻にすることを希望する者は,娘に高い教養を身につけさせようとして,現代で言う家庭教師をつけました。その代表が,紫式部であり,清少納言でした)。



ただ,たとえ天皇が娘を妻としても,娘に男児が生まれなければ意味をなさないことになります。その意味で「摂関政治」とは,実は「運」に強く影響され,支えられたものだったのです。



藤原道長が権力を得ることができたのは,実はその「運」が彼の味方をしたからであります。藤原道長の兄は次々と病死し,しかもその兄達の娘には,ほとんど皇子ができなかったのです。



それに対して藤原道長は,娘である彰子(しょうし)を一条天皇の中宮にすることができ,さらには皇子を産んでくれたのです。






そんな藤原道長でしたが,上で引用した満月の歌を詠んだ後,人生が暗転します。体調を崩し,娘や息子が次々と病死したのです。



藤原道長は,そのような人生の暗転を,自分がこれまで蹴落とした人々の怨霊のせいだと恐れおののきつつ,亡くなったと言われています。



満月に例えられた「完全な人生」は,実は「摂政政治」という,「運」に支えられた人生の一時期の姿にすぎなかったのです。彼が詠った満月の光は,暗転後の彼の人生をも,その背後から照らしていたのかもしれません。



人は完全ではなく,だからこそ,完全なものを追い続ける。決して手に入れることはできない満月を追うように。



運に支えられた藤原道長の哀しみは,でもだからこそ,現代を生きる私達に,完全ではない私達に,「謙虚であることの大切さ」を教えてくれているように感じます。