法律を初めて学ぶ方が読みやすい,コンパクトで面白い法律の教科書シリーズに,有斐閣の『Sシリーズ』があります。



その『Sシリーズ』の一冊である『民事訴訟法』(有斐閣,第6版補訂,2012年)53頁で,社会が求める裁判官像について,とても興味深い記述を目にしました。



「左陪席は年配者か?



ドラマで法廷が出てくる場面で,3人の裁判官(合議体)が映るときに,裁判長から見て左側に座っている裁判官(左陪席裁判官)が白髪交じりの年配の役者であることが,時々ある。



しかし,地方裁判所の場合,左陪席裁判官は通常,裁判官に任期後5年以内の判事補(未特例判事補)であることが多く,普通はせいぜい30代の若さである。これに対して,右陪席裁判官は任期後10年~15年の中堅判事,裁判長は経験20年以上のベテラン裁判官であるのが,最も普通の裁判所の構成である。



日本のようなキャリアシステムの裁判官任用制の下では,非常に若くして裁判官になることができ,現実に20代前半の裁判官もいる。ただ,ドラマでの『年配の左陪席』は,無意識のうちに,裁判官に一定の年齢・経験を要求する社会的な感覚を反映しているものと見ることもできよう。」






このような,「社会の人々は,裁判というものに,『一定の年齢・経験』,つまり『長老』であることを求めているのではないか」という指摘は,この『Sシリーズ』だけでされているものではありませんね。私達がイメージする「紛争の解決」「もめごとの解決」には,知らず知らずの内に,年配者の方による解決,という側面が含まれているように思います。



実は,アメリカの先住民であるインディアンの方々に語り継がれている言葉に,次のようなものがあります(エリカ・コウ『アメリカ・インディアンの書物よりも賢い言葉』(扶桑社,2001年)101頁)。



「知識ではなく,智恵を求めよ。



知識は過去の産物だが,智恵は未来をもたらす。



―ラムビー族の格言―」



この言葉は,私達がこの社会で生きていく過程で大切なことは,過去に蓄積された知識ではなく,未来を切り開いていく智恵である,といううんちくが含まれたものです。



ただ,私が法律家としての経験を通して思うところを少しだけこの言葉に加えさせていただくとすれば,次のようになると思います。



知識を求めよ。智恵を求めよ。



知識は過去を照らし,智恵は未来をもたらす。」







私達の人生で,そして私達の社会の運営において,過去を知る手段である知識も,そして未来を切り開いていく手段である智恵も,ともに欠かすことができないように思います。



過去を知る人は,1つの人生における決断が,そして1つの社会における決断が,石が投げ入れられた水面に複数の水紋が作られるように,無限の影響をさまざまなものに与え続けることを,経験的に知っているわけです。過去を知る人は,未来の姿を適切に予言できるのかもしれません。



この社会で,喜びと悲しみに満ちた人生を送られている方々に直接影響を与える裁判において,私達が知らず知らずの内に裁判官に長老であることの側面を求めているのも,その過去を知る面と,未来を予言する面とが裁判には必要であることが現れたことなのかもしれません。



でもそれは,決して裁判官だけに限ったことではありませんね。裁判制度は,この社会で発生した事件に法曹三者がそれぞれの立場から異なる光を当てて解決するものです。



この世には完全な人は存在しない。でもその不完全な人が,より良い社会を作りたいと願って編み出した智恵が裁判制度なのですね。そしてその手段が法曹三者制度なのです。



脈々と生み出されてきた判例は,出されたその日に歴史となります。そして翌日,また予言として出された判決という智恵が,新しい社会を生み出していくのです。



私も弁護士として,そのような社会が求める「長老」としての側面を,早く身につけたいと考えているものです。