夫Xと妻Yのご夫婦がいらっしゃるとします。妻Yが男性Aとの間で,いわゆる不倫関係になった場合,夫Xから男性Aに対し,慰謝料を請求する訴訟等が提起されることが多いのです。



そして最高裁判所も, 「夫婦の一方の配偶者といわゆる不倫関係を持った第三者は,他方の配偶者の夫又は妻としての権利を侵害した不法行為責任を負う。」と判示し,男性Aの責任を認める立場に立っているのです(最高裁昭和54年3月30日判決)。






実は,この最高裁判所の立場に対し,とても興味深い指摘をされている方がいらっしゃいます。瀬木比呂志裁判官という方です。



瀬木裁判官は,『民事保全法』(判例タイムズ社)の著書もある民事裁判のベテランの裁判官なのですが,法律実務家に向けて書かれた『民事訴訟実務と制度の焦点』(判例タイムズ社,2006年)で,以下のように述べられているのです(『同書』417頁)。



「(1) 配偶者の不貞の相手方に対する慰謝料請求については,最高裁判例はこれを認めており(最高裁第二小法廷昭和54年3月30日判決(民集33巻2号303頁)),ただ,婚姻破綻以降のそれは原則として認められないとの例外が設けられているだけである(最高裁第三小法廷平成8年3月26日判決(民集50巻4号993頁))。



(2) これについては,ごく普通の日本人の感覚からすると自然ではあるのかもしれないが,よく考えてみると,はたして国家によって損害の回復を命じられるべき事柄なのか,という疑問も生じるところであり,古くから,繰り返し,研究者,実務家ともに問題点として取り上げているところである。



務においても,裁判官にも,おそらくは弁護士にも,社会の一般的な感覚では肯定せざるをえないとして従来の法理の枠組によりながらも,いささかの疑問は感じている方がかなり多いのではないかと思われる。



(3) 消極説の疑問は,端的にいえば,性というのは非常にデリケートで個人的な領域の事柄であり,したがって,貞操は法的にみればあくまで配偶者どうしの約束事であって,配偶者の不貞について配偶者の責任を問うのはともかく,その相手方に対して法的請求を行ってプライバシーを暴くことは,配偶者を自分の持ち物のように意識しその意味でその人格を尊重していないことの現れと言わざるをえないのではないか,ということであろう。



法理,思想の問題としてみる限り,この見解には一定の説得力があると思う。欧米諸国の考え方がこの問題についてはおおむね消極説でそろっているのもうなずけるところである。・・」



つまり,上述しましたように最高裁判所は不倫をした男性Aの責任を認めているのですが,でも妻Yが不倫をした,ということは,本来夫Xと妻Yとの夫婦関係というプライベートな問題であって,そもそも夫婦関係の外にいる男性Aに対する慰謝料請求を認めるような問題なのであろうか,という問題提起なのです。



そして瀬木裁判官も指摘されるように,欧米諸国の裁判例では,夫Xの男性Aに対する慰謝料請求は認めない運用がされている,ということなのです。






実は,最高裁判所は妻Yが結婚しているのだ,つまり男性Aが自分は不倫行為をするのだ,という点につき故意(妻Yが結婚していることを知っていた場合)がなくても,過失(うっかりして妻Yが結婚していることに気付かなかった場合)さえあれば,男性Aは夫Xに対して責任を負う,という立場なのです。



でも,法律実務家の中には,男性Aに重過失(妻Yが結婚していることを普通の人なら気付くであろうに,大きな落ち度によって気付かなかった場合)がある場合のみ責任を負い,通常の過失のみある場合には夫Xに対して責任を負わない,と解釈する立場の方もいらっしゃいます。



また,上述した瀬木裁判官のように,例え男性Aが妻Yが結婚していることを知っていたとしても,男性Aは夫Xに対して法的な責任を負わない,という立場の法律実務家の方もおられます。その立場は,瀬木裁判官も指摘されるように,本来不倫とは夫婦間の問題であって,それを男性Aに対して法的な請求とするべきような問題ではない,と考える立場なのです。



このブログで何度もお話してまいりました。法律そのものは紙に書かれた活字にすぎません。その活字にすぎない法律に,それぞれの有する価値観からアプローチし,意味を与えるのが裁判である,ということになります。



この不倫慰謝料請求の問題も,各個人が有している「夫婦」という存在についての価値観が,法律に投影されたものである,ということができるように思います。






上掲の著書において,瀬木裁判官はこの問題について,以下のようにまとめられています。



「裁判というものは,結局のところ,社会の構成員の平均的な心情を無視しては成り立たない部分がある。その意味で,不貞慰謝料請求について欧米的な消極説にまでただちに踏み切れるかにはいささか疑問もある。



しかし,裁判にはまた,社会の平均的常識から一歩を踏み出してあるべき新しい方向を示すという役割もある。」



この問題を通して瀬木裁判官は,裁判が果たすべき二つの役割を提示されました。



裁判は,社会の構成員の方々の心を無視しては成り立たないこと。社会の構成員の方々の心を実現するのが裁判であること。



でも,裁判にはまた,社会において常識とされることから一歩踏み出して,社会をあるべき方向を示し,新しい方向に導く,という役割もあること。



瀬木裁判官は私達に,社会の問題を考える上では,常にこの二つの視点を忘れないでください,と言われているのだと思います。