羽生善治さんは,言うまでもない将棋界のトップ棋士の方です。名人を7期獲得され,1996年には史上初のタイトル七冠を達成されています。



羽生さんは,小学校一年生の時に,将棋に出会います。その後,週に1回将棋クラブに通うようになります。



その将棋クラブでは,普通は8級からスタートして,実力に応じて級が上がっていくシステムだったそうなのです。でも実は,将棋を始めたばかりの羽生さんが,あまりに弱かったので,クラブの代表の方が特別に15級という級を作ってくださった,というエピソードが残されています。



クラブの代表の方は,羽生さんに自信をつけさせようとされた,ということです。才能を持たれている方も,周囲の温かい支えとまなざしがあって初めてその才能が開花するということを,感じさせてくれるエピソードですね。



そんな羽生さんが最近出された著書のタイトルが,『才能とは続けられること』(PHP研究社,2012年)です。名人となる才能をお持ちの方でも,継続することの大切さを語られていることは,私達にとても大切なことを教えてくれていると思います。






その羽生さんは,上述しましたように,1996年には,史上初めて,そしてその後は誰も成し遂げていない,タイトル7冠獲得(名人,竜王,棋聖,王位,王座,棋王,王将)を達成しています。



羽生さんが7冠を達成された後,棋士の大先輩で現在は日本将棋連盟会長を務められている米長邦雄さんと対談された際,次のような話をされたそうです。



「ときが経つと,状況も変わってしまう。今は最善だけれど,それは今の時点の最善であって,今はすでに過去なのです。」



羽生さんは,この言葉が胸に深く残った,と話されています(上掲『才能とは続けられること』60頁)。実は私自身,この米長さんの言葉に出会った時,別な意味でとても印象深く感じました。



それは,司法作用を思い出したからです。最高裁判所を頂点とする司法権は,日々新しい社会問題について,法の解釈という判断を行います。特に最高裁判所が新しい判断を行うと,日本中の法律家,さらには市民の方々が注目しますね。



でも,その時,その瞬間に出された最高裁判所の判断は,出された瞬間は新しい判断であっても,決して永遠に新しい判断ではありません。社会は判決が出た直後から,どんどんと変化していきます。ですので,最高裁判所の判断は,出された瞬間に過去のものとなってしまうのですね。



社会は変わり,司法も日々新しい問題の解決を求められます。私達も過去にとらわれずに,常にその時における最善のものを追い続けなければならないのだと思います。







その羽生さんですが,コンピュータとの対局について,とても興味深い話をされています(上掲『才能とは続けられること』108頁以下)。



先日,コンピュータがプロ棋士に勝ったという事件がありました。将棋ファンの方々は,羽生さんがコンピュータと対局したらどうなるのか,羽生さんが敗れるようなコンピュータは登場するのかに関心をお持ちの方が多いのではないかと思います。



それに対して羽生さんは,コンピュータとの対局について,次のように言われているのです。



「現在,プロ棋士がコンピュータと対決するには,将棋連盟の許可がおりないと対決できない規則となっています。



私としてはコンピュータがどんな手を指すのかにとても興味があり,機会があれば対戦してみたい気持ちはあります。



その時は勝ち負けではなく,面白く,楽しい将棋を指したいと思います。



私は将棋を,頭脳スポーツの一種ととらえています。結果として勝ち負けがつきますが,勝敗だけにこだわるならジャンケンでもいいわけです。・・



どんな武道も突き詰めていけば,相手を打ち負かすこととは関係なくなっていくように,将棋からも何か深いものを感じます。」







「単に勝ったか負けたかだけならば,ジャンケンをすればいいではないか。大切なことはその対局でどのように考え,どのような棋譜を残したかである。」という羽生さんの考えは,これも司法に通じるものがあるように思うのです。



大切なことは裁判に勝ったか負けたかではない。大切なことは司法プロセスにおいて,どのような審理がなされ,その過程においてどのようにその事件が社会的に解決されたかである。



歴史を受け継ぎながら常に新しい手を追い求める将棋の世界と,歴史をひもときつつ,常に社会の変化に応じた新しい判断を求められる司法の世界には,何か共通している点があるように思います。