まだ若く,経済的にも苦しい状態にある人に,その人の才能を見込んでお金を貸すことを「出世払い」と言います。君の可能性に投資するので,将来出世したら,その時に貸したお金を返してほしい,という意味ですね。



実はこの「出世払い」について,とても興味深い争いが法律上あるのです。民法には,契約に付されるもの(付款)として,「条件」と「期限」についての規定が設けられています。いつか必ず到来するのが「期限」,必ず到来するわけではなく,成否未定であるのが「条件」です。



そして,いわゆる「出世払い」としてお金を貸した場合,その「将来出世したら」という合意は,はたして「条件」なのか「期限」なのか,という問題なのです。より敷衍して申しますと,「将来出世したら,その時に貸したお金を返してほしい。でも将来出世しなかったら返さなくていいよ。」という条件なのか,「将来出世したら,その時に貸したお金を返してほしい。でも将来出世しないことが明らかになったら,その時にすぐお金を返してほしい。」という期限なのか,という争いです。



私達が一般に持っているイメージとしては,「お金を貸してあげるから,頑張って努力しなさい。もし君が将来成功したら,その時にお金を返してくれればいい。でも,残念ながら君が出世することなく終わった場合には,もう返さなくていいよ。頑張りなさい。」というのが「出世払い」のように思います(実際に,ある民法の教科書には「一般的な社会意識からすると,「出世払い」とは「出世しなかったら,もう返さなくていい」という「条件」である場合が多いのではないか,と書かれています)。



ところが日本の裁判所は,大正時代の古い判決ですが,「出世払い」とは「期限」であり,出世しないことが明らかになった時には,貸主は返金を請求できる,という判断をしているのです(大審院大正4年3月24日判決)。







日本の民法は明治時代にドイツの民法を輸入して制定された,と言われています。でも欧米は歴史的に狩猟社会であり,狩りで他者を上回った者が獲物を得ることができる,という勝つか負けるかの世界です。そのため欧米の法律は,個々人を重視した「権利・義務関係」で構築されています。



それに対して日本は,長い間農耕を中心とした社会でした。農耕を中心とした社会とは,稲作をするために,水を地域農民で協力しながら使う社会であります。そのため日本は,個々人ではなく,「和」を重視する社会になったと言われています。その社会意識は,本来欧米のものを日本語に翻訳した法律の解釈・運用に関しても,日本独自のものを生み出してきた,と言われているのです。



例えば,日本は「本音と建て前」の社会である,と言われますね。本当は心の中で思っている自分の考えよりは,集団全体,社会全体の「和」を優先して,別の考えを支持するようなことですね。そして日本の民事裁判では,契約書に書かれている内容につき,「確かに契約書には○○と書かれているが,契約締結時には,当事者の間では●●という別な合意が成立していたのだ」という主張がされることが多いと言われています。



外国の法律家から見ると,別な意味が成立しているのなら,紙に活字として書かれた契約書を作る意味がないではないか,と言われるそうなのですが,その辺りは本音と建て前を使い分ける日本社会の独特の側面ではないか,と言われているのです。







上述した「出世払い」についても,社会的な意識としては「将来出世しなければ返さなくていいよ」と思われるような貸付なのかもしれませんが,実際には出世しないことが明らかになると「貸した金を返せ」という訴訟が起こされ,裁判所もそれを認めているわけです。世知辛い話だと言えばそれまでなのですが,なんとなくそこにも,日本人の建前と本音との二面性がちらりと見え隠れしているように思うのは,私だけでしょうか。