法科大学院の法曹倫理の講義でよく採り上げられる例として,以下のようなものがあります。



①弁護士Aが担当していた殺人事件で警察署に接見に行くと,被告人が「本当は殺したんだけれども,殺していない,と主張して無罪になりたい。裁判でもそう主張してほしい。」と言った場合,弁護士Aとしては,いかなる対応をすることが望ましいか。 



②①の事件で,被告人からの告白を受けた後,弁護士Aは,被告人が被害者を殺し
た後遺体を埋めたという山林に行き,該当場所をスコップで掘ってみると,被害者の
遺体が発見された。弁護士Aとしては,いかなる対応をすることが望ましいか。



法曹倫理などの本には,この問題は真実を知ってしまった弁護人が,真実を明らかにすべき真実義務と,被告人の弁護人としてのその利益を守るべき誠実義務との衝突の問題である,とされることが多い問題です。



しかし,私はこの場合に「弁護人は真実を知ってしまった」とすることには反対です。この事例において,①被告人が実は殺人を犯したんだ,と言ったから,さらに②被告人が言った場所から被害者の遺体が発見されたから,では被告人が真犯人だという保障はあるでしょうか。



実は,被告人は,その息子から「被害者を殺した。遺体はあの山に埋めた。」という話を聞き,その息子を庇っているだけである,という可能性はないでしょうか。



私たちは,法曹三者制度,つまり司法権を担うべく司法試験に通り法曹となった人達を,あえて裁判官,検察官,弁護人という3つの役割に分けた理由を考える必要があると思います。



それは,社会で発生した刑事事件を中心にして,検察官は検察官の立場から,弁護人は弁護人の立場からそれぞれ事件に光を当てる,そして裁判官はそれを中立的な立場から見て,さらに裁判官の立場からも光を当てるのです。



そのことにより,事件について,最も適切な事実認定ができ,最も適切な量刑判断ができるのだ,ということになると思います。



完全な人間がこの世に存在するならば,その人だけで司法判断を行えばいいところを,このような3つの立場から光を当てる制度にしているのは,「完全な人間はこの世には存在しない。」ということを前提として,それでも社会をより良い姿にしようと考えた,人類の知恵なのではないでしょうか。



とすると,弁護人の役割とは,あくまでも被告人に最も良い光を当てることにあるのであって,「被告人が『自分が殺した。』と言ったのだから,被告人が犯人に間違いない。」などという事実認定を行うことは,弁護人の役割ではないはずです。



弁護人が,自らの役割を見失い,勝手な事実認定を行い,最終的に訴訟手続において,被告人の無罪の主張をないがしろにすると,法曹三者がそれぞれの役割から最も良い光を当てることで,社会が求める結論が得られるという制度が,ゆがんだ形となってしまうのです。



弁護人の役割論,法曹三者制度の理解は,司法という国家作用の理解そのものに直結するのですね。