友情、家族愛 信仰 【9/15のTwitter】 | LEO幸福人生のすすめ

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ほんとうに深い友情って、そうそう得られるものではない 幸福の科学創立当時に総裁先生は、みなさん幸福の科学に集まってから、深い話が出来る友だちが出来て喜んでいるようです、といったことを言っていました 人生観、宗教信条をともに出来るような相手とは、それはどれほど深い会話が出来ることか

 

友情 … 。相手を信頼すること。愛すること。 それが真実のものであった場合には、相手からも信頼が返ってくる。 相互の信頼し合う心の結びつきは、それは深い深いものになりますね。 ソウルメイト、魂の友、信頼できる友というのは、かけがえのないものです。一人でも出会えたら、それは幸福、奇跡

 

宗教信条とか人生観というのは、心のもっとも深いところ、中心部にある、屋台骨みたいなものだし、心の中心ですね。 だからここを共有できる友人との絆というのは、それはそれは深いものになる。魂の絆になる。

 

家族の愛もあります。 家族であって、同じく神さまを信じて、他の人に優しくすることが大切、と理解しあっている家族との絆は、これは本当に深い、愛の絆だと思います。 家族は、どんなときでも助けてくれる、支えてくれる、無償の愛で、その愛への感謝は計り知れない。ほんとうに尊いもの。

 

心は階層になっていますよねー。 その深いところまで共有できる相手であるのか。 それとも表面のところまでの付き合いになるのか。 友愛は大事だけれども、心の距離の取り方も大事ですね。 だから、深く付き合う相手と、そうでない相手に分かれるのは当然です。 これは生きる上での智慧ですね。

 

深いところまで理解し合える家族、友だちが持てる人は、幸いです。 そういう相手との交流は、きっと前世からの縁が導いてくれた幸運だから、大事にしないといけませんね。 稀有なる、ありがたいことに違いないから。 心を許し、信頼できる友の有難さ。

 

「勇気の法」より 

 

信仰心のところは、人生の〝 奥の院〟の部分であり、その人が、どういう人間なのかという、 本質 のところ、最後の最後の部分に近いのです。   信仰のカードをお互いに切り合って、それでも友情をがっちりと結べるという段階は、かなり最終に近い段階です。

 

たまたま、親兄弟や 夫婦 などのなかに、 法縁 が深く、人生を共に生きられるような人がいれば、 隠し事なく、そうとう深い話ができるところまで行けるでしょう。しかし、友人のレベルで、そこまでの 法 友、 道 の友は、 生涯 にそれほど多くは出てこないものです。

 

友情は、 適度 な距離感を 保ちながら付き合うなかに、長くゆっくりと成立していくものです。そのように、少しずつ少しずつ高まっていくような関係をつくっていくほうがよいと思います。 (中略) 人間関係を 育んでいくためには、一定の距離を取ることが必要なのです。 引用おわり。

 

誰とでも深く付き合えるわけではないし、そうする必要があるのでもない。距離の取り方は大切。悪い友と付き合うくらいなら孤高の道を歩め、という釈尊の言葉もあります。 一方で、家族、友人と、信仰のところまでつながって深い話が出来るのは幸いであり、稀有なることとありますね。本当にそうだなぁ

 

「希望の法」には、友情というのは、たがいにきちんと自立してインディベンデントの人同士の友情は、成立しやすい、とあります。 どちらかが片方に依存するような関係は、長続きしないともあります。 互いに自立した者同士が、対等に結べるのが本当の友情なのだ、とありますね。

 

釈尊のことば。 

よい友人に恵まれるのは実に結構なことである。すぐれたもの、同等のものは友人として親しむがよい。もし、そういうものが得られなければ、正しい生活を旨とし、犀の角のように、ただひとり行動せよ。

 

無益なことを考え、邪悪の傾向があるような、悪友を避けよ。 (中略) 多く学び、法を保持し、高潔で、明確に判断するものを、友にえらべ。 (中略) 世間の遊びや、娯楽や、歓楽を喜ばず求めず、身を飾らず、虚飾を捨て、真実を語り、犀の角のように、ただひとり行動せよ。

 

以上、引用おわり 

 

お釈迦様の言行録をまとめた「スッタニパータ」渡辺照宏・訳より。 総裁先生は「勇気の法」で、最初の、犀の角のように、というお釈迦様の言葉を語ってくれていました。 悪友と付きあうくらいなら、犀の角のごとく独りにて歩め。 同時に、よき友人に恵まれるのは結構なことだとも。