ブログと 仏法真理の感想記事について | LEO幸福人生のすすめ

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幸福の科学一信者のブログです。
幸福の科学での学びを中心として、
読んだ本や、観た映画の感想などを書いています。
面白くて~わかりやすく、ためにもなるブログを目指しています!

ふつうの本は、内容を引用しつつの感想などを書いても、いいはずである。

 

仏法真理は、ふつうの本とは違うので、引用などするのは畏れ多い、という考え方もある。

 

だからといって、信者ブログを名乗りながら、本の感想らしきことすら全く書かない、というのが正しいのかといったら、そうとも思えない。

 

悪口や中傷を言いまくっているところは好き勝手にやっていて、まともな信者側の発信が無いのでは、バランスも欠くし、寂しすぎると思うし、ネット経由で知った人の印象も、そのバランスに左右される危険性もあるしね。

 

厳密に言ったら、信者発信の記事をチェックする機構があったらどうだろうか、というプランもあるが、その場合、まじめな信者はそうしたチェックを積極的に受けても、野放しのおかしな発言をしている人間は好き勝手にやるだろうから、やはり不自由感は否めない。

 

だからここにも戒律があって、正しき者はみずからを律し、過てる者は自制の心無く好き勝手にやり放題、という法則が働いているのだと思う。

 

信者として良識を持つのなら、みずからを律し、学びもしっかりと正統的に行なって、それで語るか語らないかを決めればいいのではないか、とも思う。

 

自己責任の名に置いて、しかして幸福の科学の名を辱めないように、むしろ高めることが出来るような方向で、語るべし。

 

 

信者として、仏法真理を初め、さまざまな思想の本を読んで、それも自分としては精一杯、真剣に読んできて、ここは大切だと思う、自分はこの言葉に深く学ぶことがあった、という程度の感想を書くのは、許されるのではないか、とわたしは思う。

 

逆に、真剣に学んできて、自分はこれを信じる、と思うに至ったことすら書いてはいけないのだったら、それもまた極端すぎる制約なのではないかとすら思う。

 

学んできて、これは価値あり、大切なことだと思う、ということを一信者として述べて、それがもし、信者だけでなく、まだ信者でない人の目にも止まって、自分もその本を読んでみよう、その法話を聞いてみよう、霊言も読んでみよう、と思ってもらうことが出来たら、それは黙っているよりも、有益な語り・感想を書いていることになるのでは、とも考える。

 

そういう考えによって、自分はブログ記事で、仏法真理の感想や古典名著の感想を書いているのだけれども、

 

これがもし、思想をねじまげ、間違った考えを喧伝するような内容であったなら、のちに厳しい罰を受けることになると思う。

 

しかして、きちんとそれなりに学んで、正しく理解する努力をして、そうしてその感想自体も、善き影響の方が多いような記事を書けたのなら、それは善になるのではないかと思う。

 

まったく感想や紹介的なことも書いてはいけないのだったら、まったく無関係のことしか書けなくなるだろうし、そんなことになるくらいだったら、ブログなどやめた方がいいな、とも思うし、それは12年ほど前にも考えたことだ。

 

あるいは、インターネットというものが、弊害ばかりが多くて、人類に益することが少なすぎる、というのなら、この技術自体が崩壊した方がいいのではあるまいか。そんな風にも考えることがある。

 

年配の人には、パソコンやインターネットの利用は難しく、まったく使わないで生きている人は大勢いるのだろうと思う。

 

そういうものに触れることなく、壮年期、老年期に入っていった人たちは、まったく未知なるアイテムの使用に、困難を覚え、興味も覚えないのは当然だし、いままで無くても生きてこれたのだから、死ぬまでそんなものには無縁でいってもいい、と考えてもおかしくないし、自分がその世代だったら、同じくそうしていたかもしれない。

 

若い人たちはどうなのだろう。全員が全員、パソコンやインターネットを使っているわけではないし、パソコンの利用者は激減しているそうである。

その代わりに、若い世代はスマホを必須として、これでインターネットにアクセスすること、日常茶飯事なのではないだろうか。

そういうなかで、ふと幸福の科学のことを検索した時に、

 

一信者が、どのように学んで、どのように真理の学びを生かして、人生を生きているのか。

信仰と愛について、どのような考えを持って、生きているのか。

そうしたことに目が触れる機会、そういう場所があってもいいのではないか、と思う。

 

一在家信者の発言は、幸福の科学本体の公式見解ではないし、信者それぞれで未熟な考えや発言も多くなるかもしれないが、それでもそのなかで、未熟なりに、真剣に、真摯に、真面目に生きている証しを語ることには、それなりの意義があるのではないかと思う。

 

間違った解釈や邪見を述べるのは、この限りではないけれども、教えから逸脱せずに、素直に忠実に学ぼうという姿勢をもって、そしてまた、謙虚に、うぬぼれることなく、一信者としての言葉を語ることがあってもいいのではないか。

 

そんな風に思って、わたしはこのブログを続けているんですけどね。

出来得る限り、プラスの効果を生んでくれているようであってほしいし、その逆にはならないように、自分を律して、自分なりの学びと感想を、書けたらいいなぁと思っていますね。