上は電子書籍で読める、現代語訳版。下は岩波文庫版。
この著作の第一章が 『愛する人を失った時』という、記事タイトルにもあげた表題だ。
愛する妻を喪った時の悲しみと、その悲しみのあまりの信仰と神への疑念と、それからふたたび深い信仰を得るまでの葛藤が、実に正直に述べられていて、内村鑑三の信仰と愛の深さを感じさせられる。
内村鑑三は、人の魂の不滅を信じ、永遠を信じていたが、やはり愛する妻を喪ってみると、その悲しみは耐えがたく、心は激しく揺れてしまう。
けれども私には一つ耐え難いものがあるのです。あの人は何故に不幸にして短命であったのでしょうか。あの人のように純白な心霊を有しながら、あの人のように全く自己を忘れて愛する者のために尽くしながら、あの人には一日も心痛のない日はなく、この世に眼を開いてから眼を閉じるまで、不幸と艱難が打ち続き、そうして後あの人自身が非常な苦痛とともに世を去ったのです。この解することのできない事実の中にどんな深義があるのか、私は知りたいのです。
なぜあれほど献身的で純粋、心素直だった妻が、不幸にして短命で亡くならないといけないのか。その疑問。
自分を無にして他者のために愛を捧げて生きた妻。心痛の無い日は一日とてなかったであろう妻。苦労ばかりの妻が、そうした不幸なる短命のなかで人生を終えてしまった。
納得が出来ない。なぜなのですか神よ、と内村鑑三は心のうちで問うのです。
私が失った人を思うたびに、私は常にほとんど耐え難い断腸後悔の念に襲われます。その人がこの世に在った時、私はその人の愛に慣れ、時にはその微笑に対して不興をもって報い、その真意を解することなく私に対する苦慮を増加し、時には怒鳴りつけ、甚だしきに至ってはその人が病中に私の援助を乞うた時 に----たとえ数ヶ月間の看護のために私の身も心も疲れていたとして も----言葉を荒げてその乞いに応じなかったことがありました。その人はすべてに柔和ですべてに忠実であったのに、私は幾度か冷酷で不実であったのです。これを思うと私は地に恥じ天に恥じて、報いるべきその人は亡くなり、許しを乞う人はおらず、私は悔やんでも悔やみきれない後悔に苦しめられ、無間地獄の火の中で我と我が身を責め立てるのでした。
生きているあいだは、妻の献身に甘えきり、それが当たり前になってしまっていて、十分な感謝の気持ちも持たずに生きてしまった。
病床から自分に頼みをしてくる妻に対して、あろうことか、言葉を荒げて拒否したこともあったという。
そうした過去の自分の不始末、恩知らずの行為を、内村鑑三は激しく後悔し、妻に謝ろうにも、その妻はもはやこの世の人ではない。
この、やり直しの聴かない後悔ほど、胸を激しく苛む苦しみは無い。
いまその人が蘇ってここにいてくれたなら、どれほどの感謝の思いでもって報恩のお返しをし、優しい気持ちで労わってあげるには違いないのに。
その償いさえ、いまとなっては行えないのだ。その慙愧の思い。
無間地獄のなかで、我が身を焼き尽くすような責め苦を受けているかの如き苦しみを、内村鑑三の魂は感じ、激しく慟哭する。
私はキリスト教を信じたのを悔やみました。もし私に愛なる神という思想がなかったならば、この苦しみもなかったでしょう。私は人間として生まれたのを嘆きました。もし愛情というものが自分になかったならば、この落胆もなかったでしょう。ああ、どうやってこの傷を癒すことができるのでしょうか。
キリスト教によって、神が愛であることを知り、他の人への愛に生きることの真実を学んだ自分が、いや、愛の素晴らしさを知ったがゆえに、それを失ったときのつらさ、悲しみはいっそう深くなる。
内村鑑三は、キリスト教を信じたのを悔やんだ、と言います。
愛ゆえに、それを失った時の悲しみは計り知れない。愛など知らねばよかった。
そう思うほどの悲しみ。
お祈りをする必要がどこにあるのでしょうか。
これは難問です。私は、愛する人を失ってから数ヶ月の間、お祈りを止めていました。祈らずに箸を取らない、祈らずに枕に就かないと堅く誓っていた私さえも、今は神のない人となり、恨みを抱いて食膳に向かい、涙とともに寝床に就いて、祈らない人となってしまったのです。
内村鑑三は、祈ることさえ止めてしまった、と述べています。
祈りなど何の意味があろうか。祈らずに生きる日々。あれほど真剣に決意したキリスト信徒としての日々を、放棄するが如しの深い悲しみと、神から離れてゆく心。
ここからいったい、内村鑑三は、どのように立ち直っていったのでしょうか
理屈にては、生命の永遠を信じ、不滅を信じ、そうして死後の生をも信じているのです。
しばしの別れは苦しいけれど、再会のときを楽しみに生きるべきこと。
そうしたことを、頭では理解している。けれど、心はそう簡単には納得しない。
愛する人を失ったことは、自分を失ったことなのだ、と述べつつ、
当時の心境をさまざまに語っています。
私は荒熊のようになって、「愛する人を帰してくれ」と言うより外はなくなってしまったのです。
希望と徳を有し、神と人とに仕えようと己を忘れた汝の愛する者が、今は死体となったからといって失望することがあろうか。科学も歴史も哲学も、みな希望を説いているというのに、どうして汝だけが絶望の教えを信じているのだ
内村鑑三は、自分の持っている知識・知恵を総動員して、みずからの心の苦悩を解決せんとする。
しかし、そんな程度では、この耐え難い苦しみは癒されない、解決できない。
私が愛する人は死んではいないのです。自然は自らの造化を捨てることはないし、神がその造られたものを軽んじることがあるでしょうか。その体は朽ち、死体を包んだ麻の衣は土と化したかも知れません。けれども、その心、その愛、その勇気、その貞節----ああ、もしこれらも肉体とともに消えるならば万有は我らに誤謬を説き、聖人は世を欺いたことになるでしょう。私は、どのようにして、どのような体で、どのような場所で再びその人を見るかを知りません。
その人が不死であって、自分がいつかその人と再会することができるとしても、その死が私にとって最大の不幸であることに違いはありません。神がもし神であるならば、なにゆえに自分の祈りを聞き入れなかったのか。神は自然の法則に勝つことができないのか。あるいは祈りとは無益なものなのか。あるいは自分の祈りに熱心さが足りなかったのか。あるいは自分が罪深いが故に聞き入れられなかったのか。あるいは神が自分を罰するためにこの不幸を自分に下したのか。それが私の知りたいことでした。
生命の不死であることを知っていても、愛する人との別れは耐えがたい。最大の不幸ではないか。
神はなぜ、わたしの祈りを聴いてくださらなかったのか。祈りとは何なのだ。無益にすぎないものなのか。わたしの祈りが足りなかったからか。
内村鑑三の心は激しく揺れる。愛別離苦のさなかにあって、信仰心をもゆさぶる激しい内面の葛藤。
祈った時は、必ず「もし御心に適うならば」という語を付したのです。自分の願い事を聞いてくれるならば信じ、聞いてくれなければ恨むというのは、偶像に願をかける者がすることであって、キリスト教徒のすることではありません。ああ、私は祈りを止めることなどできません。私は今夕から以前よりも熱心に、同じ祈りをあなたに捧げるでしょう。
祈る際には、自分のための祈りではなく、もし御心に適うならば、と祈るのが正しい祈りでること。それを守っている内村鑑三。
困ったときの神頼みや、助けてもらうことをねだるばかりの祈願ではない。それも知っている内村鑑三です。しかし、心はいまだ癒されない。
この深遠な疑問に対する答は二つだけです。すなわち、神というものは存在しないということ。あるいはこの地球より優れた世界の、義人のために備えておられるのだ、ということです。けれども、もし神がいないとすれば真理はありません。真理がないとすれば宇宙を支える法則はありません。法則がないのならば、自分も宇宙も存在するべき理がありません。ですから、自分自身が存在する限りは、この天この地が自分の目の前に存在する限りは、私は神がいないとは信じられません。
自分の悩みに対する答えは、二つしか在り得ない。
神はいないのかもしれない。
そこまで内村鑑三は悩んでいる。
しかし、神がいなければ、真理などというものは存在せず、宇宙の法則もなければ、自分がここに存在していることの意味もなくなってしまう。
そんなことを自分は信じられない。
やはり神は存在する。自分がここに在る以上、神がいなければ理が通らない。
私の愛する人は、生涯の目的を達したのです。その人の宇宙は小さなものでした。けれどもその小宇宙はその人を霊化し、その人を最大の宇宙に導く階段となりました。そうです、神は、神を敬う者のためにこの地を造られたのです。
妻の人生は、ささやかなものだったかもしれない。小さな宇宙にすぎないものだったかもしれない。
けれどもその小宇宙は、彼女の心が素晴らしければ素晴らしいほどに、美しく輝く小宇宙となったに違いない。
そうした考えに至ったある日、内村鑑三の心の中に、声が聞こえてきたといいます。
天からの声かその人の声かはわかりません が----私にこう語りかけました、「汝はなぜ愛する者のために泣くのか。汝には今もその人に報いる時間も機会もある。その人が汝に尽くしたのは汝から報いを得るためではない。汝がその身を顧みることなく、汝の全心全力をもって神と国とに尽くすためである。汝がもし私に報いたいのならば、この国この民に仕えなさい。
それが妻からの通信であったのか、はたまた天使からの指導の声であったのか、それは定かではありません。
しかし、声はこう言ったのですね。
彼女がお前のために尽くしたのは、お前からお返しがほしかったからではない。
その愛を受けて貴方は、世のための愛、人々への愛、そして神の使徒としての愛に生きるために、そのために私は生きたのです。
わたしの愛に報いたいのなら、この国のため、この国のために生きなさい。
そうした声が聞こえたのだといいます。
そう、今日からはこれまで以上の愛の心をもって世の憐れむべき人たちを助けよう。自分の愛する人は現身においても失われたわけではない。自分は今もあの人を看護し、あの人に報いることができるのだ。この国、この民は、私の愛する人のために、私にとって一層愛するべきものとなったのです。
一人の女性のために心思を奪われ残余の生涯を悲哀の中に送るのは、情は情ではあるでしょうが、真正の勇気ではありません。キリスト教は感性を鋭敏にするものですから、悲哀を感じさせる力も強いものです。けれども真理は過敏な感性を鍛え、無限の苦痛の中から無限の勇気を生むのです。
勇者は独り立つとき最も強し との言は、思うにその意味に他ならないでしょう。もし愛なる神がいらして勇者を一層勇み立たせようとするなら、その愛する者を奪い取る以上の方法はないでしょう。
私の愛する人の肉体は失せて、その人の心は私の心と一つになりました。真正の合一は、かえってその人が失われた後にあるとは、思ってもみないことでした。
そうです、私は万を得て一も失っていなかったのです。神もいます。その人もいます。
一読の価値有り。
信仰と愛。愛にささえられた信仰の強さを知るために。
オススメです。