宗教者であっても、病気になることはある、ということ | LEO幸福人生のすすめ

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幸福の科学一信者のブログです。
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2015年発刊の書。大川隆法先生による、信者の病気の原因を探るリーディング、あるいは過去世を読み解くリーディングなどが、複数収録されている。

 

熱心に神仏を信仰している人であっても、苦しい病にかかることがある、ということがよくわかる。

神仏を敬い、あの世も信じて生きているのだから、基本的にはそんなに間違った生き方をしているわけではないはずなのに、なぜか信じられないような重い病気にかかってしまう。

自分も他人事ではないですね。健康診断を受けると、すべて正常というわけには行かないことが多くなってくるし、

若い頃はそんなに食事などで気を使わなくても問題なかったとしても、歳とともに、バランスを欠いた食事や、不規則な時間帯での食事、その他の不摂生をしていると、身体のどこかに異常が現れてくる。

ブログを始めた頃にも、その前の年くらいから3年連続で、わたしは全身麻酔の手術入院をする必要のある病になったりしていたので、熱心に勉強しているつもりで、ブログ記事もせっせと書いていたけれども、病気は病気としてそれとは無関係の如く発症して、手術と入院が必要になってしまったりする。

 

よく思うのは、キリスト教作家の三浦綾子さんのことですね。

熱心な信者であり、敬虔にキリスト教の教えを敬い信じているのに、この方は若い頃から亡くなるまでのあいだ、ずっと重い病気を背負って生きられました。

この方以外でも、キリスト者にはそういうタイプの人がわりと多いようです。

 

なぜ、そうなるのか。

受難傾向があるから、みずからそういう苦しみを招き寄せている、そういう例もあるようです。

それからまた、基本精神としては熱心な信仰心を持っていたとしても、個別の事案に関しては、やや間違った考え方を持っていたりすると、その部分に対応した肉体のどこかに病気が出てくる、なんてこともあるらしい、と今では考えているんですが、

トップに紹介したリーディング本では、みな信仰心は熱烈なのだけれども、激しすぎる傾向性とか、燃え尽き症候群であるとか、あるいは自分の性格タイプには合わない無理な生き方がひずみを生んで、それが病気に転化していたりとか、パターンはいろいろあって、一般の人間では、自分のその病気の原因が何であるのか、なかなかわからないものなのではないか、と思います。洞察は難しいですね。

 

しかして大切なのは、やはり根本においては確かな信仰心を持ち、他の人への愛の気持ちを持って生きようと、そう思っている信仰者であるのなら、たとえどれほど大変な病気であろうとも、その苦しみによってあまりにも自分を否定しすぎたり、自信を喪失までする必要はない、反省すべき点や治すべき点は確かにあるはずだけれども、それは自分の生き方を根本からすべて否定するようなものではない、と捉えることも大切ではないのかなーと、読み返していて感じました。

難しいのは、その病が治らなくても、それもまた人生経験である、と達観して受け止められるかどうか、という点なんですかね。

祈願によって奇跡的な治癒を得る、あるいは、考え方を根底から改めたら、病根が消え失せた、ということが起きなかったとしても、それは信仰心が無かったから、というわけではない、ということも先のリーディング本その他から、しっかりと学びたいものだと思うのでありました。

 

最終的には、肉体はやはり借り物の乗り物なので、耐久年数はあると言うしかないし、歳を取ればいくらメンテナンスをしても、若い時のような健康バリバリで動く身体に戻す、というわけにはいかないのだから。

歳相応にやはり老いはやってくるし、肉体も弱ってくるのは、これは老に含まれる必然の部分もあるので、そのことをよくよく踏まえた上で、なお、できるかぎり健康体を維持するべく、自分として出来ることはする、健康管理や生活の改善その他、やれるべきことはやる、地上においては肉体保持のための努力もやはり必要、ということかと思います。