与える愛の実践が出来ていれば、相手からの善き反応があるはず | LEO幸福人生のすすめ

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自己中なタイプというのは、厄介なことに、自分が自己中であることに気づいてすらいないんですね。

お前は自己中だ、なんて指摘されたとしても、まったく他人事のように知らん顔をして、あろうことか、そういう指摘をした相手のことを、お前こそ自己中だ、なんて言って平然としていたりする。そういう図々しさが同居しているのが、まさに自己中人間ならではの特徴なんですが、なぜそこまで、自己の客観視が出来ないのだろうか、自分がいかに自己中で、周りから煙たがられているということにすら気づかないのか、途方もない自己中の怖ろしさと言うしかないところがある。

 

自分本位の言動ばかりをする人や、ひねくれた考えや偏屈な考えに陥っている人は、自分がどう思うかということばかりに邁進して、周りの人間たちの考えや、多くの人たちが共通して持っている常識から違った主張を平然としてくる。

それが独創的で魅力的な考えならまだしも、他の人を感化する力にもなりますが、多くの場合はそうではなく、一般常識から外れた非常識な独りよがりに過ぎないことが多いものです。

 

周囲の人の反応として、自己中心者に対しては、その人の存在が敬遠される、嫌がられる、要するに好かれない、という状態を生みますね。

自己中心な人が、周りの大勢から好かれたり、慕われたり、敬われたり一目置かれる、などということは、まず無いでしょう。会社で立場が上だったら、仕方なく仕事上だけ、その人を敬っているように見せる、ということはあるかもしれないが、心からの尊敬や信頼は、こういう自己中タイプの上司は得られない。その証明は、その人が定年退職をした時にも、かつての部下たちが信頼して集まってくるかを見ればわかるでしょうね。

 

俺は人類を愛している、なんて幾ら心で思っているつもり、言葉で表現して自分はそうであると思っていたとしても、自分がいまいる環境で、身近にいる他の人、家族や友人・知人、職場の同僚から、ちっとも好かれておらず、信頼されておらず、尊敬もされず慕われてもいなかったら、それどころか、煙たがられたり敬遠されているようだったら、この人は人類を愛するどころか、周囲の身近な他人すら愛することが出来ていないに違いないと、わたしは思います。

周囲の人たちを愛することが出来ていたなら、かならずやそれは、相手からの信頼や慕う心を誘発して、その人自身に帰ってきますからね。愛は相互的なもので、相手を本当に愛することが出来ていれば、相手の人もまた、自分を愛してくれている人の気持ちを察して、それが信頼や敬いの心を招くものでしょう。

 

だから、人を愛する、と自己を規定するのなら、それは心の中だけでなく、日記に書く文章だけで留まるのではなく、実際にそばにいる誰かを愛する、その人たちの役に立つ、奉仕の実践行を行なわないといけない、ということだと思いますね。

 

たとえば、こうしたブログ記事などでも、言葉で文章を書いているのだけれども、読んでくれている人に対して、本当に役に立つこと、大切なこと、愛の思いを込めて書かれたものをつづっていたならば、心善き人たちが読んだ場合に、その人の心に何かしらの善い余韻を残すはずでしょう。

ああ、良い内容を読ませてもらった、善い考えを聴くことが出来た、ありがたい、そんな風な感謝と喜びの気持ちを、そうした読者に与えてしかるべき。

これが出来ておらず、単なる不平不満を述べるばかりで、善き感化の言葉や思いが出ていないのなら、そういうレベルのものは、愛の実践の名に値しない、とわたしは考えますね。

 

大切なのは、他の人の反応を見て、みずからを振り返るべし、ということでしょう。

これは単にブログの話ではなく、リアル人生での他者との関わりにこそ、まさにそれが大切ということですが、

本当に、他の人のことを思って、与える愛に生きている、と言えるためには、それは言葉を実際に発して、行動に愛を込めて実践する、相手に対しての言動を実際に行なう必要がある、ということだと思います。

そうしてその結果、相手に善き影響を与え、感化力を持って、そうして結果的に、他者からの評価として帰ってくる、それが他者からの信頼であったり、慕われることであったり、そこで初めて愛の循環が完結するのではないでしょうか。

独りよがりの、自分は与えているつもり、というだけのニセモノの実践行では、相手の心に伝わる愛が無く、したがって相手からの信頼も決して得られないし、だから喜びの人生にもつながらないでしょうね。

 

周りの人たちから信頼される、慕われる、好かれる、愛される、あなたがここにいてくれて良かった、と言われるような人になりえて、はじめて本当の意味での、愛の実践行が行えている人間であるのだ、とわたしは思います。

その反対に、周りの人たちから敬遠されたり、あいつは偏屈だ、ひねくれたやつだ、自己中だ、などと言われているようでは、愛の実践どころか、その正反対の、独りよがりの、自分ではやってるつもり、だけの話に過ぎないのではないか。

そんな風にして、自己の言動の正否を判定する視点も持っている必要があると、そう私は思うのですね。

独りよがりにならないために、独りよがりのやってるつもり、実践しているつもり、というのは、他者からの好意的な反応が一切無いような、そうした自分だけの独りよがりの自己満で終わっているものです。他者からの善き反応が無いということ自体が、独りよがりの証拠だといってもいいでしょう。

そうであってはダメで、多くの人たちとの善き心の関係を築くこと、そのための実践行為が必要であって、その成果を自分の人生のなかで実体験する必要もまたある、と、そう近頃の自分的には思うのでありました。

みずからを客観的に分析する、知るためにも、他者の反応というのは重要なポイントですね。