エピクテトスの 『人生談義』が電子書籍で出たので、購入して再読している。
エピクテトス(50-135) はストア派の哲学者として有名。
生没年を見比べればわかるように、同じくストア派として有名な皇帝マルクス・アウレリウス(121-180)よりも、少し前に生きたローマ人。
1世紀から2世紀の人なので、まだキリスト教はローマで受け入れられてはいないどころか、異教徒のマイナーな宗教扱いだった時代に、その生をおくった人である。
だから、キリスト教から得た思想ではなく、古代ギリシアのストア哲学をよく学び、それを人生の教えとして、語ってくれた人物だ。
スイスのキリスト教思想家カール・ヒルティは、キリスト教の教えは深遠で難しいので、若い時にはまず、ストア派の哲学を学んだ方がよい、それから徐々にキリストの教えに入っていった方がよい、ということを述べている。
大川隆法先生は、このエピクテトスの考え方は面白くて、幸福の科学でも復刊する必要のある本かもしれないと、 『比較幸福学入門』で述べていました。
前置きはそれくらいにして、本編から、興味深い章タイトルのところを、引用しながら紹介しようと思うのですが、
第14章 神々はすべての人間を見守っていること
という章があります。
冒頭、エピクテトスに、ある人物がした質問が出ています。
「どうすれば自分がしたことのどれもが神によって見守られていると納得できるのか?」
という質問がそれです。
自分の人生が、神によって見守られているということが、どうしたら納得できるのか、あるいは感得できるのか、その手立てが何かないものだろうか? とエピクテトスに訊ねた人がいたわけです。なかなか興味深い質問で、エピクテトスがどんな返答をするのかが楽しみですね。
エピクテトスは、すべてのものは統合され、統一されていて、その頂点に神がおられるのだ、ということをさまざまに述べて、神はすべての植物の生成にも関与しているし、植物だけでなく、われわれ人間の肉体も、魂も、万有と結びついて存在しているのだ、ということも説明し、魂というのは神の一部分であり、その一片なのだから、神がわれらの行動のすべてを感知しないはずがないではないか、などなど、いろんなことを語るのですが、質問者は、
「わたしは今のお話の全部にはついていけません」と返答します。
それを受けて答える、エピクテトスの返答が非常に興味深い答えになっています。
誰が、全部を理解しなくてはいけない、などと言ったかね。君は神ではないのだから、神が何をしているのか、すべてを理解できるはずなどないだろう。
この返答は、すべてが理解できなければ信じられない、などという態度の誤りであることを述べているようでもあり、しかして全能の神を心から信頼して、自分の身を委ねて生きることが、神に対する正しい態度であるのだ、ということを示しているようにも、わたしには読めます。
エピクテトスの返事をそのまま載せると、このような答えです。
君がゼウスと等しい力をもっているなどと、だれか言っているのかね。
だけどね、ゼウスは自分に劣らぬものとして、各人のダイモーンにその人の監督者の役目をあたえ、各人を守護するようにさせたのであった。眠ることなく、かつ欺かれることのない監督者として。なぜなら、われわれひとりひとりの守護を任せるのに、ダイモーンよりすぐれ、より配慮する存在としてほかに何があるだろうか。
だから、ドアを閉めて部屋の中を暗くしたときでも、君たちがひとりきりであるなどとはけっして言わないように心がけておくのだ。
なぜなら、君たちはひとりきりなのではなく、その内部には神がいて、君たち自身のダイモーンがいるからだ。彼らには君たちが何をしているのかをみるのに、どうして光が必要だろうか。
君たちもこの神に対して誓いを立てるべきなのだ。ちょうど将軍が皇帝にそうするようにね。将軍たちは俸給をもらってなによりも皇帝の身の安全を優先することを誓うのに、君たちはこれほど多く、これほど大事なものを受けるに値するとみなされたのに、誓いを立てないのだろうか。
あるいは、誓いを立てても、それを守ろうとしないのだろうか。君たちは何を誓うのか。けっして神に背かないこと、神によってあたえられたものを咎めたり、非難したりしないこと、必要なことを嫌がらずにしたり、されたりすることである。
この誓いは将軍たちの誓いと同じようなものだろうか。将軍たちは皇帝よりほかの人を重んじることはないと誓うが、われわれの場合には自分自身をなによりも重んじることを誓うのだ。
神についての説明に、わからない、ついていけません、と述べる質問者に、
君が、神(ゼウス)と同等の認識力を持っていなければいけない、などということを誰が言ったのかね。
わたしたちは神ではないので、神がなさっている全てを理解するなどということが、出来るわけがないではないか。
けれども、その代わりといってはなんだが、各人にはダイモーン(守護霊)という存在が付けられているのだよ。
神は、人間ひとりひとりに、その人固有のダイモーンを付けて、そのダイモーンに各人を守護する、という役割を与えているのだ。
このダイモーンは、私たちと違って、眠ることも無く、ずっと私たちを見守ってくれているのだ。
私たちを守護してくれる存在として、このダイモーン以上に、わたしたちのことを一生懸命になって、配慮してくれる存在はないのだよ。
ドアを閉めて、暗闇の中で孤独のように思ったとしても、実際は孤独ではない、わたしたちの心の奥底には、神さまがおられて、それだけでなく、わたしたちを見守るダイモーンがそばにいてくれるのだ。だから人は、決して孤独ではないのだ。
だから私たちは、ダイモーンの前で恥ずかしくない生き方をすべきなのだ。
彼らに対して誓いを立てること、神に対しても当然のごとく誓いを立てて、心正しく生きるべきこと。
言葉で誓うだけでなく、その誓いを実践することが必要、言葉だけで実践しない、守らないのでは意味が無い。
神に背いてはいけないし、神が与えてくれたものに、文句を言ったり、ケチをつけたりと、そうした不遜で傲慢な態度であってはいけない。
それが必要なことであるのなら、嫌がらずに行なうべきだし、不当な仕打ちのように感じることがあったとしても、人生の試練として甘受する気持ちを持つこと、忍耐の気持ちを学ぶことも、時には必要である。
神仏に対する敬虔と従順、それから人間としてやるべきことの中には、イヤなことでもしなければならないことがあるのだし、苦しい経験でもあえて受けて耐えねばならないこともある、忍耐の美徳を学ぶためにそうした試練があるのかもしれないのだし、そういったさまざまな視点を、エピクテトスは語って、わたしたちに教えてくれているわけです。
ダイモーン、守護霊についての言及が、興味深いですよね。
これは、キリスト教ではなく、ソクラテス・プラトンから来ている、魂の秘密についての説明であり、ギリシア的なる魂の構造論、神と人間の魂の関係学でもあると、わたしは思います。
恐るべきは、その内容の精確さ、正しさですね。いまの視点でいっても、このエピクテトスが語る、ダイモーンの働き、人間個々人との関係についての説明は、正しいものであって、しかも現代人の多くがいまだ知らない、魂の神秘の開示であると、わたしには思えます。
エピクテトスおそるべし! ギリシア哲学にある神と人間の関係性への理解の深さ、おそるべし! と言うべきでしょう。
上下巻で岩波文庫で出ていますが、章題を見ただけでも、読んでみたいな、と思わせるテーマが盛り沢山ではないでしょうか。
以下に数例、転載して紹介しておきましょうか。
・われわれの力の及ぶものとわれわれの力の及ばないもの
・神が人間の父であるということから、どのようなことが結果するのか
・われわれが神と同族であることから、人はどのような結論に到達するのか
・愛情について
・心の満足について
・どうすれば神々に気に入られるようにそれぞれの行動ができるのか
・神々はすべての人間を見守っていること
・間違っている人に腹を立てるべきでないこと
・困難な状況にいかに対処すべきか
・大胆であることと用心することは矛盾しないこと
・心の平静について
・哲学者たちの教説をただ言葉だけで取り上げる人びとに対して
・語る能力について
などなど。他にもさまざまな章題あり、です。