「私たちが知ることの出来ないもの、見ることの出来ないもの、それが最も重要なものである」
トルストイは、そう言っている。
では、私たちが知ることの出来ないもの、見ることの出来ないものとは、いったい何だろうか?
「信仰は、人間の精神の避けられない特質である。人間は、何かを信じているものである。人間にとって信じることは、避けられないことである。なぜなら、人間は自分が知っているものとともに、なお自分が知ることの出来ないものとの関係に入っていく。そして知ることの出来ないものが、何であるかということを、知るようになるのである。信仰とは、知ることの出来ないものとの関係を言うのだ」
信仰の世界――が、それであるのだ、ということ。
目に見えない世界、五感では認識できない、知ることの出来ない世界、そういう事象を、人は信じている。
人は、自分が知っている世界、この三次元世界で、見たり聞いたり触ったりして、知っていると思っている世界のなかで生きるだけではなく、
なお、自分が直接的には感じ取れない、知ることの出来ない世界をも同時に、信じる、という行為によって受け入れて、そうして生きている。
知ることと、信じることと、その双方ともを心に抱いて、そうして生きている。
信じるということ、信仰というのは、知ることの出来ないものと関係を持つことだ、とトルストイは言っている。
そうして、その信じる、という行為を通して、それが何であるのか、どういう世界であるのかを、知ることが出来るようになってゆくのだ、とも言っているのだ。
広大なる、信の世界、まだ知ることの出来ない遥かなる世界、大いなる世界のことを、
人は、偉大なる方々の教えを通して、信じ、その信じる行為がその人の知を、さらに増やしてくれるのだということ。
信を通して、知の世界がさらに拓けてゆく。
信の世界の一部に知の世界が含まれる、知とは信の中にあるもの、含まれるもの、知は信より小さく、信は知よりも大である。
人間は何かを信じているものである、というくだりを読んでいると、
無神論者であっても、神はいないという傲慢なる誤謬を、信じている、と言えば信じているのだな、とふと思った。
そうしてまた、わたしは神を信じている、といくら自分で言い張って主張しても、その神への信仰、理解が、独りよがりの間違った信仰でない、という保証はない、とも考えた。
わたしは神を信じている、しかしてその信仰は、神さまから見たら、正しい信仰として認められるような、そうした信仰だろうか?
間違った信仰、神理解、自分では神を信じ理解しているつもりだが、とんでもない間違った認識をして世間に吹聴したら、この人は無神論者以上の悪を為していることにも、なりかねない。
だからこそ、人は神仏に対する際に、謙虚な気持ちを持ち、自分の認識にはまだまだ足らざるところがあるという、自分に対する厳しい姿勢を持っていないといけないのだと、あらためて思うのである。
間違った仏教論、間違ったキリスト教解釈が、どれほど人類に対して精神的なる害毒を流してきたかを思うと、正しく宗教の教えを理解することの大切さが、痛感されずにはいられないと思うのだ。
果たして自分の信仰は、神理解は、宗教への理解レベルは、神仏の側から見て、OKをもらえるような、そうした信仰と認識であろうか。
自分が主張する見解が、他の人にとっても間違いなく、正しい信仰観と認識世界を伝えることに貢献しえている、そうした内容になり得ているだろうか?
神や仏という言葉を使って、宗教とはこれこれこうである、信仰とはこうである、宗教的なる学びにはこういう姿勢が要るのではないか、戒律の重要性はこれこれこういう点にあるのではないか、などと述べる際に、
それが、神仏に知られても、まさにその通りだよ、と言ってもらえる内容になっているか、それとも、その人個人の勝手な歪んだ解釈・解説になっていないか、その自己チェックはどうしても必要であると、わたしは思う。
多くの人たちの目によっても、その正否は判定されることだろう。独りよがりを避けるためには、厳しい自己チェックだけでなく、他の人の目に入ったあとで、その言葉がどのような作用を及ぼすのかを見ればいい、とも思う。
真実の言葉や理解であったら、それは、その言葉を知った別の人にも、善き心の影響を与えることだろうと思う。
歪んだ解釈や間違った思想理解であったなら、それに賛同する別の人にも、悪しき影響を与えて、ともに闇の中へ堕ちてゆくことになるだろう。
真実の世界を、心謙虚にして、己に厳しく、神仏への尊崇の心を常に堅持して、求めつづけてゆこう。
そうして、光ある思いの世界を、光あふれる言葉でもって綴れるような、そうした人間になれるように、自己研鑽を続けていきましょう。