老人には安心されるように、友達には信ぜられるように、若者には慕われるようになること | LEO幸福人生のすすめ

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佐藤一斎の 『言志四録』 

タイトルにある 『言志』とは、志しを言う、という意味合いで、これは 『論語』中にある次の箇所、孔子と弟子の対話から選ばれているのだという。

 

(書き下し文)

顔淵・季路侍(じ)す。子の曰わく、盍(なん)ぞ各々爾(なんじ)の志しを言わざる。子路が曰わく、願わくは車馬衣裘(いきゅう)、朋友と共にし、これを敝(やぶ)るとも憾(うら)み無けん。顔淵の曰わく、願わくは善に伐(ほこ)ること無く、労を施すこと無けん。子路が曰わく、願わくは子の志しを聞かん。子の曰わく、老者はこれを安んじ、朋友はこれを信じ、少者はこれを懐(なつ)けん

 

(現代日本語訳)

顔淵と季路とがおそばにいたとき、先生はいわれた、「それぞれお前達の志望を話してみないか。」子路はいった、「[私の]車や馬や着物や毛皮の外套を友達と一緒に使って、それが痛んでも、くよくよしないようにありたいものです。」顔淵はいった、「善いことを自慢せず、辛いことを人に押付けないようにありたいものです。」子路が「どうか先生のご志望をお聞かせ下さい」といったので、先生はいわれた、「老人には安心されるように、友達には信ぜられるように、若者には慕われるようになることだ」

 

まず先に、孔子が弟子たちに向かって、お前たちの志を述べてみなさい、と問うている。

それに対して、子路、顔淵が、自分の志を言うのだが、その後で今度は子路が孔子に向かって、先生の御志をお聞かせくださいと問うと、孔子は、

 

「老人には安心されるように、友達には信ぜられるように、若者には慕われるようになることだ」

 

それが理想だ、わたしの志だ、と述べているんですね。

 

これは一つの至言であり、孔子さまの理想というだけでなしに、すべての人が学ぶべき理想でもあるし、志、目標とすべき、人間としての在り方ではないかと、わたしは思うのでありました。

 

老人には安心されるように――。

わたしは、あなたは、老人に安心されるような人格たりえているでしょうか。

 

友達には信ぜられるように――。

友達に信じられるような人間たりえているでしょうか。

 

若者には慕われるように――。

年齢を重ねるごとに、自分自身は若者ではない世代に入ってゆく。

そうした時に、自分より遥かに年下の若者たちに慕われる、そうした人格をはたして自分は、築くことが出来ているだろうか。

 

老人には安心され、友だちには信じられ、若者には慕われる。

 

自分自身をこの観点からチェックしてみるとするならば、

お年寄りが大勢いるなかに入っても、まぁ結構わたしは、安心され、頼られる方です。

自分で言うのも何ですが、経験上から言っても、そう言っても許されるかなぁ、というだけの評価は実際に受けたりしているので、お年寄りには安心されると思いますよ。

 

友だちには信じられ――。これはどうだろうか。友達というか、一緒に働いている同僚、仕事仲間から、信じられているだろうか。

仕事上の信頼関係、人間としての信用性。これは有るだろうか。

いま現在はたらいているところでは、まぁこれも、イエスと自分的には言えるかなぁ。

信用され、頼られ、信頼されているかな、まっとうな人たちの中では特に、そういう評価はそこそこ得られていると思いますが、それは自分の主観的な思い込みではなくて、けっこう頻繁にそういったことを複数の人から言われたり、間接的な評価として、現に聞いたりしているので、だから自己満足ではなくて、客観的にみても、そこそこはイエスと言えるかなぁ。

 

若者には慕われるだろうか。若者といったら、20代10代、あるいはそれよりも下の子供たちから、慕われるだろうか、好かれる人格であろうか。

子供には好かれるかなぁ、よく懐かれるし、これもまた実体験からして、小中学生たちを教えた経験もあるし、高校生も複数教えたこともあるし、それから今などは仕事上でも20代の若者と一緒に仕事をすることがもちろんありますが、まぁ慕われるといったら自惚れすぎかなと思うので、これまた信頼、ということでいったら、信頼されている方かな、と自分では思いますし、20代の子らに実際に訊いてみたら、ああレオさんは信頼しています、とたぶん言ってくれると思うなぁー(笑)。

 

ということで、

老人には安心され、友だちには信頼され、若者には慕われるように――。

この、孔子さまの理想を、すでにマスターしたなどとは言いませんが、その目標に沿ったかたちでの、自分としての人格づくり、いろんな世代に対して、自分としてのあるべき姿の方向性、というもの、人格づくりのための修行課題、方向という意味では、そんなに遠くない、というか、道は間違っていないと、これは自信を持って言うことが出来ると、自分的には思います。

自分に甘く、ゆるく自己評価してそう思いあがるのではなくて、他の人たちからの実際の評価をふまえての客観評価として、自分をそう見ても間違いはないだろう、という意味で、そう述べたいと思いますね。

 

これは、逆の目から見てみたら、

老人たちの中にあっても、世代が違い過ぎて話も合わせられない、浮いてしまう、という人間であっては、安心されている、という状態には決してならないでしょう。

老人のなかにあって、馴染むことが出来ずに浮いてしまっているようでは、まだまだ人格に足らざるところがあると言うしかないし、磨けていない部分が多い、と言うしかないし、それは主として、性格、人格、人柄という意味において、優しさや穏和さ、あたたかな性格、気立ての良さ、という要素を欠いてしまえば、これはお年寄りの中にあって安心されるに足らざる人格要素がまだまだあるぞ、ということでしょうしね。

 

それからまた、友だちに信じられない、というか、そもそも友と呼べる仲間がいない、同僚たちの中にあっても、信頼もされず浮いてしまっている、あいつは変わっている、とか、変なやつだと言われて溶け込めない、そういう孤立した生き方にもしなっているとしたならば、これは、信じられる、という課題からは程遠い状態になってしまっている、ということにもなりましょう。

若者に対しても、慕われない、どころか、ここでも距離感があって、信頼されない、世代のギャップがあって、そもそも話も合わせられない、というのであっては、自分より年上にも年下にも、さらには同世代にも合わせられない、そのどの世代とも親しく交われないで、孤立しがちな性格・人格である、となってしまったら、これは人間同士の信頼関係を築く能力、という観点からしたら、いちじるしく修業が足りていない未熟な魂状態、ということになってしまいますしね。

 

人は、自分の心を磨く、魂を磨く、頭脳を磨く、という意味において、自分の内部に沈潜して、自分自身を深く見つめる個人修行がどうしても必要ですが、それが単に、自分の中にのみ籠る、自分の内面のみにのめり込んで、外にある世界を見ない、他の人たちへの関心が薄い、というのであってはダメなのであって、自分を磨きながらも、他者との交流も深める人生を歩むのでなければ、なんのために人間社会のなかに出て来たのか、ということになってしまう。

ただ独り孤立して、自分の気の向くまま、自分に関心がある自分一個の興味にのみ走るだけなら、あの世の自分の住み処に独り閉じこもって、本ばかり読んでいればよいことになってしまう。

実際、この世に出てきても、本を読んで知識を増やしたり、教養を深めることは大切だけれども、それが単に、自分一個の自己満足のために、自分の興味関心ばかりに走って、その方面の知識を増やせばいい、という話ではありませんからね。

そうした自己本位の読書と知識の集積が、自分はこれだけ見識を深めたので、他の人よりもよっぽど深く勉強をしてきたのだ、だから自分は他の人より優秀であって、そんな自分が孤立したとしても、それは周りの愚かな人間がダメなのであって、自分はあくまでも優れていて抜きんでているのだ、などといった自惚れ状態を生むだけであったなら、この人の勉強は根本からして間違った方向へ向いている、と言うしかないでしょう。

自己満足と自惚れのためだけに終始している勉学は、単に自己を飾り、エゴの満足のための理論武装のための鎧にしかなっていないのであって、これは豊かな人格や、あたたかな人柄、他の人たちと相和して、親しくまじわる、慕われる、愛される、安心される、そういった魂修業の気持ちが欠けているので、真の意味で自分を活かす智慧になっていないんでしょうね。

知識が自分を飾るための、自分を正当化するための理論武装としての勉学にしかなっておらずに、愛を深めるための勉強という観点が根本からして抜け落ちている。これは、勉強をしているつもりが、実は勉強になっていない、人格を磨くための勉強になっていない、という意味で、知識を外面的に集めているだけで、内面を深めるための知識として生かすような、そういう勉強が出来ていない、ということになることでしょう。

死んでのちに、地獄に堕ちてしまうだけであったら、いくら膨大な数の本を読みこなしても、その読書は空しい、知識を山ほど集めても、人格を深め広げることに何の役にも立っていないガラクタの集積でしかなかった、ということになるでしょうね。

これは、仏典や聖書その他の聖典、聖賢の書や偉人の伝記などを読んでも、それを他人事のように傍観するのみで、そこから自分の人格育成するための教訓をつかむ、自分の魂を磨く、ということに役立てないような読み方をした場合には、仏典を読んだつもりが実は読めていなかった、聖書を読んだつもりが魂で学んでいなかった、論語読みの論語知らず、真理の書を山ほど読んだが、自分の魂を磨く糧としての適用を怠っていた、自分の魂を磨くという課題をほったらかしにして、知識の収集自体が価値があると勘違いしていただけ、ということの結果だと、わたしは思います。

 

やはり人間は、魂としての存在であって、自分の魂をどれだけ豊かにし、深いものにして、それによって多くの人たちの中にあって、重要なる存在となってゆくことが大切なのだから、人格の陶冶や豊かな人柄を自身が備えるための、そうした人生論的な学びがつねに大切、学びの優先事項とすべきなのではないかと、わたしは思うのでありました。

だから冒頭の言葉に帰れば、佐藤一斎先生が着目された、孔子さまの言葉。

 

「老人には安心されるように、友達には信ぜられるように、若者には慕われるようになることだ」

 

こういった課題をこそ、自分自身の人生を歩む際の、遠大なる目標、目指すべき方向性、人生の指針として掲げて生きることが、大切なのではないかと思うのです。