地獄についてあらためて考える ~「色情地獄論」を読んで~ | LEO幸福人生のすすめ

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子供の頃、地獄絵図を見て、衝撃を受けた。

こんな酷い世界が、ほんとうに有るのか?と。

 

地獄の責め苦は、肉体的な苦痛を伴うもの。

といっても、ほんとうは既に肉体は無いはずであるのに、責め苦の苦しみは、肉体の苦痛の如きの苦しみであるようにしか、見えない。絵図を見ても、そう思える。

 

生前、自分が肉体人間であるとしか思っていなかった人間。

霊としての存在なのだ、とか、魂こそが本質なのだ、肉体は乗り船に過ぎず、死ぬとその肉体から離れて、魂のみの存在となる。

 

そうした霊的真相のことなど、考えることすらしなかった人間こそは、

まさに自分のことを、肉体としての自分としてしか、捉えていなかった人生そのものだろう。

 

こうして、肉体我に囚われて、肉体煩悩に振り回された人生を生き、そうして死後もなお、肉体的欲求を捨てきれずに、煩悩を身にまとったままの魂は、

 

煩悩を果たすための肉体が無いがゆえに、その欲望を果たそうとしても果たせない、という状況に置かれるわけだ。

求めても得られない欲望、食べ物への欲もそうであるし、異性への肉体的なる欲望、金銭を求める欲望、名誉欲に出世欲、野望、その他、さまざまな、この世的なる欲にまみれた魂は、霊エネルギーだけの世界では、果たすことの出来なくなった肉体的欲望を、それでも求め続ける。

求めるが、その対象は、あの世には存在しない。求めては消える蜃気楼のように、そうしたビジョンが具現化する世界で、それが幻であること、自分が求めているものは虚妄であることを痛感するまで、そのことを当人が自覚するまで、欲望の暴流のなかで悶え苦しむしかない。

 

ルドルフ・シュタイナーは、肉体特有の欲望を脱却できていないと、肉体から離れた時にも、その欲望に翻弄される状態は続くので、しかしてもはや、その欲望を叶えることは霊的世界では不可能となるがゆえに、求めても得られず、悶えても満たされないという状態に、魂は置かれて苦しむことになるのだと述べていたと思う。

これは、地獄の世界の仕組みを、抽象的な観念用語で説明した箇所であったのだと思うし、これは具体的なる地獄の諸相やビジョンと照らしても、その通りなのではないかと思う。

 

肉体の自分を自分と思い誤っていた人間は、死して魂となった後にも、肉体的なる姿を持った自分を、いまだに自分自身だと勘違いしている。

肉体こそは我である、という思い違いを治すには、その肉体に惑った状態が間違いなのだということを、肉体的な苦痛によって悟る以外に無いのかもしれない。

 

 

 

 

幸福の科学の新刊、地獄論に関する霊言(「色情地獄論」)を読んでいると、あらためてそのことを考えさせられた。

 

これは、虫歯が激しい痛みを生ずるがゆえに、はじめて自分の歯に異常があることに気づくのと同じ理屈であって、肉体我としての自分が誤りであることに気づくには、肉体的苦痛を感じることによって、どこかがおかしいと悟る以外にないのかもしれない。

なんの痛みも無く、ただ霊体としての自分でノホホンと暮らせてしまったら、自分の生き方や考え方に、致命的な間違いがあることに気づきもせず、地獄霊なのに反省をまったくしないでノホホンと暮らせてしまう、ということになってしまうのだろう。

そうならないために、自身の間違いを悟る必要があるのであって、だから肉体に囚われた人間には、肉体を通しての悟りの機縁が与えられる。

それは肉体的な苦痛を感じることによって、なぜそうした目に自分が遭うのか、ということを考えさせられる体験をする、ということなのかと、霊言を読んでいて、あらためて考えさせられた次第である。

非情な世界のようで、実はそうではない。荒療治のように見えて、実はそれが一番、その魂の過ちがどこにあるのを、もっとも端的に、ストレートに、直覚的に認識させる、最良の学習方法だからなのだ、という意味を、わたしは霊言から学ばせてもらったように思う。

 

ワガママ勝手な自由がいい、といくら言い張っても、そんな自分勝手は霊的世界では許されない、ということも、よくわかる。

責任を伴わない好き勝手主義、他者に迷惑をかけようが知ったことかという自分勝手な人間の言うエセ自由論は、決して認められることは無いのだ、ということ。

そういう誤魔化しは一切通用しないし、言葉の上でいくら屁理屈を並べても、自己正当化の詭弁が通用するほど、宇宙は甘くはないのだ。

そういう人間の述べるニセモノの自由論は、その誤魔化しの仮面を剥がされて、言っていた当人は、地獄という名の牢屋に閉じ込められて、自由の正反対である、不自由な牢獄で暮らすことになるのである。

 

戒律が嫌だ、宗教は戒律で縛るからイヤだ、といって、だから自分で好き勝手に生きるのがいいのだ、と言い張る自由論も、同じくエセ自由論にすぎないのであって、これはルールを守りたくない身勝手主義を、自由という美名で誤魔化そうとする偽善であろうと思う。

本当の自由は、戒律を伴う心にこそ宿る魂の自由なのであって、みずからを律する精神を持った、戒をたてて自らを戒める厳しさを持った人が、手に入れられるものこそが、矩を超えない真実の自由なのだ。

戒律を縛りとしてしか考えられず、束縛だからイヤだと言って逃れようとする者は、結果的には、魂の自由を獲得できずに、自分勝手主義が必然的に到達する、不自由なる魂の牢獄、地獄へ向かうしかなくなるのだと、わたしは思う。