心の学び 魂の学び 外的な知識や情報収集との違い | LEO幸福人生のすすめ

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外的な知識や情報というのは、ある程度勉強すれば、それなりの見識として身に付くことはある。

けれどもこれは、魂の悟りの深さや、心の深さとは、必ずしも直結しないし、要するに、いかほど知識が豊富に見えても、魂としての悟りは未熟、という状態に陥らないように、心の学び、魂の学びは常に、もっとも真剣に打ち込むべきだと、わたしは考える。

 

内村鑑三さんは、他の人が悲しみに打ちひしがれている時、自分が言葉をかけても相手がその言葉に感応しなかった場合、相手の信仰心が薄いからだ、理解力が低いからだ、といって責めてしまったと、のちに反省している。

自分が何がしかの見識を得て、自分は他の人を導ける、人を指導できると自負する時、人は上から目線で他者に教えようとし、相手が理解しなかったり反発したりすると、その人の信仰心が足らないからだ、理解力が低いからだ、といって難じることがある。

これは、宗教や思想に打ち込んだ場合でも、初歩レベルの段階で陥る、慢心であり、自惚れであり、自分はそこそこ学んでいるのだという自惚れ以外の何ものでもないのだろう。

 

本当の意味ではわかっていない。他人事である。抽象的な言論でのアドバイスに過ぎない。真の意味での共感になっていない。同悲同苦には程遠い。

それがわかるのは、自分自身が、その相手と同じような悲しみに出会い、遭遇し、その悲しみがいかほど深いものであるのか、悲しいものであるのかを、知った時だ。

我が事として体験した時に、人は初めて、その辛さをそれこそわが事として痛感する。そんな甘いものではないのだ、ということを知る。

愛する者を失う悲しみ、絶望的なまでの苦しみ、そういった体験の数々。

 

自分は、魂は永遠の生命を持つことを知っている。だから愛する者との別れは、しばしの別れでしかなく、ふたたび相まみえることもあるのだから、そんなに深く悲しむことはない。だからあまりに悲しみすぎることなく、相手の魂を見送ってあげよう。

そういう理解の出来ていた内村鑑三さんにして、愛する妻を失った時の実際の苦悩は、そんな言葉だけの理解でわかった気になれるほど、簡単に解決できる問題ではなかった、と述べている。魂の慟哭、別れの悲しさ、あまりの悲しさ、絶望的なまでの悲嘆、神が愛であるならば、なぜ私のもとから彼女を奪い去ってしまうのか、祈りに応えて助けてくださらないのか。

神が愛であると信じていればこそ、いっそうこの悲しみは深い。愛の神ということを知らなければ、わたしはここまで悲しむことはなかった。なぜ神は愛なのに、愛する者を死によって分かつのか、それを望まぬ時に、まだ必要だと当人が思っている時に、人間側の都合にはお構いなく、天が与えた寿命によって、ある者は長く生きても、ある者は短い人生で終わってしまう。そこに生じる愛する者との、予期せぬ時の突然の別れ、愛別離苦。

 

この葛藤に対して、内村鑑三さんは、宗教的なる答えを見出し、いっそう深き信仰へと至るのですが、わたしがここでテーマ的に伝えたいのは、そのことではなく、

 

知識や情報、さまざまな理解している「つもり」でいるもの、それらのうち、本当にその人自身の、魂の悟り、心の悟り、と呼べるものは、どういったものなのか。

それは、外面的な知識の収集ではなく、宗教知識や哲学知識、思想理解であっても、それをどこまで、魂の糧とするほどの、深い理解が出来ているか、ということだ。

 

人は死んでも死なない。魂は死なず、肉体が滅びても、魂は永遠の生命を持つ。

そのことを、文章として、言葉として、知っているつもりだったとしても、その理解の深さは、それこそ人それぞれだろうと思う。

単に、抽象的にそう思っているだけの人もいれば、そういう転生の秘密、生命の秘密があったとしても、だからこそ、わずかの人生での邂逅は尊い、永遠であっても、今世における別れの悲しみは消えるものではない、それほどの、この世での出会いは奇跡の出逢いであり、助け合い、与え合いの関係を、当たり前と思ってはいけない。感謝と報恩を忘れずに、いつ別れが来るかもわからない、という覚悟をもって、一瞬一瞬を、一時一時の語らいを大切にする。

そこまで深く理解している人と、そういう意味での、魂としての理解の深さ、学びの深さ、人生観の深さの違い、というものがあるのだ、ということを考えて、安易に出来上がってしまってはいけないのだ、と思うのである。

自惚れてはいけない、分かった気になってはいけない。なりきってはいけない。わかっているようでいても、まだ十分にはわかりきってはいないのではないか、そういう謙虚さも持っていないといけない。

内村鑑三さんが、自分の宗教的見識でもって、他者を導こうとアドバイスした時に、相手の理解が足らないことをもって、相手を難じ、信仰心が足りないからだといって、相手を見下したことを後悔したように、

人は、分かった気になってしまうと、どうしても上から目線で人に対して偉そうにモノを言いがちになってしまう。

自惚れや自信、自信を持つことは大切だが、かなり自分はわかっているつもりである、などという気持ちになっている場合には、これは自信と言うより、自惚れ・慢心に傾いているのではないか、と私は思う。偉そうに言ってしまっている時は、まず間違いなく、それはすでに自惚れた状態ではないかと思う。

まだまだ自分は完成された人間ではない、修行途中の人間に過ぎない、未完成であり、学ぶ途中の自分が、他者に何がしかのアドバイスをしているにすぎない、という謙虚な姿勢、腰を低くした生き方を、忘れてはいけないのだと思うのだ。