ヘレン・ケラー ~楽観的に生きるということ~ | LEO幸福人生のすすめ

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こんな本を見つけました。ヘレン・ケラーのことば。これは電子書籍限定本なのかな。

 

 

多くの人は、富や権力、芸術や文学で得た評価の中に幸せを探しますが、自分の心を探求し、知識を追求する者はわずかしかいません。 多くの人は、肉体的な快楽と、財産を所有することで幸せを測っています。

 

多くの人が、この世的なるものばかりを追い求めて、自分自身の心を探求することを忘れている。

心を活かすための知識を求める者は、ひじょうに少ない。

ヘレン・ケラーは、そう述べています。

 

外的なもの、物質、金銭、名誉や地位、他者からの称賛・評価。

そんなものを求めるよりも、自分自身の心を深く掘り下げることの方がずっと大事なのに、そのことに気づいてすらいない人がほとんどなのではないか。

そう、指摘してくれています。

 

もしこれらが幸せの尺度となるのならば、私のように見えない、聴こえない者は部屋の片隅で悔しさに両手を握り締め、泣くしかありません。

私が恵まれない境遇でも幸せで、そしてその幸せが信仰と言えるほどに深く、人生の哲学となるほど思慮に富んだものであるならば、つまり私は楽観主義者であり、私の楽観主義の信念や言葉は聞くに値するということになるのではないでしょうか。

 

 

もし上のような外的なるものが、人間の幸福を決める決定的な要素であるのなら、自分のように、目も見えず耳も聞こえない人間は、決して幸福になれないことになってしまう。

はたして神さまは、そんな風にして、肉体に不自由を負った人間は決して幸福になれないような、そんな世界にしているのだろうか。そんなはずは無いのではあるまいか。

 

実際ヘレン・ケラーは続くくだりで、自分は三重苦という肉体的な困難の中にあっても、幸せなんです、と宣言しています。

その幸せは、神への信仰の深さと同じくらいに、深く確かなものだと述べています。

この気持ちを指してヘレンは、自分は「楽観主義者」であり、その信念ゆえに、この神の与えたもう世界と自分自身の人生を愛し、そこに喜びを感じることが出来ている。

心からの幸福を感じ取れる自分こそは、本当の意味での楽観主義者なのだと思います、と述べているわけです。

 

かつての私は、希望のないどん底に居て、全てが闇に覆われていました。しかしそこに愛が訪れ、私の魂を解き放ちました。かつての私は暗闇と音のない世界しか知りませんでした。今は、希望と喜びを知っています。

 

 

わずか1歳半の時に、失明し、聴覚を失ったヘレン・ケラーの言葉だからこそ、上の言葉はいっそう重く、そして深い真実の言葉として伝わってきます。

 

かつての自分は、希望の無いどん底にいた。すべてが闇に覆われていた。これは文字通り、まったく何も見えない暗黒の中で、悶え苦しんでいた気持ちそのものでしょう。

目も見えず、耳も聞こえない、他人とのコミュニケーションが取れず、何がどうなっているのかわからない苦しみ、苦悩、暴れまわって泣きさけぶことも多かったと、自身で振り返って当時のことを書き残していますね。

暗闇――音も無い――そんな世界に独り置き去りにされて、人はどうして生きられるだろうか。想像するだに怖ろしい。

しかしヘレン・ケラーは、そんな恐るべき境涯の中で、希望と、そして喜びを見出すわけです。希望と喜びを知ったのだ、と述べているんですよね。

これは傾聴する必要のある、人類への希望の言葉でもあると、わたしは思います。

 

今は、考える事も、行動する事もでき、神の御国へ向かえることを喜んでいます。

私の人生には、過去も未来もありませんでした。悲観主義者だったなら、心から死を望んだでしょう。しかし、空虚を握り締めるだけの私の手に、他者の指から小さな言葉が落ちてきて、私の心は生きる事への喜びに満ち溢れました。

自分で考えられるようになると、知識をひたすら追い求める情熱が暗闇を消し去り、愛と喜びと希望が現れてきたのです。

 

 

考えることも出来れば、行動することも出来る。それだけでも喜びであるし、

なにより、神の御国へ向かうことの出来る、そうした人生の目標があって生きられること自体が、幸福なのだ、ということ。

信仰への目覚めと、来世への希望、あの世に帰ったら魂は健全となって元に戻れる、そうしたスウェーデンボルグの思想と、キリスト教の教えこそが、ヘレン・ケラーに人生の真実を見出させてくれたわけです。

聖書を熱心に読み、イエス様の生き方に涙を流し、そうしてスウェーデンボルグの霊界著述を読んで、本当に心からの救いを得たヘレン・ケラー。

幸福の科学総裁の大川隆法先生の言葉によれば、このヘレン・ケラーを当時霊的に導いていた指導霊こそは、そのスウェーデンボルグその人であったのだそうです。

 

聖書と霊界探訪記録を知るまでのヘレンケラーには、過去も未来も無い、絶望の中での苦悩しか無かった。

もし自分が悲観主義者であったなら、死を望んでいただろう、と述べています。

これは誰しも、そう思うのではないだろうか。

そんな不自由な身体で、なにもわからない、何も感知できないような人生を生きるくらいなら、いっそ人生をもうその瞬間にも強制終了して終わらせてしまいたい。そう思うのも無理もない。それほどの絶望と苦悩であったに違いないと、思わずにはいられませんからね。

 

しかしてヘレン・ケラーを、その絶望のどん底から救ってくれる人が現れました。

 

他者の指から、小さな言葉が落ちてきて … 

 

ヘレンの指に、言葉を書き綴ってメッセージを送ろうとしてきた女性こそは、サリバン先生ですね。

サリバン先生の手から伝わってくる思い、言葉の意味の判明、次々と語られる言葉の数々によって、ヘレンはふたたび人生の喜びを、生きることの幸福を、感じることが出来るようになるわけです。

 

ヘレンは、文字というものがあるのだということがわかり、点字で読める本があることを知ると、むさぼるように本を次々と読み始めることになりました。

この知識欲の旺盛さ、その情熱のすごさに、私たちは学ぶことが多いのではないだろうか。

目も見えるし、耳も聞こえる私たちは、本をいくらでも読む気になれば読めるのだし、講演テープなどを耳から聞いて学ぶことも出来るのに、ヘレン・ケラーの学ぶ熱意・姿勢に遥かに劣る、そうした気ままで怠惰な時間を過ごしていることが多いのであるまいか。反省すべき怠け心ですね。

 

 

喜びを完全に理解する為には、不幸も必要なのです。不幸と接することでのみ、その対極にある真実と愛と幸せの美しさを感じることを学べたのです。

 

 

不幸も必要なのです、とヘレンは言っています。

喜びを完全に理解するためには、不幸も必要なんです。それはしょうがないことなんですよ。

人は感謝を知らず忘れがちなものなので、不幸がなければ自分がどれほど恵まれているかをも、容易に忘れていってしまうから。

当たり前に思ってしまって、ふつうに生きられることがいかほど幸福であるかすら、忘れていってしまう。

そういう時には、不幸を体験することで、自分がいかに与えられていたかを思い出して、それが喜びであり、幸せであった、ということを思い返す必要がある。

 

不幸に遭遇することで、現在が当たり前でないことを知る、反省する。

不幸を知って、そうでなかった時の、人生の真実、他者からどれほど愛を受けていたのか、幸せであったのかを知る、気付く。忘れていた視点を取り戻す。人生の再発見。

 

宗教的なる目覚め、人生のトゥワイスボーン。

同じ名前の人生を続けて生きているようでありながら、魂の新生を為す。

いままでの悲観的な目を捨てて、人生を明るく楽観的な視点から見ることが出来るように、そうした人生観を獲得して、人生を生き直す。

宗教による魂の救済とは、これですね。

 

自分自身を楽観主義者と称し、己の中にある信念に理由があることを他者に信じてもらいたければ、不幸を理解し悲しみを知っていなければなりません。 

私は不幸とは何かを知っています。私は幾度となく不幸と格闘し、一時は身の凍るような思いもしました。それゆえ、不幸は 全く 重大なことではなく、精神的鍛練のようなものであると、私は経験を通して言うことができます。

このような経験をしたからこそ、私はより本物の楽観主義者になったのです。

 

必然的に不幸を感じる逆境は、最高の祝福であると、私は強い確信を持って言うことができます。 私達をより強靭に、忍耐強く、役立つ人間にしてくれるからです。

そして私達に物事の本質を見せ、苦しみに満ちたこの世で、 苦しみを 乗り越えてゆけることも教えてくれるのです。

私の楽観主義は、不幸不在の上に成り立つものではなく、不幸をはるかにしのぐ幸せがあることを心から信じています。そして、常に幸せに向かい不幸に 打ち勝つ努力を してい

 

 

単に能天気なだけの楽観性を、楽観主義ということは出来ない。

その人は本当に、不幸の中にあっても希望を見いだせる、そうした真実の楽観主義に到達している人なのだろうか。

不幸を前にして砕け散るようなものは、単なるお気楽主義の能天気でしかないでしょう。

そうではなく、不幸であってもくじけず、それを乗り越えるための希望を心の内に発見できた人こそは、本当の意味での「楽観主義者」なのだということ。

 

身の凍るような不幸を経験して、その最中で悶え苦しみながらも、そこから脱却したという自身、魂の強さを獲得すること。

こういう経験をすると、不幸や苦しみというのは、自分の魂を磨くための、まさに砥石であったのだということが、心から理解できるようになる。

精神的鍛錬のための砥石、それが、この地上世界における様々な苦労、不自由、苦しみ、苦悩、不幸の理由であって、それらは乗り越えるための砥石としての意味があるだけであって、それそのものが善いものだとして、神さまが人間に与えているものではないのだ、ということ。

魂の成長のための砥石となるからこそ、一見、厳しい人生であったり、不幸でしかないように見えるものであっても、そこには重要な意味があるのだ、ということ。

問題なのは、そこに肯定的なる意味を見出せるかどうか、ということですね。深い宗教的なる人生観を獲得することが出来るかどうか。

俗世にまみれる目しか持っていなければ、苦悩は苦悩のままでいつまで続くばかりで、不平不満と怒りと絶望から、人は逃れられないかもしれぬ。

しかしそれを乗り越えるための希望の教えを、神はきちんと人類の前に、置いてくれているわけです。

ヘレン・ケラーにとっての、聖書、スウェーデンボルグの霊界思想、そしてサリバン先生といった他の人の存在がそれでしょう。

そのことに気づいて、受け取るか、それとも無視して顧みないままで、独り苦悩するか、その選択であるということになるのではないか。

 

ふつうは、逆境に出逢うと、必然的にそれは不幸な気持ちを生むものだと、人は思っている。

しかしそうではありませんよ、とヘレン・ケラーは言っている。

逆境というのは、最高の祝福なんですよ、と述べているのですから、それがどういう意味であるのか、なにゆえにそう言えるのかを、わたしたちはヘレン・ケラーの言葉から学ぼうではありませんか。

 

不幸が無いことが、幸福なのではありませんよ。

そうした不幸に見える境涯にあっても、その不幸を遥かにしのぐ幸せがあることに気付いたなら、その発見自体が、人の心を幸福な気持ちにさせてくれるのですよ。

それがわたしの楽観主義ですよ、と述べてくれています。

 

この世に生きているあいだは、不幸に感じる体験は、一つで終わらない。次から次へと新たな試練や問題が降りかかってくるように思える。

しかし嘆くことは無いし、絶望することはない。それがこの世の意味でもあるし、魂の修行場としての、この三次元世界の意味そのものでもあるのだから。

そうした試練に打ち倒されることなく、絶えずそれらの問題に立ち向かい、勝ち続ける生き方をすればよい。そうした課題を乗り越えられるだけの、深い人生観を獲得すればよい。

神の元へ向かって生きること。神の教えを心の支えとして、胸に輝く希望の光として信じつづけて、そして雄々しく生きてゆくこと。

この世にあっても、そうした境地での、真の幸せを知る生き方を選ぶこと。

 

 

 

 

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