スウェーデンボルグ ~「霊的な人間」とは、知性的でかつ情緒的な人間なのである~ | LEO幸福人生のすすめ

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スウェーデンボルグは人間の心の本質的な構成要素を、「意志」と「理解力」──または「自由」と「合理性」──に二分する。「意志」はいわゆる意志も含むが、意欲・感情・情愛などの総称である。この側面は心の根源的なものであり、愛や善に関係する。古代の賢人たちはこの側面を「女」と呼んだのである。

一方、「理解力」は知性・理性・悟性などの知的能力の総称であり、これは派生的な心の側面として、信仰や真理に関係する。これが「男」と呼ばれるものにほかならない。  

 

ある宗教が「女」の側面しか発展させないなら、熱狂的で狂信的な宗教になるだろうし、「男」の側面しか発展させないなら、抽象的で観念的な宗教にすぎないだろう。同様に人間の霊性においても、これらの二要素がバランスよく新生しないなら、偏向した霊性が形成されるだろう。  

 

C・G・ユングは、感情の機能を知性の機能に対置し、愛や情緒的なものが人格の統合に不可欠であることを指摘し、また「内なる異性」──アニムスとアニマ──の意識化の重要性を説いている。スウェーデンボルグは、人間の精神的成長におけるこうした両性の機能の統合の必要性を、十分に知っていた。「霊的な人間」とは、知性的でかつ情緒的な人間なのである

 

この箇所は、興味深い内容を述べていると思う。

 

意欲・感情・情愛。こういった感情的なる要素は、非常に大切な心の内容であるのだ、ということ。

後段のくだりを読むと感じられる通り、むしろこちらの感情や情愛といった気持ちの方こそが心の中核というか根源的な部分、というニュアンスがこの文章からは読み取れる。

頭脳的なる部分は、頭で思考すると言われるように、胸や心ではなくて、出先機関の頭脳で考えている、という感じがやはりあるし、そういう意味で言ったら、理性・知性は、感情や情愛とは違って、心の出先機関と言うか、スウェーデンボルグ的に言ったら、派生的な心の側面、という捉え方をしても可なのかもしれない。

 

心の部分は、感情的に激しく動揺し、感動したり、悲しんだり、慟哭したりと、自分の気持ちに正直に、激しく心を揺さぶって揺れ動く。

一方の頭脳部分は、ここから少し離れた頭脳的な働きだからこそ、冷めた目で見て冷静に判断し、思考することが出来るのかもしれない。

そういう意味で解すれば、感情的・情愛的なるものは女性的な側面であって、もう一方の理性的・知性的なるものは男性的な側面、という理解をしても間違いではないと思われる。

(注;本文では「悟性」も含めているが、西洋思想で使われる悟性というのは、悟りの能力・性質という宗教的な意味で使われているものではないので、悟性=男性的という解釈は、わたしはここでは採らない。文脈でも、知的能力の一つとして挙げられているので、宗教用語としての使用とはニュアンスが違うのがわかると思う)

 
感情的なるもの、情愛的なるものは、女性的なるものであって、
理性的・知性的・頭脳的な働きは、男性的なるもの、という理解をしてみれば、
次に続いている文章、
 
ある宗教が「女」の側面しか発展させないなら、熱狂的で狂信的な宗教になるだろうし、「男」の側面しか発展させないなら、抽象的で観念的な宗教にすぎないだろう
 
 
という箇所も、よく意味がわかるのではないかと思う。
 
感情的な熱狂のみあって、理性的なる思考、論理的な説明や理証を欠いた宗教であっては、これは妄信・狂信的な宗教になりかねない、そうした危険性を持っていることになるでしょう。
理性的なる考察や、緻密な思考によるチェックが効かない、激しい思い込みや信心のみあってそれに熱狂し、この世から遊離しすぎて一般社会から理解されない、そういうことになりかねませんから。
しかしてもう一方の、理知的で論理的な証明ばかりにこだわった宗教になったらいいのかといったら、それもまた違う。単に冷めた思考や分析のみあって、そこに感情的な喜びや感動、信仰の喜び・幸福、深い情愛に満ちた助け合いの共同体、そういうものが存しない宗教であっては、それでは単なる哲学に過ぎないのであって、宗教的な熱狂を呼ぶことはないでしょう。
 
西洋哲学が、普遍的なる真理を求めるあまりに、個人の感情を排除しすぎたのは、上の理解からしたら、男性的なる原理としての理知にのみ偏って、真理を求めたという欠点だった、とも言えるし、だからこそ、女性で哲学にのめり込む人は滅多にいないのではないか、という気もしますしね。
確かに普遍的な真理を求めるためには、個人個人で違っている好き嫌いの感情や、そうした情動に左右されていては、永遠の真理、普遍的・客観的なる真理は掴めない、といって、だから哲学思考をする者はたいてい、感情といったものを思考の際には排除しがちな傾向がある。
ヘーゲル哲学は普遍的なる真理を求めすぎたあまりに、のちに来た哲学者たちは反発して、個人の人生こそが大事じゃないか、もっと個々の人生とは何かを求めることこそが大事といって、個人の感情、気持ち、個々人の人生とは何であるか、その人にとっての答えを求めて、それが実存主義のような哲学を求めさせた一因ともなっている。
ヘーゲル哲学に欠けている、個人の人生への洞察が、ヘーゲル以後のさまざまな、人間中心的な思想を多数生んだとも言えるのだと思いますけれどね。
 
しかして今度はまた、個人の人生が大事、俺の感情が大事、わたしの気持ちが大切、と行きすぎてしまって、普遍的なる興味を失って、個々の自分の運命ばかりに埋没したら、これは単なる個人主義に堕したエゴの関心でしかなくなるわけで、だから普遍こそが大事というヘーゲルの主張を忘れての個人主義では意味がないですね。
簡単に言ったら、やはり両方大事なわけであって、普遍を求めながら、この一個の自分としての生を求めることが大事であって、全体のなかの自分であり、しかして自分をのみ思って全体を忘れてはいけないのだ、ということ。
 
理性・知性だけで、理屈ばかりを求めても、真理を体得できるわけではないし、
感情・感性・情愛のみで、すべての普遍的真理を理解し得たわけではない、ということ。
 
著者はユングを引き合いに出して説明してくれていますが、ユングのアニマ・アニムス論を説明しながら、この内なる異性、男性的なるものと女性的なるものの統合ということが、完成された人格を築くためには必要不可欠なのだ、と述べています。
これは無論、中性人間になることを勧めているわけではないし、LGBTQの勧めではないのは言うまでもありませんが、
優れた女性は、男性の気持ちもある程度理解する力があるものだし、反対に、優れた男性もやはり、男性でありながらも女性の気持ちがわかる、そういう認識力の広さを持っているものでしょう。
魂で言ったら、偉大なる如来の悟りを得た魂ともなれば、本来男だ女だという区別は超越していて、両性の心が理解できる、そういう広大なる心の領域を持っていると言いますね。
お釈迦さまやイエス様は、女性の気持ちを理解しているからこそ、多くの女性を教え諭し、心を救って導いてくださっているのでしょう。
男の気持ちしかわからない男、女の気持ちしか主張しない女というのは、これは完成された男や女ではなくて、まだまだ未熟な魂の姿でしかないのだろうと思います。
 
理知や思考を男性的なるもの、情愛や感情の豊かさを女性的なるもの、と捉えるスウェーデンボルグの考えからしたら、まさに次の一文が、人間が目指すべき魂修業の方向性を示していて、これは至言ではないかと私は思います。
 
「霊的な人間」とは、知性的でかつ情緒的な人間なのである