頭の中で考えるだけ。理屈のみにて、神を知ろうとしても、それは無理というものだ。
神は、単なる思考の対象物などではないのだし、そんなちっぽけな存在ではないのだから。
人間が、頭の中であれこれ想像しても、神ご自身を知るには至れない。
それどころか、わたしたち自身が、神の大いなる生命の中で生かされている存在なのだから、
そうした大いなる愛に包まれて生かされているのだということを、
全身全霊で感じ取るのでなければ、神の偉大さはわからないのではないだろうか。
神は心である。それゆえ、各人の心の中で神に祈りたまえ、と上の言葉では言われている。
心が心を感じるのだ。知るのだ。神の御心を感じとるためには、わたしたち自身も心によって、神さまと通じるのでなければならない。
心の中で神を認識していなければ、 言葉の上で神を崇めても、何もならない。
神とは何ぞや、と理屈や論理のみによって理解しようとしても、それは理解の一面に過ぎないのであって、神ご自身の偉大さの片鱗すらわからないのではあるまいか。
理屈にて論じられる神。
「カラマーゾフの兄弟 (ドストエフスキー作) 」で、無神論者のヒョードルやイワンが語る神は、ほんとうに神のことを理解した言葉になっているだろうか。何もわかっておらずに、理屈のみにて神を論じる人の空しさ、哀れさでしかないのではなかろうか。
言葉の上で、あれこれ理屈をこねて、神とはこれこれこういう存在であるのではないか、理屈のみにて神の偉大さと幾ら言ったとて、その人が心において神を感じていないのならば、その人には信仰心があるとは言えないだろう。
信仰心無き者の語る、神の考察ほど、空しいものはない。
心において神を感じていないのならば、その人は、愛の神の、その愛を感じ取れていないということではないか。
愛を感じてもいない人間が、不信心の徒が、愛の神ならば、などと論じたとしても、その言葉自体が空しい言葉に堕しているだけの話ではないか。
(ローマの哲人・エピクテトス)
ゲーテの言葉
「才能は孤独のうちに成り、人格は世の荒波にて成る」
ブログ記事で何度か引用させてもらった言葉だけれども、このゲーテの言葉にも通じることが、上の文章では語られているように思う。
魂が孤独の時。その孤独の時代が長く続くこともある。
自分自身振り返ってみても、孤独の時代がずいぶん長く続いて、苦しかったことを覚えている。
その時代には、わたしはひたすら書物を通しての学びに集中して、過去の聖人君子たちの言葉を、真剣に学び続けることに専念していたと記憶している。
孤独な時間であるがゆえに、書物をひたすら読むことに集中できたとも言えるし、その時代にこそ、自分の内面と頭脳を鍛えていたのだと、いまの自分は思い返すようにしているのだけれども、
聖人たちは皆等しく、あなたがたがこの世に生を受けたのは、自分一個の幸福や自己満足のために生きるためではなく、他の大勢の人たちのために貴方自身を活かしてゆくためである、他の人たちに愛を与えるために、お前の人生はあるのだ、ということだったように思います。
孤独のなかで、自分の魂を鍛え上げ、心を磨き、頭脳を鍛え、そうして鍛えられた魂と才能でもって、他の人たちに尽くすための基礎が作られる。
才能は孤独のうちに成る。
しかして、その才能の目的は、独り部屋に籠って、自己満足のちっぽけな趣味に埋没する生活のなかにあるのではなくて、世に出て、多くの人たちとまじりあうなかで、そういう人たちに対して自分を活かしてゆくためにこそ使われねばならない。
自分が学んできたこと、考えてきたことを、見せる時が来たのである、という最後の文は、そういうことを言っているのだと思う。
(ローマの哲人・エピクテトス)
愛とは何であろう。
与える愛とは、どういう生き方をするなかに、実践できていると言えるのだろうか。
人の愛を得ようとするな。 愛せよ。 その時、愛されるであろう。
愛されるために愛するのではない。それでは愛が、利己のための手段になってしまうから。
愛されるために、打算で愛を行なうのではない。だから、人の愛を得ようとするな、と言っている。愛を得んがための、愛の行為は、これは気持ちが自分への愛がまだ中心であって、他者への愛は、そうした利己のための打算となってしまっている。
そうではなくて、愛せよ。その人を愛することそのものが大切なことであるから、愛せよ。
と言われている。
愛それ自体が目的なのであって、自分を利するための手段と勘違いしてはいけないのだ。
無償の愛、見返りを求めない愛、その人のためにただ愛すること。
そういう与えきりの愛を生きる時に、あなたは多くの人たちからいつのまにか、愛される存在にかわっているはずだ。
愛は、私たちに秘密の幸福を教えてくれる。 それは、自分自身と他の全ての人々と 結び合って生きることである。
与える愛のなかに生きる時に、愛するだけではく、愛されもするという、相互愛の世界に人は入っていけるのだ。
そういう愛による結びつきこそが、ほんとうの幸福なる人生のもといなのだ、ということ。
愛に生きることの幸福人生。
宗教は、愛の最高の形である。(パスカル)
パスカルの言葉は、短い中にも珠玉の真理が煌めいている。
宗教の真髄、本質をズバリ一言で言いつくしてくれている。
愛の最高の形が、宗教なのだ、ということを知っておこう。
人は、愛すれば愛するほど、 他の人々は、ますます彼を愛する。 他の人々が、彼を愛すれば愛するほど、 彼は、他の人々をますます愛することになる。 それ故、愛は無限なのである。
与える愛の循環、愛はたがいに愛を深め合って、とどまるところを知らない。
愛はさらに広がり、深まり、いっそう大きな愛となってゆく。
だから愛は、無限なのである、ということ。