ガチガチの自我は、学び成長することが出来ない | LEO幸福人生のすすめ

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自我がガチガチ、ガチガチの自我状態になっちゃうと、

すべては、その自我を中心にして捉えるようになっちゃうので、

 

どんな偉大な書物を読んでも、その自我に都合のいい読み方しかしなくなったりして、

あるいはまた、その自我の欠点を戒めるような、そうした大切な教えを聞いても、頑として聴かずに拒否をする。

教えによって、自我の未熟を改善するのではなくて、

そのガチガチの自我を、そのままで守り通すことを優先して、その自我の欠点を正してくれる教えを拒否する、あるいは、自分に都合がいいように曲解して、自己を変革しないで済まそうとする。自己正当化の詭弁を弄するようになって、素直に教えを学ぶということが出来なくなってしまう。

 

魂が「有(う)」の状態になる、と言いますが、ガチガチの自我人間になってしまって、もはやその自我を少しも変える気が無い、自分はいま現在のこの自分が、長所も短所も自分のマックスであって、まるですでに完成している自分であるかのように勘違いをしている、思い上がっている、自惚れ切ってしまっている。

こうなったらもはや、その人生で、根本から自分を正したりすることは、不可能になってしまうことでしょう。

 

その人生は終わりにして、あの世に帰り、それからまた幾十年幾百年かの年月を経て、別の肉体に宿って生まれ変わって、

まだ心が比較的柔軟な若い時期に、自己の問題点を修正する、という方法しか、根本的に自己を修正する道がなくなってしまう。

 

自我にこだわり、ガチガチの自我人間になってしまうがゆえに、人は何度も何度も生まれ変わらないと、基本的な人格・性格というものが凝り固まってしまって、自分自身を根底から改善したり、飛躍的な魂の進化をはかる、ということが出来なくなってしまうのかもしれないなーと。

 

ガチガチの自我人間になってしまう、自我でガチガチになってしまう、というのは、そのガチガチの自我それ自体が、魂の成長発展を阻害するのでしょう。新たに何かを自分に付け加えたり、自分の内部にある問題点を改める、ということをしなくなる。自己変革をしなくなる。自己変革はしたくないので、しないですますような選択を知らず知らずしてしまう。

その自我を超える偉大な教えを受けて、その教えを素直に聴いて、自身を改めるように、その教えにのっとって、自身の未熟を改善できればいいのだけれども、そうした偉大な教えを聴いても、知らぬ存ぜぬで馬耳東風、あろうことか、自分のいまの見解の方が上である、優れている、だからそんな教えに学ぶ必要など無い、とまで思い上がってしまったら、人はどんなに優れた教えに出合っても、なんの学びも得ることなく終わってしまう、ということになってしまうのでしょう。

 

謙虚にみずからを振り返ること、自分はまだまだ未熟な人間に過ぎないという、そうした謙遜の心、謙虚なる心。

そうして、大いなる教えや偉大なる人物に出合ったら、そうした教えの偉大さに心打たれ、心震えて、そうして偉大なる師を心から敬って仰ぎ見るという、そうした謙譲の精神、偉大なるものを尊敬する心を失った時、

 

そういう魂状態のときには、人はもはや自我人間そのものとなってしまっていて、自分の自我、我執、そこにすべて依存して、自分以外の存在・事象を眺めるようになってしまっているのでしょう。

 

うぬぼれた人間は、どれほど偉大な宗教書を読んでも、そこから自身の未熟を改めるための学びを、謙虚に行なう、そうした自分のモノの見方・考え方を、根本から改善する、という行為すら出来なくなってしまうことでしょう。

なぜなら、偉大な書のまえで小さく謙虚になって、振り仰ぎつつ学ぶ、という姿勢ではなくて、踏ん反り返った自我でもって、そうした教えを高みの見物のごとくに、分析し、判断し、論評しつつ、そうしてそうした態度であるにも関わらず、なにか自分は新たなことを学んでいるつもりになっていたりする。しかして、心を改善するための学びは、そうした傲慢な態度では何一つ成し得ない、ということを、この傲慢な自我は知らないんですよね。だから、学んでいるつもりであっても、心を改善するための学びは、じつはちっとも学べてやしないのだ。そんな風に思えてなりません。

 

自我でガチガチになってしまっては、自分の自我そのものを改める外なる教えは、どうしても素直に聴けなくなるのが、傲慢なる自我、ガチガチの自我、というものではあるまいか。

そうならないためには、この自我に囚われる、そうした頑なさ、視野の狭さ、偏狭なる態度を改めないといけないし、だからこそ、謙虚なる心であるとか、偉人を尊敬し敬う気持ちであるとか、自分以外の人に対しても、決して見下したりするような思い上がりの心を持つのではなくて、どんな人からも学び得ることはあると心得て、謙譲の気持を忘れてはいけないのだ。

そうしてまた、自我による自己限定や、自分に囚われたモノの見方を脱却するためにこそ、無我という教え、この我執を去ってこその宗教的なる修行なのだ、という視点が大切なのではないかと思いますね。

いきなり無我の境地を体得することは出来ない、出来ないけれども、我に囚われてはいけない、我見を去って素直な心で見てみよう、という視点を一つ心構えとして持っているだけでも、その人の心は常人より遥かに柔軟で、学びに対して開かれた心を持っていると言えるのではないか、と思いますね。

それからまた、他の人に対する愛の気持ち、優しい気持ち、理解しようという温かな心、そうして日々実際に、身近にある人たちに対して利他の実践行を積み重ねてゆく、そうした人生を着実に生きているかどうか、ということ。愛に生きることによって、自我から離れるという視点を、実は人は手にしているとも言えるのでしょう。愛の中にいる時、自分のことではなく、相手のことを率先して思いを為しているのであって、だからこそ、そうした生き方をしているなかで、人は自我から離れた生き方を、学ぶことが出来るようになっている。

 

いずれにしても、ガチガチの自我人間になるのではなくて、自分のちっぽけな自我に囚われるのではなく、その逆を行くこと。

開かれた心を持ち、我執にとらわれることなく、無我を目指して、愛他利他の生き方を模索して努力するなかで、人は知らず知らず、自分自身の心の成長と発展、魂の進歩・進化というものを達成することが出来る。そんな風にも思いますね。