人間はゼロからスタートし、他のだれとも比較できない独自の人生を 歩んでいるのだ | LEO幸福人生のすすめ

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kindle電子書籍版で購入しての再読。いったい何度読み返したかわからない、幸福の科学草創期に出ていた書籍の改訂版。

 

人間は『足ることを知る』ということが大事だ」と言われますが、実に、この「足ることを知る」の出発点は、「人間はゼロからスタートし、他のだれとも比較できない独自の人生を 歩んでいるのだ」ということなのです。

 

これは、自分の心を真の意味で振り返る際に、とても重要なポイントであるのだということ。

それをわたしは、実体験を通して、痛感しました。

 

ゼロからのスタート。何も持たずに、裸一貫で、この世に生まれてきた自分。

 

その時を出発点として、徐々に、肉体は成長し、心の方も徐々に本来の生地が出てくる、というかたちで、心身ともに成長して、やがて大人になってゆく。

 

他人と自分を見比べて、自分に有って他人には欠けているものが多いと思うと、人は自惚れるし、その反対に、他人は持っているのに自分には無いと思うと、人は自分を卑下したり他人を羨んだりして、葛藤をつくってゆく。

そうした、自己と他人の比較から生まれるところの自己認識、というのは人はどうしてもしてしまうけれども、他人と見比べるという物差しだけで行ってしまうと、真の自分自身の価値を見失ってしまうところがあるのだろう。

 

他人に勝っているか、それとも負けているか。優勝劣敗、優劣でもって自と他を比較する心。

これは、ある部分では必要だけれども、それのみを判断基準にしてはいけないのだろう、ということには、なかなか気づくことが出来なかったりする。

 

だいぶ昔の話になるけれども、塾で講師の仕事をしていた時に、小学4年生のクラスを2つ教えていたことがある。

一つは、私立名門中学への進学を目指している、四谷大塚系の授業を受けている子供たちのクラス。

もう一つは、ごく普通の、普通学級の授業レベルの予習・復習を行なっている普通クラス。

どちらも同じ小学四年生のクラスであり、ただ中学受験を目指しているか、それとも学校の成績がそこそこ良くなればいい、といって通ってきている生徒かの違い。

 

中学受験のクラスというのは、非常にハイレベルの難しい内容を勉強するんですね。

算数で言ったら、普通クラスの6年生が習う内容より、四谷大塚系の授業を受けている4年生の授業内容の方が、ずっと難しいことを教えていますね。

それだけの学力がある子ならともかく、能力的には平凡なタイプの子が、こうした中学受験対応の塾へ通わせられるのを見ると、可哀相な気がして仕方がない。あまりにも無理な、当人の学力不相応なハイレベルの内容を学ばされているので、理解が追い付いていかないし、こんなことを無理やり続けていたら、勉強が好きになるどころか、むしろ嫌いになる可能性の方が高いな、と感じたものです。

イヤイヤやる勉強というのは、その時点での詰め込み教育は成功したとしても、それを過ぎて自由解放されると、その子は自主的な勉強はしないようになってしまうことが多い。もう、あんなに勉強させられるのは懲り懲りだと。そうしてバーンアウトしていく危険性があるんですよね。

 

わたしは、年齢別に決まった教育を行なうのではなく、当然、無理したハイレベルの教育を行なうのがベストなわけもなく、

その子の、現時点での学力に相応したレベルの、そうした授業を行なうのがベストだと思うし、当時もそう思っていましたから、

中学受験科にいるけれども、いつもテストでは間違いだらけの子を見た時、親御さんと相談して、この子は普通科の授業を受けさせてあげて、そこで伸び伸びと学びの喜びを与えてあげる方がいいですよ。そうして、着実に学力を上げていってあげた方が、当人にとっても着実なる成長への道となるし、のちのちを考えてもその方がよいと思います、と伝えて、普通クラスに異動したことがあります。

その子は、普通クラスに入ると、それまでは見せなかった笑顔で、自分でもよく出来る新たな知識への学びを、嬉々として喜んでやってゆくようになりました。

他のクラスメートとも仲良く楽しく会話して、それまで受験科で元気の無い姿を見せていた時とは、別人のようでありました。

 

小学校、中学校と、塾通いで、テクニック的な勉強をたくさん教わって、そうした強力なバックアップゆえに、学校で好成績を収めていた生徒たちが、それから高校、大学と進学してゆくうちに、能力の平凡レベルに落ちていく、というタイプも結構な数、見かけたように思います。

自分でつかんだ学習方法ではなくて、塾で一方的に教わった、その時代を乗り切るためのテクニック的な解法、問題の解き方の知識に頼り過ぎた結果、自分で考えて答えを探る、探求する、という肝心の精神態度を、身に着けることに成功しなかった、という点がたぶんにあるのだと思いますね。

小さなころから、他の子供たちに先んじて、便利な解法、早熟な知識を学びすぎたことで、その時点では進んでいたように錯覚して見えていたけれども、実はそれは、自分自身の実力ではない。教わっただけのテクニック的な技術に過ぎなくて、ゼロから自分で学んでゆく、だとか、問題意識を自分なりにもって、テーマを自分で決める、あるいは試行錯誤しながらでも、問題の核心を自分で発見してゆく、という遠回りの学び方を欠いてしまっている。

 

本当の学習というのは、急がば回れで、最初のうちは要領の悪い、無駄なことをたくさんしているかのような試行錯誤をたくさんしていった子の方が、かえって後になったら伸びてくる、という部分もあるのではないか、とも思います。

受験科から普通科へ異動した子のような例でいったら、実力不相応な無理な学習をさせるのではなくて、その時点でのその子に相応しい、レベルに応じた学習をさせてあげていって、学ぶことの喜びを感じてもらうことの方が、ずっと大事なことだと私は思うわけです。

そうして、学ぶ、ということに喜びを感じるようになれば、その子は中学生になってから、あるいは高校生になってから、大学生になってから、社会人になってからでも、自発的に、いまの自分に合った相応しい知識学習を、自分で好奇心を持って行なうようになるのではないか。

幼い頃の過度な学習の詰め込みが、かえって仇となって、勉強嫌いの人間になってしまったら、勉強を教えたつもりが勉強嫌いになってしまった、という本末転倒の結果を招いてしまうこともあるのだ、ということを言いたいんですけどね。

 

それからまた、いちばん最初の、赤ん坊としてゼロからのスタート、ということの意義に戻るけれども、自分自身の成長ですね。

他の人と比べて、進んでいるか遅れているか、あいつは受験科で頭がいいのに、自分はそうではないといって、他と自分を比べて落ち込む必要など無いわけであって、

 

自分自身の成長。

赤ん坊としてオギャーと生まれて、やがて7歳、8歳、となって、それから小学4年生になって … その時点での自分は、他の同年齢の子の学力がどうであろうと、その子自身の現在の学力というのが現にあるのであって、それ自体は、赤ん坊の時から比べたら確実に進歩しているのは間違いがないと、わたしは思うんですよね。

他と比べて、自惚れたり卑下するのではなくて、自分自身の成長、赤ん坊の時の自分からは確かに成長してきている自分なのだ、という自分と自分の比較、成長の確認、ここに喜びを感じることが大切。これもまた、足ることを知る、ということの真髄ではないかと、思うんですよね。

 

執着だらけの自分となり、他人と比べて、自分にはアレが無い、コレも無い、なんにも無いなといって劣等感に襲われて、自分に自信を失ってしまい、失望・絶望の思いに駆られる時、

 

赤ん坊の頃の自分と比べたら、それでも何がしかのプラスとなっている、何かしらの成長は得ているはずの自分ではないか、ゼロのまま、いまもまったくゼロのまま、なんてことは無いのであって、ゼロからスタートした自分であったはずであるのだから、そこからわずかでも得て来たもの、進歩してきたもの、経験してきたものがあるのなら、そのこと自体が人生経験としてのプラスではないか、といって、そこに今まで見てこなかった、見逃してきた人生の真実を悟ること。

 

ここまで自分を根本から見直すことが出来ると、その時には、自と他を比べての劣等感とか、悲しみとか、あるいはその反対の自惚れ心、これに対しての反省も始まりますしね。自分はなんと自惚れていたのか、という反省。

他人と比べるところに、自分への過信・自惚れとういうのは生まれてくるし、その反対の劣等感・嫉妬の心、他人を羨む心というのも生まれてきますからね。

そういう心に惑わされているあいだは、本当は、自分の真実の姿というのはまだ見えていない、自己の客観視は出来ていない、自分の絶対的なる価値、他人との比較ではなくて、自分自身の、この世に生まれ落ちて後の成長の、正しい評価というのは実はまだ出来ていなかったのだ。

そういうことに、自分は気がついたことがあるし、そうした魂経験をした後の自分は、それ以前の自分とは違った自分になれたことを、確かに感じることが出来ました。

 

冒頭の引用に戻って、

 

 

「人間はゼロからスタートし、他のだれとも比較できない独自の人生を 歩んでいるのだ」ということ

 

 

この、大川隆法先生のことばを、本当に深い意味で、心からの理解でもって生きてゆくことが大切なんだなー、と今の自分は思うわけです。