教会と俗界 ~聖なるものと世俗のもの~ | LEO幸福人生のすすめ

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ドイツ中世史を専門としていた阿部謹也教授(2006年没)。

ドイツの歴史に興味があって、以前、中公新書の「物語 ドイツの歴史」を読んだことがある。
それ以外の、中世ヨーロッパを考察した著書も読んだけれども、「ドイツの歴史」を再読していたら、王権と教会それから修道院の関係について、以下のような記述がありました。

 

教会は俗界と妥協してローマで国教となり、キリスト教は公的に承認され、反社会的な特徴を失ったのである。いわば現世と妥協して現世に生きる場を得たのである。  
しかしキリスト教の教義は変わらなかったから、聖なるものへの希求は生き残った。それを実現する場として修道院が設定されたのである。司祭たちにも聖なるものを担うことは期待されていた。しかし教会だけでなく、国家の行政を担う彼らが聖なるものを体現することは不可能であった。そこで修道院は中世の人々が現実には担えなくなった聖なるものを守るために、人々に代わってその任に当たる人々の集団として生まれたのである。


キリスト教がローマ帝国で国教化されたのは、西暦392年。

それとともに「反社会的な特徴」を失った、とある。
反社会的というのは、何も社会道徳を平気で破る、という意味での反社会では無論ない。
国教になる以前においては、キリスト教徒は時の政府から弾圧され、キリスト教徒たちは自らの立場を主張するならば、時の政府に反対・反抗しつつ、潜伏せざるを得なかっただろう。そういう意味で、反国家的、反社会的という表現になっているにすぎないだろうけれど、

これが国教に認定されると、国家・政府・世俗に受け入れられ、承認されたという意味で、それ以前のような信念の強さや気概、権力にさえも屈服しない精神の独立、という意味での強さは失われていった、という意味合いかと思われる。

教会は、俗界と妥協し、現世と妥協し、現世に生きる道を得た、というのは、この世である程度の承認を得て受け入れられるにつれて、必然、この世的な原理と宥和的に接する部分が増えて、それすなわち、どうしても宗教の世俗化、教会の世俗化、という方向に、ある意味、霊的・精神的な部分が落ちてゆくことを意味するのだろう。

教会のヒエラルキーが確立し、世俗社会の中にあって、ある意味の政治権力をも持つ、バチカン、ローマ教会、そこに所属する聖職者たち、という位置に立つと、政治的な動きも増えてゆき、そこに比重が移るほどに、本来備わっていたはずの、霊的、宗教的、精神性の高みが失われてしまって、単なる政治屋と変わらないところまで転落してしまう結果に陥る。

ルネサンス期におけるローマ教会の堕落・退廃ぶりは、こういう精神的な背景事情があってのことだろうし、ジャンヌ・ダルクを裁いて批判したのは、フランスの高位聖職者たちだったわけですからね。

世俗権力化したヒエラルキーの中に入りすぎると、政治的人間にはなるかもしれないが、その代償として宗教的人間としての精神性の深さが失われる、霊的なる活動が阻害される。そういう二律背反する、難しい問題があるのだと思いますね。

これを打ち破るために、在野の信徒が徹底した内面修行を行なって霊的な沈潜を求める、修道院、という精神修養の場が作られ続けたのであって、しかもその修道院とても耐用年数に限りがあるというか、評判が上がって、民衆からの支持を得て、喜捨が増えるにしたがって、当初の初々しい情熱や、純粋な宗教的熱狂を失ってゆくんですよね。これは諸行無常の時の中で存在する以上、致し方のないことなのでしょう。
だから衰退しては、また新たな宗教組織が立ち上がって、下がってはまた高みが現れて、それが下がったら再び高いものが現れて、を繰り返している。


世俗と宗教、教会と修道院、の関係において、自分の知っている理想的な姿の一例として思い浮かぶのが、
ローマ法王をエウゲニウス三世が担っていたときに、修道院の長である聖ベルナルドがかつての師として、霊的な指導を書簡のやり取りによって行っていた事例。
エウゲニウス三世は、教会ヒエラルキーのトップたる法王に任ぜられる以前は、ベルナルド修道院長のもとで、一修道士として厳しい霊的修行を重ねていたのでした。
それゆえ、ローマ法王の立場に立ってからも、政治的な立場と宗教的なる教えの狭間に立って悩んだのですが、その時にアドバイスを与え続けたのが、かつての師ベルナルドであったわけです。

先に、キリスト教がローマ帝国の国教になった時のことを書きましたが、その時の皇帝はテオドシウス1世といって、統一ローマ最後の皇帝ですね。この皇帝の死後、ローマは二人の息子たちのあいだで東西に分裂し、以後、ふたたび統一ローマになることはなかった、という、そういう最後の皇帝です。

この皇帝に対して、キリスト教の立場から厳しい指導やアドバイスを送ったのが、ミラノ司教のアンブロシウスでした。この人は言うまでもなく、のちの聖アウグスティヌスの師となった人であるし、アウグスティヌスの母モニカも、このアンブロシウスを慕って、その教えに忠実にしたがって善きクリスチャンであり続けたのでした。

こういった、優れたる宗教的指導者が、ローマ法王を精神的にバックアップしたり、皇帝の政治行動に対しても宗教的観点からのアドバイスをしたり、という理想形態があったことは、これは、釈尊トビンビサーラ王やプラセーナジット王との関係とも通じていて、宗教と政治の理想的な関係性を、歴史の中に一つの事例として残してくれているものだと思ったりします。

もう一度、さきの引用文を繰り返して載せてみます。

 

 

教会は俗界と妥協してローマで国教となり、キリスト教は公的に承認され、反社会的な特徴を失ったのである。いわば現世と妥協して現世に生きる場を得たのである。  
しかしキリスト教の教義は変わらなかったから、聖なるものへの希求は生き残った。それを実現する場として修道院が設定されたのである。司祭たちにも聖なるものを担うことは期待されていた。しかし教会だけでなく、国家の行政を担う彼らが聖なるものを体現することは不可能であった。そこで修道院は中世の人々が現実には担えなくなった聖なるものを守るために、人々に代わってその任に当たる人々の集団として生まれたのである。


教会組織が世俗化し、ある意味、形骸化していってしまったとしても、本来の教え、教義というのは、本当は変わっていないのだから、そこにある聖なるものへの希求心は、あとに出てくる人であっても継承できますね。

そうして、本来あった聖なるものを求める人たちの中から、修道院的なるものが立ち現れてくる。

これとは別に、ある意味、政治組織化していったヒエラルキーの中にある、司祭や司教、といった立場になると、当然そこでも、聖なるものはあるべきだ、と言われつつも、政治と宗教の両立は難しいところがあって … というのは、先にも論じた通りですが、

教会や聖職者が、本来の聖性、宗教性、精神性の深さを失って、単なる政治的指導者に過ぎなくなった場合は、これを補うべくして、あるいは改革の狼煙を挙げるべくして、外部に改革運動が起きたり、あるいは内部からは、宗教改革時のイエズス会のように、内なるところからも修道院のような組織が現れて、いわば、外からも内からも改革の狼煙はあがってくるもの、なのでしょう。

宗教というものが、神の教えを伝えるものであり、地上における最高の組織、教えの場であるとするのなら、その退廃や堕落を神さまや天使が放置しておられるはずがなく、

それが、改革運動が次々と起こってゆく、歴史の流れの中で起きてくる、霊的なる秘密なのだと思います。大川隆法先生の教えてくださった「神の世界計画」「天上界の計画」ということなのだと思います。

トルストイが、ロシア正教から破門され、ジャンヌ・ダルクが宗教裁判で裁かれ司教から魔女と呼ばれ、ルターがローマ法王をサタンと言い切ったのは、教会が本来の宗教的な高みを失っていたがゆえに生じた、やむをえない判断ミスや霊的逆転現象が起きていた、ということかと思います。