洞察力を身に着けるには | LEO幸福人生のすすめ

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洞察力のある人間になる。物事の本質を見抜ける力を身に着けたい。

ということを、学生時代の頃から強く思っていたのを思い出す。


その洞察力とは、いったい何だろうか?
本質を見抜く力。
ふつうの眼力では表面部分しか見えないところが、洞察力のある人は、その奥の奥まで読み取ってしまう、というか。

物事の因果関係や、物事の広さの認識でもそうですが、ふつうは見落としてしまう因果関係に気づいたり、そういう着眼の鋭さ。
原因と結果の関係を正しく紐解いて、いちばんの原因を捉えてしまう、だとか、そういった諸々の力、観察力、分析力、判断力、そういった知的な総合力を必要とする、ものごとの本質を見抜いてゆく力。


そんなイメージで考えていたものですが、

これにはもう一つ、とても重要な要素として、対人能力の高さ、人間関係の豊かさ・広さ、協調性のある人間になること、というのも抜きがたい必要部分としてあるんですよね。

洞察力がある人の特徴、というのを調べてみると、観察力だとか、情報量、知識の豊富さ、分析力の高さ、というのは当然出てくるけれども、

多くの人と親しく交流する能力がある、という点も実はある。
自分とは違ったいろんなタイプの人とも仲良くなれる、というのは、自分以外の人の物の見方も受けいられるキャパの広さがある、それだけ幅広い見方を許容できる、という意味で、寛容さといってもいいけれども、他人から好かれる性格ですね。こういう要素も必要なのだ、ということ。

これは、いろんな著作家の本を読む、というのとは違いますよ。現実にいま生きていて、たがいのあいだで会話が成立する、そういうリアルな人間関係を現にいま構築できている、そういうことが得意というか、豊かである、ということですね。

情報や知識といったものは、読書やテレビ、ネットなどでも入手できるかもしれないし、その量を誇ることは可能だけれども、それはやはり一方的な自己都合の摂取に過ぎない部分があるので … 
そうではなくて、互いに交流できる、それも親しく、幸福な関係性を築ける、そういった人間関係力があるか、ということですね。他の人の視点も入ってこれる、受け入れられる、それだけの広い情報摂取力があるかどうか。この広さが、深い洞察のための重要なポイントになってくる。

豊かな人間関係、これを築ける力があるかどうかが、とても大切なんだな、ということ。

交流が幅広い、幅広い交友関係を持っている。

これはいま、現在進行形で起こっている時事問題であるとか、いま目の前で起きている事柄、自分が遭遇している事態、あるいは相手が遭遇している事態に対して、それぞれが意見を述べたり、相談をし合ったりして、違った視点から出た複数の考えに、折り合いをつける、どれが良い対策かを一緒になって考える、だとか、そういうことを可能にする能力なわけで、独りだけでは得られない学びがありますからね。

視野の広さ、という点においても、単に、偉人の著作をたくさん読んで、そういう意味での広さというだけではなくて、現にいま同時代を生きている仲間、法友、ソウルメイトといってもいいけれども、そういう、現にともに生きている仲間と、ともに手をたずさえて、魂から出る思いや考えを述べあって、意見を同じくしたり、互いの未熟や欠点を補いあったりして、そういう交流によって自身の考えをさらに優れたものにし得る、という重要な効果があるわけです。

自分視点で得た情報だけでなく、自分とは違った同時代人の観察や知識をも、学ぶことが出来る。これは情報や知識の幅も広げることにつながるし、自分一個が独学でいくら本を読んだとしても、決して得られないであろう貴重なる視点ですね。これが他者との交流で入ってくる。

洞察力の深さにも、これは当然影響を与えるものであるし、それも好い交流からは、好い影響が出るはずですね。見識の高い友人との付き合いならば、自分自身の知的判断の向上にもプラスとなるに違いありません。

法友との会話をすることなく、もし自分がただ独りにて本を読むだけであったなら、必然それは、自分一個の見解に閉じ込められた範囲での、狭い認識にしかならないと思うし、いくら広げようとしても、読んだ上で多くの法友たちと、その学びに関しての会話なり、話し合いの経験を積み重ねている人の、幅広い学びには及ばないところがある。

それに人類一般とかいう形での、抽象的なる人間理解、他の人はこれこれこうである、という抽象論では及ばない、生身の人間の誰それさんがどうこう、Aさんはこういう人で、Bさんの体験で聞いたのですが、という他の人の実際のリアル体験を参考にしつつ、法理解を深めていっている人の具体例を多く含んだ学びには、やはり及ばないところがどうしてもあるでしょう。

知力というのは、独り座して、読書に励む、だとか、静かに黙考して考える、という時間がどうしても必要ですが、それだけでは駄目なのであって、独りの時間以外では、多くの人と親しく交わる時間を持つ、ということが同じくらい大事になってくる。両方やってこそ、はじめて真の意味で、完成された魂への道が拓かれるのだと思います。

ゲーテの言葉。
「才能は孤独のうちに成り、人格は世の荒波にて成る」という言葉をブログ記事でも何度か取り上げましたが、
わたしはこの言葉は、

独りの時間を持って、自分の内面を深める努力をする必要がある。
それと対極の行為として、
外に出て、他の人と親しく交流して、外面的なる付き合いを持つことも、同じくらい大切である。

という意味に解しています。

独りでコツコツ学んでいると、いろんなことを覚えることが出来るし、いろんな理屈が頭の中でかけめぐって、自分なりの思考を持つことも可能です。
しかしてそれは、他の人にとっても意義を持つ思考であるのか、価値を持つ思考内容になっているのかどうか。単なる独りよがりな、偏屈な自分勝手な思い込みであるとか、独善的な思考内容に過ぎないのではないか。
そうしたチェックが必要だと思うんですよね。

だから学んだことがあったなら、その内容を他の人と語り合ってみる、というのが大事だと思っていますね。それは自己の独りよがりを修正するためでもあるし、他の人の視点というのも正しく加味することでもあるし、真に普遍的に価値あることであるのなら、自分だけが満足していればいい、というような独りよがりの認識は通用しない、と思っているからですけれどね。

人は、一個の個人でありながらも、社会の中で生きているということは、両方とも、人間にとっては大切な、欠くべからざる要素であり、課題であるのだ、ということだと思うのです。