トルストイとドストエフスキー、仏典の翻訳例 | LEO幸福人生のすすめ

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幸福の科学一信者のブログです。
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この二大文豪は、数多い世界文豪の中でも、特に偉大なる文豪として称えられる存在で、
幸福の科学の霊言で、その過去世を当人がそれぞれ語った際にも、さもありなん、納得、と思えるほどの文豪です。


わたしは高校1年の時に、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読みふけり、それ以降、この作品は2度3度と読み返しました。
それから「罪と罰」も読み返して、ブログ記事でも書きましたが、魂の秘密を聞いてからは、なおいっそう、その作品を読んで理解したいなぁと思い、せっせと読んでるんですが、
 

悪霊(上)
ドストエフスキー
古典教養文庫
2016-10-13

 

 

 

 

 

復活(上)
トルストイ
古典教養文庫
2019-01-02

 

 

 


ドストエフスキーの「悪霊」を読みながら、トルストイの「復活」も併読しての再読。
どちらも上中下の三巻本なので、なかなか読み終わらないんですが、

いやードストエフスキーの「悪霊」は、カラマーゾフや「罪と罰」と違って、なかなか事件らしい事件も起きないで、たくさん登場人物が出てきては、会話をしたり議論をしたり、いろんな行動をとるわけですが、冒頭に事件らしい事件も起きないので、まるで興味が湧かないで困ったんですよねー。

なんでこれは面白くないんだ? 文豪の有名作品という前提がなかったら、上巻読み終える前に、つまらない!って放り出しちゃうレベルだよ、これ。
などと不満に感じたので、ネット検索。

すると、ドストエフスキーに詳しい大学教授のアドバイスで、「悪霊」は下巻から読んだ方がいい、なんて発言がありました。
た、確かに!!

読み続けていったら、下巻でようやく事件が起きました。それからは確かに、続きが気になって、ページをめくるスピードが速くなる。
もっとも、それ以前に、登場人物たちを克明に描いてきて、だからこそ彼らの関係の変化、物語の動きが気になるのか? といったら、それにしても、上巻中巻の2冊もの長さは要らないだろう、と現代の小説の傾向からしたら、そう思わずにはいられない。4分の1くらいのダイジェストくらいじゃないと、現代の読者はこの作品、読み通すのしんどいんじゃないだろうか。

などと思いつつ、トルストイの「復活」を併読するという。
こちらは前に一度読んでいるので、最後までの流れが何となくうろ覚えですがわかるので、細かな描写を味わいながら読むことが出来ます。

 

 

 

 

民話集 人は何で生きるか
トルストイ
古典教養文庫
2020-05-05

 

 


トルストイが改心後に書いた民話「人は何で生きるか」の電子版が出たので、さっそく購入。
これは私の好きな米川正夫・訳バージョンの、旧い言い回し部分を多少現代風に改訳したかたちの翻訳版。
いろいろ読み比べてみて、米川訳がいちばんわかりやすい、というか、言葉選びや表現がわたし好みなので、いちばん読みやすいんですけどね。

 

 

新版 人生論 (角川文庫)
トルストイ
角川書店
2004-05-17

 

 


改心後のエッセイ「人生論」の角川文庫版は、米川正夫さんの訳だとずっと勘違いしていたんですが、米川さんの自叙伝エッセイを読んでいたら、あれを訳したのは息子さんらしい。確かに名前を確認してみると、米川正夫、ではなく、米川和夫、になってる。息子さんだったのか、知らんかった。

でも、息子さんの訳も素晴らしいですよ。他にも多数ある「人生論」の翻訳。読み比べたけれど、角川文庫の米川和夫・訳だと、読みやすく、わかりやすい文で、意味を掴みやすいので、スラスラ読めますから。
あとは岩波文庫の、中村融さんの訳も読みやすい。


名著を読むには、翻訳家で選ぶべし、というのが、わたしの持論。というか、当たり前かもしれませんが。無造作に、安い文庫本だからと、すぐに買ってしまうのは禁物。いろいろな訳がある場合は、よく読み比べてから、買うのがよし。

わかりにくい訳で読むと、頭にぜんぜん意味が入ってこないんですよね。
これは読んでいる自分の頭が悪いのか、でなかったら、訳している人が、オリジナルの意味をよくわかっておらずに逐語的に訳しているから、そうなるのか。

やはり文章を読んで理解する、というのは、
その文章が指し示している内容の、意味、概念、言わんとしていることのイメージなり、微妙なるニュアンスなりを、どこまで上手に伝えることが出来ているか。
という点に、かなりの比重があるのは間違いがないので、読み手の自分の読解努力は当然ですが、できることなら、より良い訳で読むに越したことはないですからね。

スッタニパータ(釈尊のことば)の、いちばん最初の箇所の翻訳、3パターン引用してみるので、皆さん、読んでみてどれがいちばん読みいいか、テストしてみてくださいませ。
最後に誰の翻訳であるか、いちおう明示しておきますので、参考までに。

 

 

 

怒りが起ったときには、全身に拡がる毒を薬草でおさえるように、その怒りをおさえる出家修行者は此岸(この世) をも彼岸(あの世) をも捨て去る。蛇がもとの抜け殻を捨て去るように。

 

 

蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

 

 

もし比丘にして、むらむらとこみ上げてきたいらだちを除去してしまうこと、あたかも全身くまなくひろがった毒蛇の毒を霊薬によって解消してしまうごとくであるならば、そのような比丘は、あちこちへ往還し流転しつづけてきた輪廻を放棄してしまう。あたかも蛇が古くなったとき、久しく自分のものであった皮を捨てていくように。

 

 


上から順に、渡辺照宏・訳、中村元・訳、講談社学術文庫版、による翻訳です。

わたしは渡辺さんの訳がやはり一番いいですね。簡潔にして、意味もわかりやすく、掴みやすい。

中村元訳もわかりやすいように思えるけど、やわらかい表現になっている反面、かみくだいているがゆえに、言葉にキレがない、格調の高さが渡辺訳に比べると落ちる、という見方も出来るかと思います。

この仏典訳に限らず、明治時代の思想家や文筆家の、文語体の著述って、文章にキレが生まれて、論旨も明快に感じられるので、口語体かならずしも最上の表現方法にあらず、という気さえしてきます。

大川隆法先生が、新約聖書の翻訳なども、現代的な口語体訳よりも、むかしの文語体訳の方が名調子で、光も出ている、と解説してくれていましたが、これは訳者の悟りの差、というのもあるし、あとは文体そのものの持つ、表現力の違い、というのもあるように思います。

ちなみに一番下、三番目の訳などは、かみくだきすぎていて、やたらと文章が長くなるばかりで、かえって意味が見失われてしまい、いったい何を言いたいのか、という文章にしかなっていませんね。
こんな訳では、平易ではあっても、読んだ後に何も残らないし、長い文章を時間をかけて読んだけれども、結局なにを伝えているのか、この文章は? と思えて仕方がありません。

上の二人の訳は、あの世もこの世も捨て去る、という表現をしていて、これは、この世に執われなくなる、それと同時に、あの世一辺倒であの世的になりすぎることもなく、その中道を悟る、みたいな意味合いで私は解釈しますが、

三番目の訳みたいな表現だと、「流転しつづけてきた輪廻を放棄してしまう?」。輪廻からの解脱という意味合いだろうと思いますが、生まれ変わりをもうしなくなる、ということを言いたいのかもしれませんが、輪廻を放棄、なんていう言い方では、まるで輪廻がめんどくさいので自主的に放棄するよ、などというニュアンスに聞こえてしまって、これは伝えているメッセージが前2者とまるで違ってしまうのではあるまいか。

皆さんはこうした翻訳の違い、どう思われるでしょうかね? そこまで気にしない?(笑)

ちなみに、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」。光文社新訳文庫の亀山訳が、読みやすいということで爆発的に売れたそうですが、この人の訳は誤訳が多く、ドストエフスキーが選んだ言葉を訳者の恣意によって別の言葉に置き換えたりしていて、ドストエフスキーの本意を正しく汲んでいない訳とされ、批判を多く受けています。
わたしも調べてみたけれど、平易に訳せばいいってものじゃなくて、ドストエフスキーの表現が元々晦渋さを含むなら、それをも合わせて訳すのが、オリジナルの著者の真意を生かすものだと、やはり思います。
だから、亀山訳以外の訳で、ドストエフスキーは読んだ方がいいよ、と思いますね。

 

 

 

 

民話集 人は何で生きるか
トルストイ
古典教養文庫
2020-05-05

 

 

 

 


↑ この本のいちばん後ろに付いている訳者あとがきが素晴らしかったので、これを引用して、トルストイの偉大さを書こうと思ってたんですが、脱線して、ぜんぜん違う記事内容になってしまいました。

あれこれ沢山の本を併読しすぎているためか、別に読んでいる本との関連を考えさせられて、こんなような記事になってしまいました。ハハハ。