宗教的真理は、教えの微妙なニュアンスを正しく理解することが大事、とのこと | LEO幸福人生のすすめ

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親鸞の悪人正機説を曲解して、誤った邪説を吹聴した息子・善鸞は、破門された。

真言密教の即身成仏を、阿弥陀信仰とミックスさせて、安易な即席成仏を喧伝した覚〇は、追放された。

師の教えに含まれる、正しい意味合いを理解せずに、
ただ自分に都合がいいような歪んだ解釈でもって、邪説を流布した輩は、師から破門され、
死後は天界からも追放される。

宗教的真理というのは、人が正しく生きるための道筋を述べるものである以上、
曲解した勝手な解釈と説明を付け加えて、人々を迷わすことは許されない。悪となる、ということ。



とある新刊で、大川隆法先生の言葉に、つぎのようなものがありました。
親鸞の悪人正機説に関しての、仏陀から見た解説ですね。

 … 悪人正機説も微妙なのです。 「悪人ほど救われる」といいますが、確かに、医者には、重症の 患者 を早く救おうとするところはあります。ただ、その悪人というのは、単に体が重症というだけではなく、自分のことを悪人だと思い、深く心を見つめている人のことなのです。「自分自身の行いと生き方を深く 振り返り、『こんな悪人は地獄行きだな』と思っているような人のそばにこそ、阿弥陀様は来てくださって、救いの糸を垂れようとされる」ということを言っているわけです。

 

 

悪人こそは救われる。悪人であるほど救われる。といった、浄土真宗系の救済論、阿弥陀信仰の救済論を、自分に都合よく歪めて解釈してしまえば、

悪いことをしても人を救ってくれるのが、仏の広大無辺な慈悲ではないか、などと極論に走って、
それが、仏の慈悲の広大さ、慈悲心の大きさ、などという自分勝手な神仏定義に持って行ったりしかねません。
そういう邪説を述べる人間が確かにいますよね。学者にも素人にも、この手の傲慢な主張をする人が実際にいる。

そして次には、その自分の勝手な神理論から逆に考えて、
人間に厳しい条件を与えて、条件付きでしか愛さないように見える、そんな、突き飛ばすような神仏は、神仏ではない。
などという輩が出てくるんですよね。完全に本末転倒の、自己中心の神理論になるわけです。

自分が定義する神仏のような在り方こそが、本当の神仏の姿であるはずであって、
この世の不幸を放置しているような神は神ではない、だとか、
神仏ならば、苦しんでいる人間を放っておくはずがない。だから、悪人であっても、本当の神仏であるなら救ってくれるはずだ。そうでなければおかしい。そうではない神仏なら、わたしは認めない、と、ここまで傲慢なことを言う人間も出てくるわけです。

自分が信じる神仏は、そういう条件をつけない、広大無辺の慈悲を持った神仏であって、その定義から外れる神仏論を教える宗教は、邪教であり、信じるに値しない、と、こう来るわけです。
幸福の科学のアンチにも、一部こういう考え方をする退転者がいますけれどね。完全な邪見と言っていいでしょう。


そうではなくて、総裁先生の説明にもあるように、
悪人であっても救われる、というのは、自分のことを悪人であるという自覚を持っている人。
自分が悪人であるとわかって、そのことを悔いて、自分の心を見つめて苦しんでいる人であってこそ初めて、救われる対象としての悪人定義に当てはまってくる、ということですね。

罪の自覚、悪の自覚があるからこそ、反省の気持ちがわずかであっても目覚めつつある。
そういう悪人であるならば、アングリマーラの改心のように、パウロの改心のように、あるいは親鸞自身のように、神仏の慈悲によって目を開かれ、魂が救われる、ということが現に起き得る。

そうした改心者とは正反対の傲慢なままの人間、自分のことを悪人だなんて思ってもいない。確信犯的に悪事に手を染めており、かつ、自分は悪くない、正しい、なんて言い張る人間が、悪人正機説に言う、救われるはずの悪人であるはずがない。
改心の気持ちすら無い悪人は、単なる悪人にすぎず、それ以上の者でもなければ、それ以下の者でもない。魂の救済など、まだまだ先のことでしょう。

自らの心を見つめ、悔いることもなく、反省する気も無い人間が、救われるわけがありませんね。
天国に救い上げられようなんて、図々しいにも程がある、と言うしかないでしょう。

悪人正機説で言う悪人とは、

その悪人というのは、単に体が重症というだけではなく、自分のことを悪人だと思い、深く心を見つめている人のことなのです

とあるように、みずからの悪を自覚し、その罪の重さを痛感して、それを悔い改めたいといって、仏の前にこうべを垂れる、そうした謙虚な心を取り戻した人のこと。
そうした殊勝なる、謙虚なる心を取り戻した時に初めて、人はようやく地獄から救われて、天国へ帰る道が拓かれる。天から光が下りてくるのは、人間側の改心があってから、その後のことですね。

これは、19世紀のスピリチュアル通信でも、すでにそうした霊界体験の報告がありましたから、今でも読むことが出来る話を読んでも、納得です。 → 参照;「ワードの死後の世界」

地獄に堕ちた、とある人物は、最初は地獄の一丁目程度で済んでいたのが、そこでも悪事を重ねるうちに、心が悪でどす黒くなればなるほどに、さらに一段下の地獄へと落ちてゆく。という体験をします。
当人からの通信ですね。

だんだん地獄の厳しさがきつくなり、鬼に追い回されて窯ゆでにされたりして、逃れることが出来なくなる。
チンピラ程度の悪霊相手には、念力合戦で勝つことが出来て、相手を従えたりも出来たものの、さらなる深い地獄では、凶悪な鬼に念力を向けても、もはや歯が立たなくなる。

あまりに厳しい地獄の責め苦に耐えられず、そこから逃れる方法は何か無いのかと考える。

地上で生きている人間に憑りついて、地獄に多くの人間を引きずり込めば、それが功績ともなり、今の苦しみから逃れることが出来る、と教わって、その地獄霊はさらに悪事を重ねます。

とうとう終いには、地獄のいちばん奥底の、真っ暗で何にも無い、誰もいない暗闇世界で、冷たい沼の中だかに全身が浸かる世界に放り込まれる。
会話をする相手もなく、苦しみのみがある世界で、天からの光も降りてこない悪夢の世界から、逃れることが出来なくなる。

そこで感じられるのは、自分自身のことばかり。
途方もない歳月が過ぎたあとで、心がわずかばかり落ち着いてきた時に、ようやくにして、自分の心の中にあるものが、かすかに見えてくる。
はじめて観る、自分の心の観察。自分の心の、なにが問題であったのか。生前の生き方の、どこに間違いがあったのか。

忘れ果てていた過去の自分の記憶。そこに反省材料を見つけ、感謝を忘れていた自分の愚かさに初めて気づき、神に救いを求め、祈りをささげようにも、祈りの言葉すら知らない自分。
わずかに覚えていた言葉を唱えたときに、暗黒世界の遥か先の方に、何かきらりと光るものが見えた気がした。

そのわずかな光を目指して、沼の中を進んでいき、ようやくにして、地獄からの脱出行が開始されるんですよね。

ここから、天国のいちばん最初の入り口まであがってゆく道のりは、地獄の一丁目から今いる最下層まで堕ちた時とは、正反対、真逆の道のりです。
トコトンまで堕ちた人間が、今度は逆に、いちばん下から、天国の入り口まで何とかあがって行かないといけない。

かつて見た、地獄の一丁目、地獄の三丁目は、どのように見えるだろうか。かつて見えた世界とは、違ったものに見えるようです。


地獄からの救済というのは、かようにして、当人が心からの改心をしなければ、かすかな導きの光すら差してこない、という実態からしても、そう安易な救いなどは与えられない、というのが真実なんですね。

自己責任の原則がある以上、間違った生き方をした責任は、自分自身で償わねばならない。
反省と改心は必須であり、懺悔の心も持たない人間が、仏の慈悲によって救われる、誰でも天国にすぐ帰れる、なんていうのは間違いであり、邪説ということですね。
 

啓善, 桑原
でくのぼう出版
2015-08-01