【再掲】御法話「奇跡を感じよう」に魂を救われる。受け入れること、運命を抱きしめること | LEO幸福人生のすすめ

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2007年に大分支部精舎で行われた御法話「奇跡を感じよう」。
この御法話抜粋動画は3年前からネットでアップされています。紹介しているブログも数多い。
「奇跡を感じよう」御法話そのものは、書籍「ストレス・フリーの幸福論」に収録されていますね。発刊は2012年の7月。

心を癒す ストレス・フリーの幸福論 (OR books) -
心を癒す ストレス・フリーの幸福論 (OR books) -

わたしは発刊してすぐに読んだわけですが、その内容が魂に本当に深く、深く入って来て、心が<救われる>体験を得たのは、翌年のことでした。
読んだ直後ではなく、まさにここに書かれたような、魂の悩みや苦しみを自分が実体験して、苦しみのどん底でもがくハメになった時に、この「奇跡を感じよう」の一つ一つの言葉が、あらためて思い起こされ、魂に響いて、そして、救われたんですよね。



幸福の科学では、「努力の教え」を中心に法の体系が出来上がっていますが、物事には何でも反面というものがあります。
みなさんのなかには、「努力の教え」に基づいて、日々、頑張っていても、自分自身の悩みや苦しみから、なかなか抜け出せずにいる人も、いるのではないでしょうか。その場合には、「自分は、今、なぜ悩んでいるのか。なぜ苦しんでいるのか」とお考えいただきたいのです。
その原因は、おそらく、ただ一点に集約されるはずです。それは「自己防衛の気持ち」です。「何とかして自分を防衛しよう」と思い、それに基づいて考え方を組み立ててはいないでしょうか。そのことを点検していただきたいのです。




自己防衛の気持ち、これが原因だと書かれています。悩みや苦しみの原因は、この一点に集約されると、書かれています。
そしてわたしはそれを2012年の7月に、活字としては読んでいます。読んではいたけれども、そのことが本当の意味ではわかっていないんですよね。その時点では。

それゆえ、翌年になって、悩み苦しむ問題にぶつかって、もう魂が身もだえするほどに慟哭して苦しんだ。別に信仰の問題ではないですよ。自分自身の、人間としてのふつうの悩みですね。これで悩み苦しんだ。
わかっているようで、わかっていなかったわけです。
言葉では読んでいても、まだ自己防衛の気持ちゆえに、その自我から来る苦しみに、身もだえするような未熟な自分であった。ということです。

真面目に生きてきた自分が、なぜこんな目に、こんな苦しみに遭うのか、なぜだ。

といって苦しむ。抽象的に書いていますが、わたしにとっては、人生最大の苦悩とも言うべき大問題となりました。
必死で考える、自分が学んできた真理に基づいて考える。ああでもない、こうでもない、何が違っていたのか、違っているのか、自分のどこに勘違いした部分があったのか。自分は真理をそれなりに学んできたつもりが、まるでわかっていなかったのか。自分を責める思いと自己不信ですね。

こうして悩むわけですが、自分を責めるのは、反省ではないんですよね。それは自分を責めて、自分の悪い点を見つめているつもりでいて、実は単に自分を苛めているだけだったりするんですよね。
苦しみ続けているということは、それは<反省>にはなっていないということでしょう。だって、反省が進めば、心は洗われて綺麗になり、魂は救われた気持ちになれるはずなんですから。
したがって自分を罵り、自分に憤り、自分を責めるのは、反省ではなく、自分への攻撃でしかなくて、ひどい場合には、自分の仏性を汚していることになっているだけのこと。そういうことを私はこの時の体験で知りました。
それは反省ではない。自分の仏性を汚すな、という〇〇を受けましたのでね。

自分を責めるということは、他者を責め、他者に責任転嫁するのと変わらない。それは本当の意味での原因を探る行為にはなっていない。心の穢れを知るというのは、自分を責めること、自分の欠点を責めることではない。そんな態度は、反省とはまったく違っている。

自分を責めるというのは、自分を罵ることによって、仏性をも否定して、神仏を信じていない不信感にもつながるものです。自分を否定し、他者を否定して、そこに何の仏性があろうか。仏の光が見出せようか。

偽の我を捨てる、偽の自分を見出すというのは、自分の欠点を罵ることではない。自分のまちがいを潔く認める自分でありながらも、その奥に光る仏性、神の子としての自分の光は、素晴らしいものであると、信じる心がなくては意味がない。単なる自己否定だけでは、自分がみじめになるだけでしょうから。

あとは、極端な自己否定の心は、そこにもまた<隠された自己愛>があったりするのでね。要注意です。
自虐的に自分を見つめることが、自己反省のような錯覚を起こさせていて、そうした気持ちに酔っていたりしませんか。自分を見つめているつもりで、反省している自分という虚像に酔ってはいないだろうか。そういう体をしているふりをしながら、実際には、いまの自分をまったく変えようとしていない。現状の自分のまま、変革する意思もなく、オレはどうせこうなんだ、これがカルマだ問題だ、といって、単に現状の自分を見てああだこうだと、分析しているだけではないか。それは自分を見つめているのでなく、反省でもなく、単なる自虐的精神でしかありません。

本当に、ニセモノの自分を捨てるつもりがあるのか。それが問われている。



その自己防衛の気持ちとは何であるかというと、一つは「自己弁護」です。




自己弁護の理由をいろいろと探して、ああでもない、こうでもない、と理屈を並べて、なんとかして今の自分をそのまま変えずに、世界と、神と、他の人間の解釈を変えることでもって、自分を納得させようとしてやしないか。誤魔化そうとしていないかどうか。



不幸の説明を、内側に求める場合と外側に求める場合の両方がありますが、いずれの場合も、原因をグーッと絞っていくと、「自己防衛の気持ち」という一点に辿り着くはずです。 幸福の科学では反省の教えを説いていますが、どうか、「自己防衛の気持ちが働いていないか」ということを、よく考えていただきたいのです。

実は、それこそが、みなさんを悲しませたり苦しませたりしている本当の原因なのです。




苦しい自分がここにいて、その理由を、内に求める、自分に求めることもあれば、外に求める、他の人の原因にしたり、世の中の何かのせいにしたりと、いろいろと工作したがるけれども、
なんのことはない、もっと奥まで見たら、単に「自己防衛の気持ち」から、屁理屈をこねくり回して、自分を納得させようとしているだけだったりする。

ほんとうの意味で、裸の自分になりきれていない。自分を捨てようとはしていない。
しかし、裸の自分にならないと、自分の個我の奥にある<仏性>は見えてこないんですよね。
言い訳や自己防衛、屁理屈を並べて自己を正当化したい気持ち、こういう<逃げ>の気持ちであっては、神仏の前に、立っている状態にはなり得ていない。成り得ていない以上、仏の光を受けての、真の魂の救いの感覚は得られないでしょう。理屈では救われないんです。理屈だけでは救われない。



苦しみは「自己防衛の思い」から生じているものなので、「苦しみから逃れよう」と、あがいているうちは、本当は苦しみから逃れることはできません。 したがって、あきらめてください。他人を責めるのも、自分を責めるのも、あきらめてください。




あきらめてください、とあります。
このあきらめてください、というのは、苦しむしかない、という意味ではありません。
ヘレン・ケラーが最初の霊言で述べていたが如く、「自分の運命を抱きしめよ」という言葉が、まさにこのことだと、わたしは思うのです。
苦しみが自分に襲い掛かってきた時、自分特有の、他の誰かではなく、自分独自に与えられているこの運命、その中にある苦しみを見た時に、なぜ自分がこんな目に、こんな苦しみが自分に … 
といって悶え苦しみ続けるのではなくて、それを潔くあきらめて「受け入れること」、わかりました、わたしにとってのこの課題は、わたしに必要だから現れてきた運命なのだから、何かを私に教えんとして現れた課題なのだから、「受け入れましょう」。
主よ、わたしはこの運命を抱きしめる、自分の運命を受け入れます。すべては御心のままに。この課題、一見、苦しみにしか見えないこの自分の課題は、自分に何かを学べといって与えられた、慈悲ゆえの学びなのだと、心素直に信じて、わたしは受け入れます。すべては御心のままに、主よ、感謝します。

そんな気持ちになって、ゼロからやり直そうと思えたとき、裸の自分になり得た時には、涙がボロボロと頬を伝って流れ落ちる。
意地を張って人生を戦おうともがくのではなく、最後の最後では、すべてを主の御心に委ねて、甘受する気持ちを持つ。素直な心、赤子のような心でもって、すべての運命を受け入れ、抱きしめる。

生きているだけでいいじゃないか。いまの一瞬に、この命があるだけでもいいではないか。それだけでも私は、主に感謝いたします。ありがとうございます、主よ、主よ。

涙がボロボロこぼれます。

偽の自分というのは、なかなか捨てられるものではない。本を読んで、偽我を捨て、真我に目覚める、といくら言葉で読んだとて、本当にどこまで自己滅却が出来ているのだろうか。
苦しみの中に置かれたときに、それがハッキリと出てしまうんですよね。苦しみ悶える自分の根本に、執着がたくさん残っていて、その執着、執心、未練だとか、プライドだとか、口惜しさ、自己愛、そんなものがまだまだあって、そこに苦しみの根があることに気づく。ぜんぜん捨ててないんですよ。執着がたくさん残っている。
だってそうですよね。執着を去るための精神修行、本当に、本気でやっているだろうか。瞑想実習しているだろうか。反省行に徹底的に打ち込んだことがありますか。と問われたときに、ああ、やっていないなそこまでは、ということに気づくはずですから。
やっていないんだから、執着はまだ去れていないんです。名誉欲、金銭欲、その他、あらゆる欲が、言葉ではわかったつもりでいても、心の方はしっかりと執着したままだったりする。だから苦しみが現れてきて、消せないんですよね。



「今、自分の目の前に起きている現象は、すべて、起きるべくして起きているのだ」ということを受け入れてください。
「今、起きている事態は、他の人の原因や自分自身のミスによって、たまたま起きたことではない。現在、自分を苦しめ、頭のなかを占領している問題は、実は、起きるべくして起きているものであり、今の自分に必要な課題が現れてきているのだ」と思っていただきたいのです




いまの自分に現れてきた苦しみや悩みは、現れるべく現れている。それは、起きるべくして起きている。

では、どうするか。

受け入れよ。です。受け入れて、運命を抱きしめる。もがくのではなく、心を静かにして、欲を捨てて、赤心になって、裸の自分になって、ゼロでもいいじゃないか、何もなくてもいいじゃないか、という心境になって、すべてを受け入れる。仏の御心のままに、この事態を受け入れる。受け入れるのです。

すると、その時にはじめて、魂が救われるという経験を、人は体験することが出来る。



瞑想の時を持ってみてください。あれこれと分別知で考えるのではなく、心を止めてみてください。 「善か悪か」「プラスかマイナスか」「前か後ろか」「右か左か」など、分別知によって考え、「結論を出そう」として焦る心が、実は、自分を苦しめているのです。 そのときには、まず一切を受け入れてください。判断を下さずに、「今、ここに、自分に対して宇宙の意志が現れているのだ」と考えてください。




わたしは日頃、あれこれと考える傾向が強いので、悩みのときにも同じく、ああでもない、こうでもないと、一生懸命に頭で考えて、問題を解こうとしてしまいます。
けれども、それでは救われない。会社の仕事や、学校の勉強や試験問題を解くのとは違うのです。

分別知によって考えるのではない。分析的思考によって、理屈を考えるのではない。

そうではなく、受け入れる。抱きしめる。あるがままに、魂のすべてで、その状態を受け止める。
ヘレン・ケラーの言う「自分の運命を抱きしめる」だと思います。

善悪の判断や、白黒の区別、右か左か、といった判断能力に頼るのではなく、そういう分別する心を超えた、もう一段、奥深くにある心そのもので、受け入れる。



一切を受け入れることも、人生における勉強の一つなのだ」ということを知ってください。

自分を責めたり他人を責めたりすることをいったんやめて、それを受け入れてください。「今の自分に必要があって現れている問題なのだ」というように受け入れることが大事です。 そして、心静かに瞑想してください。判断は中止してください。判断してはいけません。そのときに、「善か悪か」「前進か後退か」「捨てるか取るか」といった判断をしないでください。 今のあなたに必要があって現れてきたものなのですから、それを静かに受け止めてください。 大宇宙の意志が働いて、今のあなたに必要な課題を与えてくださっているわけなので、その意味を静かに受け取ることが大事です。あなたの今世の魂修行に必要な内容が、そのなかに必ず含まれているはずです。 繰り返しますが、「自己防衛の考えで、すべてを解決しよう」「会社の仕事のようなかたちで解決しよう」などとは思わず、逆に受け入れることです。そして、そのなかに、大宇宙の意志を、あるいは、神の心、仏の心を感じ取ってください




本当の意味で、ちっぽけな自分へのプライドやこだわりを捨て、赤子のような心でもって、仏さまの前に立ち涙することが出来た時、たしかに魂が救われる光が、降り注いでくることを感じる。そういう体験が得られるでしょう。

その日のあと、いきなり世の中がバラ色になるとは限りませんが、それでも世界は確かに、それ以前とは違って見えてきます。
ちっぽけな自分のこだわりを捨て、つまらないしがらみに悶えることを辞めた時に、心はサッパリとして、ささやかな日々を一歩一歩、もう一度ゆっくりと歩み初めていこう。そういう爽やかな気持ちになって、自分の魂が新生したことを感じられるでしょう。
かつての自分とは、いまの自分は違った存在になっている。つまらないプライドはもう要らない。そこから生まれる苦しみもない。ただひたすらに、仏の御心のままに生きていける自分であろうと、そんな気持ちになれるのではないか。

そう、思うのです。