わたしは、過去の宗教者が残してくれた書籍も、よく読み、知っておきたいと思う。
幸福の科学が在る現在とは違って、限られた知識しか持ちえなかった時代に生きながら、
ひじょうに深い宗教心を持って生きた人がいたことを知る時に、自分の未熟を思い知り、謙虚にならざるを得ないと思うのだ。
信仰とは何か。
神仏を真に敬う心とは、どのような精神の在り様を言うのか。
その状態を、こうした人の内面を読み、知ることで、学びたいと思う。
自分の現在の心境が、いかにそこから未だ遠い状態であるかの、反省にもなる。
愛とは何か。
自分を愛するのではなく、真の意味で他人を愛するとは、どういう心の状態であるのか。
利他の思いと言い、他人を愛する心の大切さと、口で言うのは容易い。
しかしそうした言葉を発する自分の心は、本当に日々の生活のなかで、他の人のことを愛し得ているのだろうか。ちょっとした親切でもって、与える愛を実践していると、自分の心の探求をあまく考えてやしないだろうか。
自分自身が困難な状況にある時にも、他の人のことを思いやる心があるだろうか。自分の問題に汲々としてやいないだろうか。
そういう心であっては、真に他の人のために生ききれる心境には、まだ達し得ていないのではないか。
自分を責める必要は無いが、甘やかしてはいけないとも思うのだ。
愛の思いは限りない。どこまで行けばよいというものでもない。
けれども、その入り口で止まっていて、こんなもので十分だといって自分を甘やかしていいものでもない、とも思う。
真に宗教的なる深みに至った人の心、その人の信仰心の深さ、他の人を思う愛の思いの深さを知る時に、まだまだである自分にようやくにして気づく。
そういう学びをしなければ、人は容易に自分に自惚れ、慢心し、上から目線で生きるようになったりしてしまうものだ。
謙虚なる心を失った時に、そこには他の人を、自分と同じように愛する気持ちは無いのではないか。上から手を差し伸べるような気持ちになってしまっているのではないか。
その時、わたしの心は、信仰心に関しても純粋とは言えない状態にあるのではないだろうか。
他の人のことを本当に真心から慈しみ、愛する心を持っている人が抱いている、神さまへの信仰心と。
いまだ自分のことばかりを思う気持ちが強い人が、神を思う気持ちとでは、相当な開きがあるのではないだろうか。
信仰と愛。
この二つは連動していて、不可分の関係にある。
信仰深き人の愛と、愛深き人の信仰。
その気持ちの深さを、優れたる先人、宗教的なる魂を持った人の言葉から、学びたいと思う。
偉大なる師から学ぶ、という学びも大切であるし、
それと同時に、
師から学んでいる弟子の気持ち、考え方の変遷、からも学べることは数多い。
自分と同じようにして、主なる神を信じ、神の教えを学んでいる同胞から学ぶ。
幸福の科学で言ったら、各人、総裁先生の著作を読み、法話を拝聴することによって、各人各人が直接、先生から学ぶ、ということを行なっている。
それと同時に、法友たちはどのように学んでいるのだろうか、ということを知ることもまた、大切な学びになっているはずである。
自分だけの目線で留まるのではなく、他の人はどのようにして、その同じ法を学んでいるのか。他者目線を知ることで、より多面的に法を見る目が養われるに違いない。
過去の宗教者の著作というのは、その人から見た「神とは何か」という考察であったり、「愛」についての悟りであったりする。
その人の学びを知ることによって、わたしは私で、神について、愛について、みずからの悟りを得ていかなければならないのだと思う。