空港があるタクロバンから島の反対側のオルモックまではバンで3時間ほどかかる。急なカーブやのぼり道をバンは猛スピードで進んで行く。道路は舗装されてはいるが、なにせ急カーブの連続で、ひどく左右に揺さぶられた。


バンが走り始めてからも、吉田さんの退屈な話は相変わらずなトーンで続いていて、猛スピードで峠を越えていくバスの揺れの中で、私は適当な相槌さえ煩わしくなってきていた。(のでほとんど返事さえしなくなっていた。)


タクロバンを出発してから、あたりはすぐにヤシのジャングルになった。写真や映像で見ただけの単なるイメージに過ぎなかった世界が急に目の前に現れたとき、逆にその実態は現実味なく目の前を通り過ぎていく。写真の続き、どこかで見た映像の続き、そんなどこかふわっとした感覚にとらわれながら、車酔いでムカムカする胃袋を抱えて、過ぎ去る景色をぼんやりと眺めていた。


バンが走り始めてから2時間ほどたったとき、急な峠が幾重にも重なった場所にきた。途中途中で海が見え、ハイウエイの端は鋭く落ちていて崖になっていた。崖を避けながらハイウエイが激しく蛇行しながら峠の頂に向かってうねうねと伸びていた。


一つの峠を越える度に、一つずつ集落があって、それ以外はまさしく「未開」と呼ぶにふさわしいジャングルだった。道が整備された以外は、70年前となんら変わっていないそうだ。



「ここらへんじゃないですかね。」

不意に吉田さんが言った。それまで彼の話を適当に聞き流していた私は不意に我に返った。


「レイテ峠、ここら辺じゃないですかね。」


バンは一際高く、急勾配な峠を越えていた。相変わらず、見渡す限りのヤシの木だった。

かじりつくように窓の外を凝視しながら、やっとこれた、と思った。
そして、「やっと来たよ」とつぶやいた。

この「レイテ峠」のどこかにある、「日本陸軍第一師団慰霊碑」。そこに、私の祖父の叔父、父の大叔父も祀られている。陸軍第一師団に獣医として所属した私の大叔父は、この地で亡くなり、故郷宮崎には空っぽの墓石しかない。


「一族を代表してきました。もう少し待っていてください。」

峠を超えながら、心の中でつぶやいた。きっと私は見つけられるという確信が不思議とこの時湧いてきた。



ほどなくしてバンは「LEYTE」と書かれた看板のある集落で泊まった。今越えた峠がレイテ峠なのか、これから越える峠がそうなのか、全くもってわからなかったけれど、とりあえず、レイテの場所は分かっただけでも、このデスロードを激しい揺れに耐えながら走ってきた甲斐はあるように思えた。


バスはまた走り始め、また今まで通りの未開のジャングルがつづく。それでも先ほどまでの景色とどこか違って見えた。それは、「ここ」がとても自分の中でリアルになり、「つながり」をひたすら感じる場所になったからだった。



「餓死や病死が多かったそうですよ。レイテ島の戦いは。」

座席の後ろから吉田さんがつぶやく。その言葉は先ほどよりもしっかりと私の脳みそに響いた。

私は、吉田さんに気付かれないようにこっそり泣いた。堪えようとしたけれど無理だった。


その涙は、とてもリアルだった。テレビや映画を見たときの涙とは違っていた。自分がいま、「現実」に「いる」感覚。人類史の中の一人の人間として「在る」という感覚。点と点が何万個も重なって繋いできた線の突端にいる感覚。隣の隣の隣のはるか彼方の「点」が、いまは次元を超えて“隣”にいる感覚。


私のほほを伝った涙は、とてもリアルだった。


バスはそんな私を御構い無しに、あいも変わらず猛スピードで運んでいく。私の心はあいも変わらずではいられなくて、涙で霞む目を手の甲でなんども拭いながら道を覚えようと必死だった。



レイテの集落を出て、峠をもう一つ超えてから30分ほどでオルモックの町に着いた。とても綺麗な港町で、タクロバンよりも明るい活気に満ちた気持ちのいい町だった。吉田さんが定宿(と彼は言っていた)としている宿に私も泊まることになり、ティナと二人、黙って吉田さんに着いていった。


相変わらず情報はゼロだったけれど、目的地に近づいている、少なくとも行動しているということが、焦る気持ちを幾分和らげてくれた。


レイテ島を離れるまであと2日半。残された時間はそう、長くはない。