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  • 27 Nov
    • あんま、なめんなよって言われた夜

      Normal010 pt02falsefalsefalseEN-USJAX-NONE$([\{£¥‘“〈《「『【〔$([{「£¥!%),.:;?]}¢°’”‰′″℃、。々〉》」』】〕゛゜ゝゞ・ヽヾ!%),.:;?]}。」、・゙゚¢/* Style Definitions */table.MsoNormalTable{mso-style-name:標準の表;mso-tstyle-rowband-size:0;mso-tstyle-colband-size:0;mso-style-noshow:yes;mso-style-priority:99;mso-style-parent:"";mso-padding-alt:0mm 5.4pt 0mm 5.4pt;mso-para-margin:0mm;mso-para-margin-bottom:.0001pt;mso-pagination:widow-orphan;font-size:12.0pt;font-family:Century;mso-ascii-font-family:Century;mso-ascii-theme-font:minor-latin;mso-hansi-font-family:Century;mso-hansi-theme-font:minor-latin;mso-font-kerning:1.0pt;}ペンション・アミーゴに到着してから数日はなにもせずグダグタしていた。 10時近くに起きて無料の朝食の残りカスを食べ、昼過ぎまで宿の屋上や共有スペースで暇な時間を過ごし、またお腹が空いたら宿の向かいにある7ペソ、40円足らずのタコスを買ってきて食べた。夜になると、宿の近くにある“OXXO(オクソ)”というコンビニにビールとつまみを買いに出かけた。  メキシコシティについてからの数日間にやったことといったらこれだけだった。   ニューヨークからトロントを経由してのメキシコシティへの移動が想像以上にハードだったので、少し休憩を取りたかったというのもある。しかし、一番はやはり物価の安さからくる安心感とだらけだった。  物価の高いアメリカやオーストラリアにいたときは、滞在費が高かったため1日でできるだけ多くのものを見て回り、さっさと次の街へ移動することを心がけていた。というか無意識にそうしていたのだと思う。 けれどメキシコについて、宿代が一気にアメリカの5分の1程度になり、屋台で200円も出せばおいしいメキシコ料理がたらふく食える。そんなメキシコだったからこそ、わたしは何をするでもなく、ペンション・アミーゴの雰囲気に例にもれず飲まれて、他の旅人と夜な夜なビールを飲む生活を送った。   その生活に飽きはなかった。 酒の肴代わりに話す旅行者たちの冒険談が毎日わたしを新しい興奮へと誘った。それらは最高の肴だった。  肩書きも旅の長さも、もちろんどんな人生を経てここに流れ着いたのかも、みなバラバラだった。さらに彼らは、誰も他人に干渉せず、詮索せず、コミュニティを作るわけでもなく、一人一人が独立していた。  日本人宿という一種の閉鎖的な空間な中で、輪を作りこまないところがわたしはひどく気に入った。みなそれぞれの理由と“Want”に従って動き、それが交差したときにだけ誰かと行動を共にする。その適度な距離感がわたしにとってとても心地よく、また魅力的で、沈没者と呼ばれる長期滞在者がアミーゴに溜まってしまう所以であると思う。  そんな風にしてとくになにもしないまま、空いた酒瓶が増えていき時間だけが足早に過ぎていった。   そんなある日のことだった。   「メキシコの夜に、繰り出してみない?」 滞在3日目の夜、いつも最後まで飲み明かしていたメンバーの一人がそう提案してきた。その日は金曜日で、皆お酒も程良く入っていた。わたしを含めてアラサーの比較的若いメンバーが残っていたので、ダンスナンバーを聞きに、またメキシコの夜を垣間見に、夜の街へ繰り出してみようかということになった。  さっそく支度をして、宿を出てすぐの独立記念碑の下でタクシーを拾った。時刻はすでに23時を超えていたのだけれど、さすが金曜日だからなのか街はとても賑わっていた。通りを歩く若者の姿も多い。もちろん気をつけなければいけないのだけれど、メキシコの治安についてはメキシコに来る前と比べてだいぶイメージが変わっていた。   「この街で一番ホットなナイトクラブにいってください。」 言い出しっぺのKくんがそう運転手さんにお願いした。料理人の彼はメキシコに来る前は数年間スペインで働いていてスペイン語はペラペラだった。タクシーを捕まえて助手席に乗り込むなり、すぐに目的地の相談と値段交渉をはじめていた。   「ソナロサ地区にとりあえず行ってみれば?その方が良さげじゃない?」 運転手さんとKくんが目的地について議論していると、もう一人の同乗者がこれもスペイン語で会話に入っていった。Kjiくんはメキシコをはじめとする中南米を何度も旅しているツワモノで、旅の途中で覚えたスペイン語で新聞を読みこなし、テレビのニュース番組もしっかり聞き取れていた。   頼もしいわぁ・・・。 スペイン語が達者でメキシコという国にも慣れている二人を側で見ながら、わたしはそんな風に感心するしかできなかった。メキシコ滞在3日目にして、ついに宿から離れて観光のようなものに出たのだが、タクシーの外を通り過ぎていく夜のメキシコがわたしにとってはじめてのメキシコの街並みだった。   20分ほどタクシーを飛ばしてソナロサと呼ばれる地区にきた。ここはメキシコシティの中でも高級店が並びおしゃれな人が集まる地区だった。人と車が雑多に行き交い、クラクションと若者の奇声と歓声がザワザワとした興奮の渦を作っていた。わたしたちはお勘定をして運転手に礼を行ってから夜の街へと歩を進めていった。    メキシコの夜の街は、正直いってわたしにはまだ難しかった。  何件かめぼしいナイトクラブに入ってみたのだけれど、クラブの中でかかっている音楽はどこの店もサルサだった。さすがメキシコだなと思ってそれはそれで興味深かったのだけれど、いかんせんサルサが踊れない。しかもクラブ内のダンスフロアは手を取り合って踊るカップルばかりである。その状況でラテン初心者のわたしはどうノッていいのかわからず、隅の方でビール片手に、踊り狂うラティーナたちを眺めていることしかできなかった。  それは他の二人も同じだったようで、わたしたちはしっくりくる店を探して界隈を歩きまわったのだけれど、結局どうにも見つからなくて近くにあったピザ屋に入って休憩した。  「なんか、メキシコのクラブ、わからないわ笑」 メキシコだからサルサなのは当たり前なんだけどね、と前置きしてからKくんがそうつぶやいた。ノリきれなかった歯がゆさはわたしも感じていたので、そうだねと曖昧に応えて、3人で顔を見合わせて笑った。   最後にナイトクラブをもう一軒覗いてから、わたしたちはタクシーで帰ることにした。最後に入ったナイトクラブは、序盤はポップなダンスミュージックがかかっていたのだけれど、数曲かかったあとにやはりサルサ音楽に切り替わった。それが頃合いだと判断し、はじめての夜のメキシコ観光は終了した。  「まぁ、こんなもんか。」 だれともなくそんな風につぶやいて、わたしたちは少し疲労感を抱えながらタクシーへと乗り込んだ。大都会メキシコシティーのフライデーナイトに終わりは無い。夜もふけているというのに通りを歩く人も多く、酒を出す店の軒先で酔客の楽しそうな姿を見ることができた。   そんなゆるっとした金曜日の夜の街並みを眺めていると、10代前半くらいだろうか、少年たちが数人走っていくのが見えた。叫んでいる少年もいる。なんだろうと思って見ていると、後から走ってきた少年の手にはナイフが握られていた。  信号待ちをしていたわたしたちはドキっとして、運転手に大丈夫なのかと尋ねた。運転手は、ほんと困ったもんだよといった顔をして、よくないねぇと応えた。明るく健康的な夜の空気が一瞬だけ緊張感に包まれたようだった。   早くだしてください、と助手席に座ったKくんがスペイン語で伝える。もちろんだ、と言って運転手は引き続き少し怒ったような顔でアクセルを踏んだ。少年たちは夜の暗がりへと既に走り去っていた。  彼らが少年ギャングのようなものなのか、なんなのかは全くもってわからない。ただ、これもメキシコの一つの側面なんだよなと改めて思った。昼間の街の雰囲気や、夜の繁華街の雰囲気を見ても、「メキシコ、思っていたよりも安全じゃん」というのがわたしのこの数日の感想だったのだけれど、そこに良い意味で適度な緊張感をくれた。  あんまり、なめんなよ。 そう言われたようだった。そりゃそうだよな、と思った。なにごともなめてかかっていいことなどない。     夜中の3時をすぎたころに宿に戻ってきたわたしたちは、また明日と言い合ってそれぞれの部屋へ帰っていった。わたしは部屋の前に置かれた椅子に腰掛けて少し夜風に当たってから、ベッドへと潜り込んだ。椅子が置かれた通路は中庭に面していて、標高の高いメキシコシティの風は冷たく心地よかった。   あしたから、街をみてみよう。 ベッドでまどろみながらそんな風に思った。きっといろんな面がこの街にはある。それを見てやろう。旅へのやる気というものか、そんな気概が不思議と湧き上がってきた。  この街の滞在は長くなる。眠りに落ちる寸前、確信に近い予感が頭をよぎった。    つづく。  ⚫︎⚫︎Instagram⚫︎⚫︎→日々の写真をUP中。 にほんブログ村

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      テーマ:
  • 25 Nov
    • 臭いところに憧れる系旅人

      Normal 0 10 pt 0 2 false false false EN-US JA X-NONE $([\{£¥‘“〈《「『【〔$([{「£¥ !%),.:;?]}¢°’”‰′″℃、。々〉》」』】〕゛゜ゝゞ・ヽヾ!%),.:;?]}。」、・゙゚¢ /* Style Definitions */table.MsoNormalTable{mso-style-name:標準の表;mso-tstyle-rowband-size:0;mso-tstyle-colband-size:0;mso-style-noshow:yes;mso-style-priority:99;mso-style-parent:"";mso-padding-alt:0mm 5.4pt 0mm 5.4pt;mso-para-margin:0mm;mso-para-margin-bottom:.0001pt;mso-pagination:widow-orphan;font-size:12.0pt;font-family:Century;mso-ascii-font-family:Century;mso-ascii-theme-font:minor-latin;mso-hansi-font-family:Century;mso-hansi-theme-font:minor-latin;mso-font-kerning:1.0pt;}眼下には赤茶けたトタン屋根が広大なメキシコシティーの端まで続いていた。ところ狭しと並ぶバラック小屋を窓の下すぐに眺めながら「世界で一番市街地に近い空港」と呼ばれる所以がわかる。人々の営みが手に取るように見えた。     ニューヨーク観光を終え、カナダ・トロントを経由してメキシコシティーに入ったのは、ちょうど日本でお盆が始まる時期だった。  日本を出て、一ヶ月と少しフィリピンに滞在したのち、2015年の年末からオーストラリアに入った。そこから数えて9ヶ月。ずっと先進国を旅してきたわたしはなんだか安全で綺麗な街並みに飽きていた。 整備されたビーチ、凸凹のない道路、廃棄規制のかかった高級車。 どれもとても綺麗で新しくピカピカと光っていたのだけれど、正直わたしにとってはどれも同じに思えてならなかった。    「もっと、臭いところに行きたい」  ニューヨークを離れるときに強烈にそう思った。 気をつけないと穴につまづき犬のうんこを踏むような道。ゴミで埋まった川岸。自衛本能で鼻毛が伸びるほどの排気ガス。 そういったものに「憧れる」ことはほとんどキチガイに等しいと思う。それでもわたしは、整って、クリーンで、ルールがあって、それをきっちり皆が守っている、そんな場所から逃げ出したかった。規制もルールもへったくれもない、クッサイ場所に行きたかったのだ。     飛行機がメキシコシティーの上空につき、徐々に高度を下げ始めたときの興奮はやっぱりキチガイのそれだったと思う。台風が来たら吹っ飛びそうなトタン屋根が眼下を埋め、その合間に何百万と住む人々の営みのはしっくれのようなものを見ることができた。   それらはいかにも臭そうだった。  食物、排泄物、ゴミ、洗剤、排気ガス、人々の息  私たちが生きる上で必要なモノや行為の匂いがそのまま漂っていそうだった。それがとても嬉しかったし、わたしを心底興奮させた。    「Bienvenidos ! Mexico !(ようこそメキシコへ)」  機内アナウンスが流れて着席を促すランプが点灯した。もう間もなくメキシコに着く。  流れてきたアナウンスは当たり前だが英語ではなかった。スペイン語のあとに英語でのアナウンスが流れたが、機内のほとんどの客が英語のアナウンスを聞いていないようだった(とわたしが思いたかっただけかもしれない)  英語圏を離れたということも、さらにわたしを興奮させた。 フィリピンを含めて、日本を出てから英語圏の旅が長かったわけで、先ほど述べた先進国に対する飽きはそのまま英語という言語に対する飽きへと直結していた。      「なにかおもしろいことが起こるかもしれない」 未知の国メキシコの空港に降り立った時、右も左もわからず、曖昧に覚えていたスペイン語は曖昧すぎてなんの役にも立たず、まわりは褐色のラティーノだけしかいない。そんな状況だからこそ、わたしはこれから始まる旅に期待しか持てなかった。  気を張ってなんとか自分で切り開いていかなければいけない。  この緊張と興奮が旅の醍醐味だとわたしは思う。      とりあえず事前に調べていた路線バスを使って目星をつけている宿へと向かわなければならない。  わたしは案内板を頼りにバス乗り場に向かい、チケット販売機の近くにいた若い女性スタッフにチケットの買い方やバスの乗り方を教えてもらった。女性スタッフはとても親切だったけれど英語はほとんど話せなかった。片言の英語と単語を並べただけのスペイン語でなんとか理解して、わたしはメキシコシティ市内へとバスで進んでいった。     メキシコシティには中米を旅する旅行者の間でほぼ伝説的になっている有名な日本人宿があった。ネットの情報によるとかれこれ30年以上も前から彼の地で宿を経営しているという。オーナーのメキシコ人女性は当初、日本人の旦那さんと共に宿を経営していて、そのころから中米を旅するバックパッカーたちが流れ着くように集まってきた場所だという。  「ペンション・アミーゴ」という名のその宿は地下鉄レボルシオン駅の近く、バス停から徒歩5分程度の場所にあった。バス通りに面した黄色い壁の入り口には大きく日の丸が描かれていた。    「予約していないのですが、ベッドはあいていますか?」 呼び鈴を鳴らしてしばらくして出てきたオーナーらしきおばさんにそうたずねると、おばさんは少し微笑みながら、入りなさいと手招きしてきた。きっと日本語はあまり得意ではないのだろう。  がっつりお盆の時期だったので、大学生や夏休み中の社会人などで宿は超満員なのかと思っていたのだが、意外にも宿は閑散としていて、長期滞在者を除いて通りすがりの旅人はわたしを含め片手で数えられる程度しかいなかった。  「ナンパク、トマル?」 オーナーの女性が片言の日本語で聞いてくる。まだ決めていません、と答えると、わかったといって、宿代は出て行く前日までに払ってくれと言う。グラシアスと答えてわたしは部屋のキーを受け取った。この会話ができただけでもこの宿に来たことは正解だったとわたしは思った。 メキシコシティのあと、いくつか日本人宿と呼ばれる場所に滞在したが、日程をあまり組まない(予定を決められない)長期旅行者たちが多いので、どの宿も「出て行く前日までに払ってね」というシステムだった。 アミーゴがわたしにとって初めての日本人宿だったので、わたしはそのシステムに初めて触れ、それがなんとも旅人くさく、排世的で、言い換えるとしょーもない旅人感がして、少し感動さえしてしまった。    「朝食ハ、7時半カラ、ネ」 わたしを女性用ドミトリーに案内してそう告げたあと、“パスちゃん”と呼ばれるその女主人はバタンと勢い良く部屋を出て行った。部屋は薄暗く、道に面した壁の高い位置に明かり取りの小さな窓が付いていた。  シングルベッドが4つ隙間なく並べられた部屋にはわたし以外に先客が2人いるらしかった。どちらも留守だったが、荷物の感じからして旅の期間は長そうだった。   わたしはあてがわれたベッドに腰を下ろして部屋を見渡した。年季の入った少しくたびれた部屋だった。窓から入ってくるクラクションやラティーノたちの叫んでるのかと思うほどの大声を聞きながら、一人、ニヤけ笑いが止まらなかった。    「さて。これからどうしよう。」 見て回るべきところはたくさんある。どんな人がこの宿に泊まっているのかも気になる。昼飯はなにを食べようか。物価はどれくらいなのだろう。スペイン語がしゃべれないけど、会話はどうしよう。  わからないことが嬉しかった。予測不能なことが楽しかった。多くの面で不自由するだろうことが楽しみでしょうがなかった。 期待感。  胸にはそれしかなかった。    わたしは薄暗い部屋で一人、ニヤけ笑いを止めることができなかった。      つづく。⚫︎⚫︎Instagram⚫︎⚫︎→日々の写真をUP中。 にほんブログ村

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      テーマ:
  • 06 Nov
    • What a Coincidence !!! 2

      Normal 0 10 pt 0 2 false false false EN-US JA X-NONE $([\{£¥‘“〈《「『【〔$([{「£¥ !%),.:;?]}¢°’”‰′″℃、。々〉》」』】〕゛゜ゝゞ・ヽヾ!%),.:;?]}。」、・゙゚¢ /* Style Definitions */ table.MsoNormalTable {mso-style-name:標準の表; mso-tstyle-rowband-size:0; mso-tstyle-colband-size:0; mso-style-noshow:yes; mso-style-priority:99; mso-style-parent:""; mso-padding-alt:0mm 5.4pt 0mm 5.4pt; mso-para-margin:0mm; mso-para-margin-bottom:.0001pt; mso-pagination:widow-orphan; font-size:12.0pt; font-family:Century; mso-ascii-font-family:Century; mso-ascii-theme-font:minor-latin; mso-hansi-font-family:Century; mso-hansi-theme-font:minor-latin; mso-font-kerning:1.0pt;}  今からちょうど4年前の8月わたしは西ヨーロッパを一人、旅をしていた。バルセロナから入って、スペイン南部を周遊し、ポルトガルに少し寄り道をしてからマドリードに入った。   確かマドリードにきて数日たった昼過ぎだったと思う。その日は晴れていてとても暑く、移動の疲れで数日伏せっていたわたしは2日ぶりに町歩きを再開していた。マドリードのマヨール広場の近くに有名なハム屋兼バルがあるというのを友達から聞いていたので、なまった身体にガゾリン、ではないけれど、景気付けに昼から一杯やりに出てみたのだった。   「Museo del Jamon」、“ハムの博物館”と名前がついたそのバルはマヨール広場の東側、地下鉄ソル駅との中間に位置する場所にあった。壁一面には大きなハモンセラーノが吊り下げられていて、ハムに取り囲まれるようにバルカウンターがあり、平日の真昼間だというのに立ち飲み客でごった返していた。  混雑したバーカウンターの中で、やっとこさ一人分のスペースを確保して、わたしはグラス一杯のビールとハム一皿を注文した。店員さんに問われるがままろくに確認もせずに注文した末に出てきたのは、小ぶりなグラスに入ったビールと、ふぐ刺しのように大皿に盛られた大量のハムだった。  驚いたわたしはすぐさまハムを運んできてくれた店員さんに値段を確認したのだけれど、帰ってきた答えは「3ユーロ」。そんなわけあるかぁ、と思って聞き返したのだけれど、やっぱり答えは3ユーロ。いくらヨーロッパの中でも物価が安いスペインであってもあまりにも安すぎだろと思いつつ、店員がそういうのだからそうなのだろう。わたしは目の前一杯にあるハムを、生唾を飲んで食べ出す前に、記念に一枚写真を撮ろうとカメラを構えた。   シャッターを押そうとした瞬間にニュッと隣からピースサインが入ってきた。間に合わずシャッターを切ってしまったわたしがカメラから目を外すと、隣に立っていた大柄のおじさんがふふっと笑いながらこっちを見ていた。  「おねーちゃん、ひとりかい?」  ビールを片手におじさんが聞いてきた。そうだと答えると、仲間だな、といってまたおかしそうに笑った。ビールとハムがよく似合う恰幅の良いおじさんだった。  聞くと、おじさんはブラジル在住のイタリア人で、休暇を使ってスペインを訪れているという。 「スペイン語はからっきしダメだけど、イタリア語とポルトガル語でなんとかやってるわ!」 はははっとわらいながらおじさんはペース早めにビールを飲んで行った。自然とわたしはおじさんと二人で飲む格好になり、ハムをシェアする代わりに、おじさんが何杯かビールをおごってくれた。  一時間ほどそうして飲んであと、すこしほろ酔いになったわたしは「見たい場所があるから」といってバルを出た。店を出る前に最後に二人で写真を撮った。おじさんはその写真をうれしそうに確認してから、またな、といって手を振って送り出してくれた。  スペインの夏の午後は引き続き晴れ渡っていて、若干千鳥足気味になりながら見上げた空はどこまでも青く、わたしは旅の偶然の出会いに心底感謝していた。     ーーーーー  あの夏からちょうど、4年。  旅はやっぱり、偶然とともにドラマチックな演出をわたしに投げかけてくれる。  なんの因果かしらないけれど、4年前の8月マドリードの街で杯を交わしたおじさんと、4年後の8月ニューヨークの片隅の安宿で偶然の再会を果たした。当初、全くわたしのことを覚えていなかったおじさんは、おじさんとマドリードのあのバルで撮った写真を見せると、あぁ!と言って笑顔になった。  「まったく思い出せなかった!ははは」  そういっておじさんは頭を書いた。おかしそうに笑うその笑顔は4年前のそれとまったく変わっていなかった。  「再会を祝して乾杯!」 豪快な飲みっぷりも、4年前とまったく同じだった。    これだから旅はやめられない、と心底思う。  どんな小説よりも、どんな映画よりも、現実に起こることは時たま奇妙でドラマチックで不可解だ。「偶然」という言葉でしか形容できないのだけれど、字足らず感が半端ない。旅をしていると、定住しているときよりもそんなドラマチックな偶然が間隔を開けずに押し寄せてくる。そして一人旅が故に、わたしはそれをすべて自分ひとりで受け止める。その感覚もまたわたしを魅了して止まない。   とんだ偶然だなこりゃ!と言ってガハハと笑うおじさんは、4年分だけ歳をとっていた。もちろんわたしもぴったり4年分だけ歳をとっていて、その間、わたしたちは地球のまったく別の場所でまったく別の仕事をして、まったく別のものを食べ、まったく別の人と酒を飲んできた。わたしたちはまったく別の道を歩いていた。  でも、そのまったく異なるふたつの道が、4年前の夏にマドリードで一瞬交差し、そして地球がちょうど4回まわったあと、またニューヨークという場所で交差したわけだ。「事実は小説よりも奇なり」。地球上に70億人いる人の中でまったくの他人とまったくの偶然で再会できる確率を考えて気が遠くなる。    ビールを2本空けたところで再開の記念に写真を撮ることにした。わたしたちはビールを片手に並んで笑顔を決める。写真を確認すると、4年前とまったく同じ構図、まったく同じ笑顔だった。なんだかおかしくて、二人ですこし笑った。     「明日の朝、宿を出るんだ。」  オリンピック中継も終わり、そろそろお開きにしようかという段でおじさんが言った。今日がおじさんのニューヨーク滞在の最終日だったらしい。なんて偶然なのだろうとまたしてもしびれた。1日でもずれていたらこの再会はなかったのだ。  いやもっといったら、マンハッタンの宿がローシーズンでもう少し安かったら、バスが遅れなくてこの時間に到着しなかったら、昼ごはんを大量に食べていてお腹がまったく空いていなかったら、ロサンゼルスの飛行機が遅延していなかったら・・・この再会が果たされなかった可能性はきっといくつもあっただろう。そしてこの再会が果たされたのは同じように偶然が幾重にも重なった末の結果なのだろう。   偶然の再会という一つの事象の裏にある、何万という偶然の積み重ね。ひとつでもかけ違っていればわたしはこの場にはいなかっただろうし、おじさんもそうだ。わたしたちは4年前からまったくの知らないもの同士だった可能性だってある。   でもわたしたちは4年前おなじ時におなじ場所にいて、4年後の今日、おなじ場所でおなじように酒を飲んだ。  偶然が何万個も重なった末に起きたこの一種の奇跡に、わたしはしびれた。このしびれるほどの興奮を味わうがために、わたしは旅をしているのかもしれない。     「楽しい旅を!またどこかで会おう!」  そう言っておじさんは寝床に戻っていった。また会えるかどうかは誰にもわからない。おじさんにはおじさんの物語があり、わたしにはわたしの物語がある。それでもわたしの物語にとって、おじさんという登場人物はなにかしらの意味があり、きっとおじさんの物語にもそうなのだろう。偶然と旅のおもしろさを再確認させてくれたこの出会いに、わたしは心の中で大げさに感謝した。   「またどこかで。」 おじさんの笑顔に、笑顔で返す。またきっとどこかで会える、そんな気がしてならなかった。      ⚫︎⚫︎Instagram⚫︎⚫︎→日々の写真をUP中。 にほんブログ村

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  • 04 Nov
    • What a Coincidence !!!

      Normal010 pt02falsefalsefalseEN-USJAX-NONE$([\{£¥‘“〈《「『【〔$([{「£¥!%),.:;?]}¢°’”‰′″℃、。々〉》」』】〕゛゜ゝゞ・ヽヾ!%),.:;?]}。」、・゙゚¢/* Style Definitions */table.MsoNormalTable{mso-style-name:標準の表;mso-tstyle-rowband-size:0;mso-tstyle-colband-size:0;mso-style-noshow:yes;mso-style-priority:99;mso-style-parent:"";mso-padding-alt:0mm 5.4pt 0mm 5.4pt;mso-para-margin:0mm;mso-para-margin-bottom:.0001pt;mso-pagination:widow-orphan;font-size:12.0pt;font-family:Century;mso-ascii-font-family:Century;mso-ascii-theme-font:minor-latin;mso-hansi-font-family:Century;mso-hansi-theme-font:minor-latin;mso-font-kerning:1.0pt;}  マンハッタンのバスターミナルで、わたしはもう1時間近くもバスを待っていた。 薄暗い待合スペースにはわたし以外に黒人の女性が二人いて、たまに目を見交わしては「困ったわね」という表情を交換しあっていた。時刻は8時を過ぎている。針の進みが異様に早い。  「遅いわねぇ。」若い方の女性が誰ともなしに話しかける。そうだね、とわたしも応えて、ふたり同時にため息をついた。      その日の夕方にわたしはワシントンからニューヨークに帰ってきた。 ロサンゼルスから移動して、ニューヨークに3日ほど滞在してミュージカルをみたりベタにニューヨークを楽しんでから、学生時代からの知り合いがいるワシントンへと小旅行をしていた。これからもう数日ニューヨークを観光してから、バンクーバー経由でメキシコに入る予定になっていた。  ワシントンへ出かける前はマンハッタン島に宿をとっていたのだけれどやはり宿泊費が高く、残りの滞在はマンハッタンの宿を諦め、ハドソン川の向かい側、ユニオンシティ地区にある安宿に決めていた。  ユニオンシティ地区へはマンハッタンから直通バスが24時間運行で走っている。地下鉄42st駅近くにある Port Authority Bus Terminal には、中距離バスや市バスなど何十本というバスが発着していて、マンハッタン近郊に向かう拠点になっていた。いくつも並んだ待合所は一つ一つが独立していて縦に細長く、さながらSF映画に出てくる宇宙施設のようだった。  時計の針が8時15分を越えようというところで、バスがぶおっという音とともに現れた。仏頂面の運転手が降りてきて、無言でバスチケットを確認していく。バスが遅れた理由など誰も尋ねないし、運転手も特に説明するとこともなかった。     バスはネオン輝くマンハッタンの夜を通りすぐに地下道路に入っていった。ハドソン川の下を通るその道路は意外と長く、満杯のバスに揺られながらどこかへトリップしていくような不思議な感覚を楽しんでいた。   バスは20分ほどでユニオンシティ地区の停留所に到着した。バス停から歩いて10分ほどの宿は新しく綺麗で、いかにも欧米人バックパッカーが好きそうなカラフルな内装をしていた。目の前にはバーがあり、歩いて数分のところに24時間営業のセブンイレブンもあって、マンハッタンからバスを使うという点に目をつむればとても快適な立地だった。  ワシントンからの移動の疲れもあって、少しぐったりしながらチェックインを済ませた。ヒスパニック系の男性が陽気に対応してくれて、わたしがバスをだいぶ待ったと愚痴ると、それは災難だったね、といってバスの路線図と時刻表をくれた。これを見ればもう大丈夫といって、ガハハと笑った。こちらまでつられて笑顔になるような爽快な笑い方だった。   宿に荷物を置いてから、近くのセブンイレブンに夕飯を買いに出た。朝からなにも食べていなかったので、とてもお腹が空いていた。2ドルのハンバーガーとチップスを買って店を出ると、道の向かい側にリキュールショップがあるのを見える。中を覗くと、地元民と思しき人で随分と賑わっていた。  地元民が集まるということは安いに違いない。わたしはなるべく堂々としているように見せながらビール会社のポスターが貼られた引き戸を開けて入っていった。    店は狭く人がすれ違うのにやっとな狭さだった。入って右側にビール用の冷蔵庫が3つあり、右手はレジとタバコ売り場になっていた。奥の飲酒スペースでは地元のおじさんたちが缶ビール片手にちびちびナッツをつまんでいた。  冷蔵庫にはアメリカンビールはもちろん、ヨーロッパビールや中南米のビールまで、実に様々なビールが取り揃えられていた。値段がわからなかったので、わたしはハイネケンの缶ビールとアルゼンチンのビール、キルメスのビンをとってレジへ持って行った。   余談だけれど、わたしはキルメスが大好きだ。その味が好きというよりも、キルメスを飲むことによって思い出されるアルゼンチンという国とそこに住む人々が大好きなのだ。日本では最近めっきりその姿を拝む機会は減ってしまっていて、久しぶりにその青いラベルを見つけたときのテンションの高ぶりといったら、自分でもびっくりするほどだった。    ビールは二つで5ドルもしなかった。意外な安さに少し面食らいながら「thank you 」とにこやかに言って店を出た。レジを離れるときに右隣にいたおじさんが飴をくれながらウィンクしてきた。お前も好きだねぇ。そう言われている気がした。ニューヨークの夜はそう悪いもんでもないらしい。          宿の共有スペースは離れのような造りになっていて、宿泊スペースがある建物を出て左にある駐車場を抜けると共有スペースの入り口があった。広々としたリビングスペースにはソファーが三つあり、背の低いテーブルを囲むようにコの字型に並べられていた。隅には申し訳程度に小さなキッチンと冷蔵庫があってそこにも一つダイニングテーブルが置かれていた。   ソファーにもダイニングテーブルにも先客が何人かいて、壁にかけられたテレビでオリンピックの競泳競技を鑑賞していた。   いまはもう昔ほどの泳力はないけれど、わたしは学生時代、水泳一筋20年の競技歴を持つスイマーだった。競技を離れて久しいが競泳に対する気持ちは今も変わらない。 こんな旅の途中だからと諦めていたオリンピック観戦を、まさかニューヨークの片隅の安宿でできるとは思っていなかったので踊り出したいほど興奮した。周りは欧米人ばかりだ。完全なるアウェーであることはまったく気にせず、わたしは空いているソファーに腰掛けた。   オリンピック・競泳・ビール。 役者は揃った。 ニューヨークの夜のはじまりだと、意気揚々としごく個人的な宴をはじめようとしたのだけれど、その段になって栓抜きを持っていない事に気がついた。自分の部屋に戻ればバックの中にある万能ナイフに栓抜きがついているのだけど、これだけ準備が整っている中で部屋に取りに戻るのは正直億劫だった。    あたりを見渡せば、大多数の人がビールを片手にしている。一人くらい栓抜きを持っていてもおかしくはない。わたしは近くに座っていた50歳くらいのおじさんに栓抜きはないかと尋ねた。   ごめん、持ってないんだと、おじさんはすまなそうに応えた。それならと、その隣にいたおじさんにも聞いてみたのだけれど、彼も持っていなかった。困ったなと思って部屋に戻るか否か思案していると、最初に尋ねたおじさんがスプーンを持ってきてわたしのビール瓶の蓋をあけようとしてくれた。   優しいなーと思いながら、おじさんの奮闘を眺めていると、なんだかおじさんの顔に見覚えがあるような気になってきた。どこかで見た顔だ。どこだっけか・・・。   ほら空いたよっと、おじさんがビールを手渡してくれる。お礼を言って受け取りながら、おじさんの顔をもう一度しっかりと見た。記憶の筋がぴっとつながりかけていた。   どこかで見たことある。どこだろう、どこだろう・・・・。  頭の中でぐるぐるしながら、記憶を辿っていたとき、おじさんがぐいっとビールを一飲みした。  ビール・・・ビール・・・・おじさんと、ビール・・・。  ・・・あ!      「おじさん、4年前の8月にスペインのマドリードにいませんでしたか?」  わたしはとっさにそう尋ねた。それは質問というか確認作業で、わたしの中ではその疑問はすでに確信に変わっていた。   「4年前の夏、8月終わりか9月の頭に、スペインのマドリードにいましたよね?」  訝しげに首をかしげるおじさんに、さらに畳み掛けるように質問を投げかける。おじさんは、「確かにいたと思うけど・・・」と不審げで、わたしのことは一切覚えていないようだった。  わたしはフェイスブックかなにかにアップしたはずの写真を探して、スマートフォンをあさった。この偶然に少し指が震えていた。「こんなことってあるんだな・・・」興奮に満ちた驚きで胸がいっぱいだった。     つづく。    ⚫︎⚫︎Instagram⚫︎⚫︎→日々の写真をUP中。  にほんブログ村

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      テーマ:
  • 13 Oct
    • これが、きっと、ニューヨーク。3

      翌朝は、例の韓国人の女の子が起きるよりも早く起床して、午後も早い時間に宿を出た。今日は大事な会議があるんだと、うきうきした調子で話す彼女に、good luckと声をかけてから、わたしも足取り軽くニューヨークの朝へと繰り出した。朝のセントラルパークは昼間とはまた違った活気に満ちていた。今日も天気がいい。わたしはコーヒー片手に出勤していくビジネスマンたちと並んで歩きながら、小さく鼻歌をうたった。セントラルパークを30分歩いたところで地下鉄に乗った。朝の地下鉄は混んでいて、さすが世界一のビジネス街ニューヨークだなと思った地下鉄の42 street 駅で降りる。地上に出るとそこはまさにマンハッタン!といった趣になっていて、道いっぱいをうめた車のクラクションが激しく、建物と車の間を埋めるように人がびっしり歩いていた。「おー。都会だ。」わたしは田舎から出てきたお上りさんよろしく、キョロキョロしながらタイムズスクエア方向へ歩いていった。9th Ave を北に向かってセントラルパーク方面に歩き、適当なところで右に曲がった。8th Aveを渡ってさらに進み、ブロードウェイにぶつかる。そこで右に折れてブロードウェイをダウンタウン方面へと進んでいった。タイムズスクウェアが近づいてくると、周囲のビル広告がどことなく忙しくなってくる。巨大な看板やデジタルサイネージが目立ちはじめた。気がつくと、それまでいろんな方向に流れていた人が、いまは皆一様に同じ方向、つまりタイムズスクエアに向けて、大きな流れとなって歩いていた。わたしはその波に半ば流されるように歩きながら、ジェットコースターのクライマックスに近づいているような興奮を感じていた。ブロードウェイを5分ほど進むと、タイムズスクウェアの広場に出た。中心に階段上のベンチがあって、そこには多くの人が座り、広場の横にあるマクドナルドで買ってきたのだろうか、ハンバーガーやらサンドイッチやらを頬張っていた。階段の前の広場は多くの人でごったがえしていて、パシャパシャと写真を撮っていた。わたしは少しの間、遠巻きにその様子を眺めていた。喧騒を遠巻きで眺めるというのは昔からのわたしの趣味の一つだ。日本企業の広告が意外と多いことに驚きながら、写真で見たままの光景を素直に楽しんだ。交通量も、人々の熱量も、360度囲まれた広告の情報量も、なにもかもが膨大でtoo much。世界有数の観光地マンハッタンの求心力をこれでもかというほど、わたしは感じていた。その後、自分も広場に出て、近くにいたアジア人のご夫婦に写真を撮ってもらってからタイムズスクエアをあとにした。チカチカした広告の残像がしばらくわたしの脳裏に漂い続けていて、それを振り払うかのようにダウンタウンの方へあてもなくとぼとぼ歩いて行った。ミュージカルシアターの横を通り過ぎ、エンパイアステートビルを横目に歩き続け、貿易センタービル跡地まで歩いた。--2001年、当時わたしは12歳だった。あのときのことはいまでも鮮明に覚えている。夜10時頃、お風呂から出てきたわたしは濡れた髪を乾かしながら、居間にいた。父と兄が興奮してテレビにかじりついている。テレビでは二棟のビルが燃えていて、その原因になった飛行機がビルに突っ込む瞬間の映像が繰り返し流されていた。「これはきっと歴史になる。」翌日、学校で先生が言った。その言葉と先生の表情をいまでも鮮明に思い出すことができる。教室の壁にかかっている歴史年表の一番後の欄を指差して、昨日の出来事は近いうちにあそこに追加されるだろうと。自分がはじめて「歴史」というものをリアルに感じた瞬間だった。と同時に、歴史のなかの一人の人間として自分も生きているんだと強く思った。そして、豊臣秀吉も織田信長も北京原人もみんな生きていたんだなと思った。歴史って「在る」んだなと思った。--わたしは貿易センタービル跡地のモニュメントの前に立ちながら、15年前の記憶を思い出していた。貿易センタービルがあった場所には下に深い四角い大きな噴水のようなものがあって、黒い大理石かなにかで作られたそのモニュメントの側面にはびっしりと犠牲になった方の名前が彫られていた。モニュメントの周りにはそれはもう多くの人が二重に輪を作るように群がっていて、写真を撮る人、目を閉じて祈りを捧げる人、知人なのか同じ名前のところを何度も手でさする人など、様々だった。わたしはモニュメントを眺め、そこに集った人々を眺めながら、しばらくそこにじっとしていた。人々のひそひそとしたささやき声と、遠くに聞こえる喧騒、水がモニュメントを流れ落ちる音などが混じり合って、とても不思議な空間だった。その場所はそれと知らなければ、ただの都会的で綺麗なオフィスビル街の一等地だった。すぐ隣には新ワールドトーレードセンタービルが点を突くように建っている。正直、そこにあの事件の面影をなにか感じることができるものはなかった。きっとこれが歴史になるということの一つの意味でもあるのかなと、ぼんやり思った。貿易センタービル跡地を出てからは、適当に歩いて見つけたスターバックスで休憩をとった。グランデサイズのカフェラテを注文して席につくと、周りはMacのパソコンをカタカタしているビジネスマンやおしゃれな学生?ばかりだった。東京の中心地と対して変わらない光景のなかで唯一違っていたのが、隣に座った人が気軽に話しかけてくることだった。「ちょっとパソコンの使い方教えてくれない?」となりに座っている老紳士が話しかけてきたのはわたしが席について間もなくのことだった。「画像の取り込み方を知りたいんだけど。。。」そう言って、困り顔でわたしのパソコンの画面を覗き込んできた白髪の紳士は近くで画廊も経営している画家で、カメラで撮った自分の絵の写真をパソコンに取り込んでHPにアップをしたいとのこと。わたしは拙い英語ながら身振り手振りを交えて、紳士にSDカードの読み込み方と画像の保存の仕方などを教えてあげた。というか、ほとんどやってあげた。操作が一通り終わると、老人は感激してthank you と深々とお辞儀をした。それも何度も。その低姿勢になんだかこちらも恐縮してしまって、わたしもお辞儀を返した。マンハッタンのスタバの片隅で、汚いGパン姿のアジア人女と、ブランドもののスーツで決めた白人老紳士が、二人でお辞儀合戦を繰り広げる形となってしまった。「よかったら遊びにきてください」そういって、カラフルなポストカードをわたしに手渡してから、彼はすっと席をたってスタバを出て行った。彼の作品が表に、裏には連絡先が書かれたポストカードだった。窓の外を、ギターを抱えたドレッドヘアの男が通り過ぎる。斜め向かいの学生風の若者はパソコンでなにかグラフィックアートのようなものを作っていた。「アートだ、ねぇ。」ここから少しいったところに有名なギャラリー街があるというのを、昨日の雑貨屋のおばさんが言っていたのを思い出す。芸術という言葉がこんなにもなじむ街もあるもんかと、わたしは目の前を通り過ぎていくアーティストたちを眺めながら思った。夕方4時頃になってわたしはタイムズスクエアに戻った。先ほどのアーティストたちに触発されたわけではないけれど、せっかくニューヨークに来たのだから、今夜は本場のブロードウェイミュージカルを見ようと思っていた。タイムズスクエアの広場にある階段の下は、ブロードウェイで公演されているミュージカルの格安販売所となっている。毎日15時からオープンするそのチケット販売所は、当日分の売れ残っているミュージカルのチケットを低下の半分程度の値段で買うことができた。当日カウンターが開くまで、どのミュージカルが販売されているかわからないのだけれど、前日確認したときにはけっこー有名どころも売りに出されていたので、せっかく来たんだから思い出にと、挑戦してみることにした。販売所に行くと、長蛇の列ができていた。販売所の横にある電光掲示板にはその日に売り出されているチケットが一覧になっていてLes Misérablesやオペラ座の怪人、スクールオブロックなど、有名な公演も50%引きで販売されていた。見た目にはかなりの長蛇の列だったけれど、ならんで見ると以外とスムーズに列は進んだ。30分も待たずにわたしはカウンターのおじさんと話すことができた。「Les Misérablesを一枚。」わたしがマイク越しにそういうと、ちょっと小太りの優しそうなおじさんは、よしきた!、といってパソコンをカタカタしだした。そしてすぐに、「ほら、いい席が用意できたよ!右のブロックの前から10列目だ。この値段でこれはお買い得よ!これでいいかい?!」とかなりテンション高めで返してきてくれた。多少、予算オーバーではあったのだけれど、おじさんのテンションとニューヨークにいるという高揚感がわたしを「yes」と即答させた。80ドル。貧乏バックパッカーのわたしにとっては結構な出費だ。カウンターを出たあと、チケットを握りしめながら多少、自分の即断に後悔したのだけれど、午後7時半に劇場の席についたときには、おじさんに心の中で感謝した。それはもう盛大に。ブロードウェイの中心地に位置するシアターはとても格式ある趣で、正装したご婦人も多く見受けられた。きれいなドレスやスーツ、お洒落した白人たちの中を、きっったないGパンとTシャツ、スニーカー姿で乗り込むのは勇気がいったし、正直恥ずかしかったのも事実なのだけれど、「芸術たるもの、垣根なく開かれたものであるべし」と心の中で大口叩いて抵抗しながら、そして堂々としているように見えるよう祈りながら、シアターの中へと入っていった。チケット売りのおじさんがいうように、それは本当にいい席だった。そんなに大きくないシアターの中で、さらに舞台から近い一階席。ミュージカルやミュージカル映画は大好きだけれど、劇場に足を運んだことは数えるくらいしかなかったわたしは、ひそひそと興奮したささやき声の中、一人、やっとのことで興奮が爆発するのを押さえ込んでいた。つづく。カイワレ⚫︎⚫︎Instagram⚫︎⚫︎→日々の写真をUP中。にほんブログ村→ランキング参加してみました。

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  • 05 Oct
    • これが、きっと、ニューヨーク。2

      スーツをビシッと決めたサラリーマンに、作業着姿のおじさん、青い目をした女の子とアジア人のカップル。マンハッタンの昼下がり、中心街から少しはずれたアッパーウェストサイドの通りには多くの人が出ていて、都会的な活気に満ち満ちていた。わたしは行き交う人や通りを埋める車、店先に並んだ果物などを眺めながら、ダウンタウンに向かってひとり歩いていた。時刻は12時近い。太陽が心地よく照っていた。とくに目的を決めずに気ままに歩いていたわけだけれど、通りを進むごとに、少しずつ街の色に変化が感じられるのも歩いていてとても楽しかった。スペイン語を話す下町風な雑貨店の角を曲がって少し行くと、いかにも高級そうなイタリアンレストランに行き着いた。窓から中を覗くと綺麗に洗濯された白いテーブルクロスが光っている。その窓越しのテーブルクロスに映るのは、道の反対側でスケボーの練習をしている若者たちだった。気色はコロコロ変わり、その色は各々独立している。その反面、それらはぐちゃっと混じり合っているわけだけども、決して不快ではない。わたしはなんだか物語の中に迷い込んだかのような不思議な気分になりながら、ふわふわと漂うように歩を進めていった。30分ほど歩いたところでひときわ大きな通りに出た。標識を確認すると「ブロードウェイ」となっている。そうか、ここもブロードウェイなのかと、なんだか少し嬉しくなった。わたしは天下のブロードウェイに沿って南へとあるいていった。先ほどまでとは少し行き交う人も洗練され、おしゃれな人が目立つなと感じた。それはきっと自分が『ブロードウェイを歩いている』ということから働く、変な先入観からきているのだと思うけれど、わたしはその浮き足立っている自分をそのままにしておいた。ニューヨークにきて、ブロードウェイを歩いて、うきうきしている自分。大いに結構じゃないか。どれくらい歩いたのかはわからないけれど、ブロードウェイを歩き始めて少しして、通りに面した場所にエスニックの雑貨屋さんがあるのが目に入った。ニューヨークにきてまでわざわざアジアの小物を買う気はなかったのだけれど、表にかかっていたタイパンツがとてもかわいく、久しぶりに嗅ぐお香の匂いも魅力的だったので、わたしは吸い寄せられるように店の中へと入っていった。外観からはわからなかったけれど、そこはかなり奥行きのあるお店で、店内は予想以上に広かった。狭い通路の両側にはところ狭しと棚が並びをその棚を埋めるようにアジアから中にはアフリカのどこかかと思われるような国のものまで、なかなりバリエーションにとんだお土産が雑然と置かれていた。店内に入るとお香の匂いがさらに強くなる。わたしは壁にかかった絵をしげしげと眺めながら自分がどこにいるのかわからなくなるような感覚に酔っていた。「いらっしゃい。」店内をしばらく眺めているとふと声が聞こえた。最初、空耳かと思ったのだけれど、レジカウンターの奥で半分隠れるようにして、年配の女性がこちらを見ていた。こんにちは、と軽く挨拶してお店を出ようと思ったのだけれど、おばさんが続けて、どこから来たの?と質問を投げてくれたので、自然とカウンターの前で店主のおばさんとの会話がはじまった。「ほー、世界旅をね。あんたもようやるね。」ケラケラとおばさんが笑う。最初の印象に反しておばさんはとても明るくくったくがない。「ニューヨークははじめてなの?そうなの。ここは必ず行っておけってとこと、ここは危険だから行くなってとこがあるから、ちょっと教えてあげるわよ。」わたしが旅の計画を一通り話したあと、おばさんはそう言ってカウンターに置いてあったノートの一枚をべりっとやぶりとり、手書きで大雑把な地図を書き始めた。合間、合間に、ここは行くべきところ、この地区は夜近づいちゃだめね、とほぼ独り言のようなトーンで言いながら、その手書きの地図に丸やらバツやらを書き加えていった。「できた!はい、これであなたもニューヨーク通よ!」10分かそこらして、出来上がった地図を満足げな表情を浮かべておばさんが渡してくる。それはお世辞にも上手とは言えなかったけれど、おばさんの気持ちがとてもうれしかった。丁寧にお礼を言ってその場を去ろうとしたわたしに、最近インスタグラムもはじめたから、よかったらフォローしてねと、おばさんは言ってきた。齢60を過ぎているであろうおばさんがインスタをやっていることがわたしの興味をそそったので、わたしは一度店を出るのを止めて、その場でおばさんのインスタのアカウントを見せてもらうことにした。アップされた写真を見て驚いた。てっきりお店やアジアン雑貨についての写真をアップしているのかと思ったけれど、意外にも彼女のインスタグラムのテーマは「壁」だった。「カラフルだったり、なにかおもしろい壁を見つけると写真を撮らずにはいられないのよ。」おばさんがハニかんだように笑う。素敵だなと思った。「わかります。わたしも壁、大好きなんです。」そう、わたしがそう答えると、おばさんは驚いたような、また恥ずかしいような笑みを浮かべて、偶然てすごいわね、と言った。あまり友達には理解されてこなかったけれど、わたしも大の「壁好き」だ。町歩きをするときには、多くの壁の写真を無意識のうちに撮ってしまう。彼女のインスタには、カラフルな壁やおもしろい形にひび割れた壁など、実に様々な壁の写真があって、別に上から目線でものを言いたいわけではないけれど、なかなか素敵な壁センスの持ち主だった。ちょっと恥ずかしいんだけど、と言いながらおばさんはインスタグラムに上がった写真について一枚一枚、解説をしてくれた。これは5番街で撮ったやつ、これはセントラルパーク、これはちょっと加工してみたの。ほらこうやってね…。おばさんの壁への情熱はけっこうなもので、わたしは時間が経つのを忘れておばさんと壁談義に花を咲かせた。「いやー、まさか壁について語れる人がくるとは思わなかったよ。楽しかったわありがとう」30分、いやもっと時間がたっていたかもしれない。一通りアップされた写真の説明が終わると、おばさんは満面の笑みでサンキューといってきた。それはこちらのセリフです、とわたしも返して、どちらからともなくぎゅっと握手を交わした。シワが目立つおばさんの手は、見た目と違って少しゴツゴツとしていて逞しかった。「それではこんどこそ、さようなら」そう言ってわたしは店を出た。いつでもまた寄ってらっしゃいと、おばさんの声が肩越しに聞こえた。わたしは振り返って会釈をしてから、8月の日差しの中へと戻っていった。少し薄暗い店内から一歩外へ出ると、太陽がてっぺんからぎらっとした光をこちらに投げていて、わたしはその光りを手で遮りながら空を仰いだ。「素敵だな、ニューヨーク」もう何度目になるかわからないけれど、そう思った。ニューヨークは思っていた以上に、素敵なところだ。これはもう揺るぎようがない。歩き始める前に振り返ってもう一度店を外から眺めてみた。空いた入り口のドアの、いまは裏側になっている表側に『close』と書かれた看板が下がっている。「おい、おい、おばちゃん」と思わず笑ってしまった。ニューヨークの片隅で、全く予期せずに、お腹がいっぱいになってしまったわたしは、その日ダウンタウンにいくのをやめた。ダウンタウンに行かずともとても満ち足りた気分になってしまたのだ。わたしはマクドナルドでダブルチーズバーガーセットをテイクアウトして、セントラルパークへ向かった。平日の昼間だというのに、セントラルパークは人で溢れていて、老若男女、多くの人がランニングをしたり、広場で野球や日向ぼっこをしていた。わたしはそんな人たちを遠くに眺めながら、Lサイズのコカコーラを片手にダブルのチーズバーガーを頬張った。お腹がひどくすいていたわけではないのだけれど、なんとなくアメリカンサイズのジャンクフードが食べたい気分だった。そうして、ポケットからおばさんが書いてくれた地図を取り出す。ボールペンでためらいなく引かれた線は、おばさんの力強い握手を思い出させた。また、会いたいな。もらった地図をもとに観光計画たてながら思った。また会いたい人、また会いたい場所が増えていくこと、それがきっと旅の醍醐味の一つだと、これもまた何度目かわからないけれど、思わずにはいられなかった。つづく。カイワレ⚫︎⚫︎Instagram⚫︎⚫︎→日々の写真をUP中。にほんブログ村→ランキング参加してみました。

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  • 03 Oct
    • これが、きっと、ニューヨーク。

      窓から見えるその景色にわたしは一人、高揚していた。「海外」という場所が自分の中で日常になりつつあるわたしであっても、やはり遠くに眺めるマンハッタンのビル群はその「慣れ」を一瞬で吹き飛ばすほどの迫力があった。LAの空港を飛び立ってから、2回も飛行機を乗り継いでやっとこさ着いたニューヨークは、心沸き立つ魅力に溢れていた。街並みは雑誌やテレビで見ていた通り刺激的で、行き交う人は白人や黒人、ヒスパニック系やアジア系など多岐に渡り、わたしは街を歩き回るだけでわくわくし、手当たり次第、写真をとって回った。「アジア人ってほんとよく写真を撮るよね」なんて欧米人によくバカにされるし、自分も実際、無駄な写真というか「とりあえず撮っておこう」と思って押すシャッターを多少嫌悪してきたところもあったのだけれど、この時ばかりはそんなかっこつけた自分はどっかへ打っちゃって、心ゆくまま写真をとった。わたしが泊まっていた宿はマンハッタン島の北部、アッパーイーストサイドのさらにアッパー、ハーレム地区のすぐ手前に位置していた。セントラルパークの北端が目の前にあるのだが、部屋の窓からはうす寂れた隣のビルの壁しか見えなかった。古いアパートを改装したようなその宿は、ドミトリー形式ではあったのだけれど、アパートの狭いワンルームに無理やり二段ベッドを詰め込んだ二人部屋で、清潔ではあったけれど、かなりシンプルなものだった。部屋には先客がいて、これからニューヨークで新しい生活を始めようというところの、才色兼備な韓国人女性だった。「この街は、素敵よね。なんでもあるし、なんでも手に入る。もちろん、自分の努力次第でね。」こんなエキサイティングなことってないでしょと、彼女は綺麗なブルーのワンピース姿で目をキラキラさせながら言った。一週間ほどこの宿に滞在してアパートなどを探しながらマンハッタンでの生活基盤を整えていくという。くたびれたGパンとTシャツ姿のわたしは、「そうだね」と曖昧に返事をして、なんだかいたたまれなくなってしまった。韓国で英語と翻訳の博士号まで取った彼女は、8月からニューヨーク国連本部の通訳士として働きはじめたそうだ。わたしと出会ったのはまさにその初出勤日だったらしく、夜10時頃に帰ってきた彼女は少し興奮したように彼女の夢が叶った記念すべき1日について話してくれた。「本当にすばらしい日だったわ」そう言って、それがどこまで許されているのかわからないのだけれど、彼女が新しい職場で撮ってきた写真を見せてくれた。国連本部はニューヨークにきたらその外観だけでも見に行きたいと思っていたので、彼女の写真と話をとても興味深く聞いた。なによりも、彼女がそれはそれは楽しそうに仕事のことを話すのでこっちまでわくわくしてきてしまったのも事実だった。「リカはどうして旅をしているの?やりたい仕事とかはないの?」一通り彼女の話が終わったあと、化粧を落としながら彼女がなんとなしに聞いてきた。とくに深い興味があるとうのではなく、こちらがしゃべったのだから次はあなたがしゃべる番ね、というふうに自然にその質問はなされた。「仕事というほどでもないけれど、文章を書くことが好きだから、これを続けてはいきたいとは思っているよ。」とわたしは簡単に応えた。ただ自分の楽しみのために旅をしているわけだし、肩書きは住所不定無職のわたしにとって、バリキャリの彼女との差は少し恥ずかしいものがあって、ただ趣味で文章を書いていることを、なんだが「生涯をかけてやっていきたい仕事」のように控えめを装って伝えてしまっている自分がなんとも情けなく思えた。「あら、いいじゃない!素敵ね!!」彼女はくったくなく笑う。いつか、英語でも書いてね、と笑う彼女はどこまでも快活で、わたしはなぜか彼女が羨ましかった。それは、アメリカにきてから、とくに観光をするでもなく、ただダラダラと時間とお金を浪費しているだけの自分が、彼女と比べてひどくしょうもない人間に思えたからで、わたしは「いつかね」とこれまた曖昧に応えながら、いそいそと自分ベッドに逃げるように潜り込んだ。翌朝目が覚めたとき、彼女はもうすでに出勤の準備を整えていて、「よい一日を」と言って颯爽と部屋を出て行った。残されたわたしは部屋の窓から入ってくるニューヨークの真夏の日差しを眺めながら、今日はなにをしようかと考えていた。ハリウッドで感じていためんどくささはそのときは全く皆無だった。きっと彼女のおかげだなと思って、わたしは久しぶりに一眼レフのカメラを肩にかけて意気揚々とマンハッタンの街に繰り出した。マンハッタンの街は魅力的だった。ミュージカルシアターが立ち並ぶマンハッタンの中心街から地下鉄で5分程度離れたこの地区は、ダウンタウンの喧騒とはまた違った下町の活気で溢れていた。ダウンタウンとは反対のアッパータウン。ヒスパニック系の人が行き交い、どでかいスピーカーを肩に担いだドレッドヘアーの黒人がヒップホップを爆音で聴いていた。わたしはスペイン語が飛び交うその街を、カメラを首にぶら下げながらもの珍しげにキョロキョロしながら歩いていた。眼に映るすべてがおもしろく新鮮で、わたしは久しぶりに旅本来の高揚感を心底楽しんでいた。カメラを携えたアジア人がキョロキョロしながらあっちに行ったりこっちに行ったりしていても、この街に住む人たちにとってそれは大して興味を惹かれる存在ではない。肌の色も、言葉も、生い立ちも、住人も観光客も、ごちゃまぜになってはっきりとした輪郭をもたない。この街ではだれも皆、等しく、誰もが同じで、特別ではなかった。その見事なまでの混沌具合に、わたしはひどく心揺さぶられたし、なによりも居心地がよかった。とくに特別視されるわけでもなく、特別フレンドリーというわけでもない。すべてが同じ人間であり、そしてそれがすべて独立していた。「この街は、すてきだよ、本当に」今夜宿に帰ったら、韓国人のあの子にそう言おうと思った。彼女の気概に満ちた素敵さとはきっとまた違ったものであると思うのだけれど、わたしにとってもまた、この街は素敵に映った。わたしはアッパータウンからダウンタウンまで歩いていくことにした。一通り街を見て回り、マンハッタンという場所をしっかりと感じたいと思った。思っていたよりもマンハッタン島は広く、わたしはスターバックスで途中休憩をとりながら、ゆっくりと中心街の方へと進んでいった。8月のニューヨークは不快な暑さを感じることもなく。わたしは意気揚々とブロードウェイのはずれを歩いていた。写真で見たまんまのイエローキャブが何台も通り過ぎていく。「この街、すてきだな。」わたしは誰にともなくつぶやいて、なんだか駆け出したい衝動にかられながら反面ゆっくりゆっくり歩いていった。つづく。カイワレ⚫︎⚫︎Instagram⚫︎⚫︎→日々の写真をUP中。にほんブログ村→ランキング参加してみました。

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  • 17 Sep
    • とくになんてことないステーキ肉

      ハイウッドの目抜き通り、ハリウッド大通りは人でごった返していた。道の両サイドにはギラギラした装飾が眩しいミュージカルの劇場が並び、その間を埋めるように土産物屋やピザ屋が軒を連ねていた。サングラスをかけて薄手のワンピースでお洒落した白人旅行者たちを横目に、わたしは大量の汗をダラダラ流し、薄汚れてきた大きなバックパックをひーひー言いながら背負って、宿へ向かって歩いていた。8月も最後の太陽はやっぱり容赦なく照りつけていて、わたしは少しでも節約しようとし地下鉄に乗らなかったことをけっこう後悔していた。空港からの直通バスは、わたしが予約した宿の最寄り駅から一つ手前の地下鉄駅の前で止まった。地下鉄の一駅だけを乗るのは、貧乏旅行者のわたしにとってなんとももったいない行為に思えたので、わたしはなんの迷いもなく雑多な人が行き交うハリウッド大通りを歩き出した。が、意外にもその“一駅”は思っていたよりも遠く、わたしは前述の通り、浮かれた観光客の間を必死の形相で歩いていたのだった。「ハリウッド、しんどい」道のりの遠さ、荷物の重さ、暑さ、よりなによりも、自分が場違いな場所にいるという感覚がわたしの気持ちをどうにも落ち込ませた。周りはどう見てもお金を使って遊び楽しむ場所とそれを目的に来た小綺麗な観光客ばかりである。2ドル程度の地下鉄をケチっている旅行者など、きっとわたしくらいだ。わたしは行き交う人々に大きなバックパックがぶつからないよう用心しながら、足元ばかり見ていた。かの有名なチャイニーズシアターから目と鼻の先にある宿は、バックパッカーにしては高額な一泊50ドルする宿だった。ネット調べた結果、最安値だったし、移動でヘトヘトだったわたしは歩き回って宿を探すという行為ができなかった。2段ベッドが4台並んだ清潔な部屋には先客が一人いた。ボストンで学ぶモロッコ人の彼女はとても親切で、ここいらのナイトスポットについて細かい情報をくれた。ともかく眠りたかったわたしは、彼女との話もそこそこに、自分のベッドに潜り込み、どろりとした眠りに落ちた。気がついたときは外はまだ明るく、明け離れた窓からは通りの賑わい聞こえてきていた。時間を確認すると夜の9時。宿に着いたのが夕方頃だったので、4、5時間は眠ってしまっていた。太平洋をひとっとびして、17時間の時差を超え、さらに冬と夏の季節まで反転。ニュージーランドでは17時くらいには暗くなっていたのに、ここでは21時になっても明るい。いうまでもなくわたしの身体は大混乱になり、その後3日間は超絶ヘビーな時差ぼけに悩まされることとなった。ハリウッドに滞在したのはたったの3日間だけだった。時差の関係で、移動日の30日がとても長く感じられ、いつまでも8月が終わらない変な感覚だった。なかなか終わらない8月最後の日々を、近場の観光地をぶらついた他は、サンタモニカのビーチまで電車で行ってただ昼寝するというなんとも怠惰である意味贅沢に過ごした。ハリウッドは、予想していたよりも「大味」だった。きらびやかなシアターの前には、少し腹の出たエルビス・プレスリーや、本物よりもかなり豊満なマリリン・モンロー。中国のお土産やで売っていそうな胡散臭いミッキーとミニーの着ぐるみ。それらが、観光客相手に不自然に白い歯をこれでもかと見せながら愛想を振りまいていた。一方で、ブランドもののバックを携えたでっぷり太ったご婦人をたくさん引き連れた団体客が、じゃらじゃらと音が聞こえてきそうなほど数珠繋ぎになってあるきながら、パシャパシャ写真を撮っていた。キラキラとしていて、派手で、ゴージャス。とても大きく、騒がしかった。微細な趣よりもなにか別のもっとはっきり白黒つくなにかを必死に競っているようで、わたしはそれを見ながら、アメリカに来たんだなーと思った。質より量。でっかいステーキ肉をこってこてのグレービーソースとともにかっこんでいるようで、わたしは初日でお腹いっぱい胸いっぱいになってしまった。オーストラリアの片田舎に住み、ニュージーランドの大自然に酔いしれてきたわたしにとって、そこはとても人工的で、わたしはそこからはじき出されたように、安宿(そんなに安くないけれど)の片隅で、窓から入ってくるガヤガヤとした笑い声やクラクションを聞きながら、屋台で買った5ドルのホットドックを頬張っていた。「移動しよう。」いてもたってもいられなくなり、わたしは次なる地、ニューヨークへ向けての航空券を手配し、4日目の朝、ハリウッドを離れた。もっと深く入れば、ロサンザルスもカリフォルニアも、もちろんハリウッドも、おもしろいところはたくさんあるとは思うのだけれど、その時のわたしは動きたくて動きたくて、どうしようもなかったのだ。とくにこれといっておもしろい出会いもなく、後ろ髪引かれるものももちろんなく、わたしはしれっとハリウッドを後にした。宿のモロッコ人は最後まで親切で、good luck という彼女のぽてっとしたほっぺただけが、わたしのハリウッドでの唯一と言っていいほどの「見れてよかったもの」だった。一路、大都会、ニューヨークへ。いざ、行かん。カイワレ

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  • 05 Sep
    • かい、NZ出国できません。

      いま、リアルタイムでは、アメリカ(と、ちょっとカナダ)の旅を終えて、メキシコにいます。怒涛のように移動つづきだったこれまでの旅をなるべく早くリアルタイムに追いつけるように書いていきたいと思います。-------------------------------オーストラリアでのワーホリを終えて、ニュージーランドを10日間ほど旅したあと、NZ南島の都市、クライストチャーチを出たのが、7月30日の16時(NZ 現地時間)太平洋をひとっ飛びして、アメリカ西海岸のロサンゼルスについたのが、7月30日の昼12時(USA 現地時間)移動時間はオークランドの乗り継ぎも含めて17時間くらいあって身体的には17時間、先に行っているのに、環境的には同じ日の昼間に逆戻り。ロサンゼルスについてからの3日間は超絶ヘビーな時差ぼけにこれでもかというほど悩まされ、ついでに風邪気味だったことも相まって正直、観光どころではなかった。ロサンゼルス空港に無事到着して入国ゲートを通過した瞬間の、わたしの安堵と歓喜たるや相当なものだったと思う。人知れず、小さくガッツポーズしたほどだ。「あー、やっとついた。無事ついた。」この感情は、なにも移動時間が長かったからだけではない。-----遡ること20時間前、わたしはクライストチャーチの空港で必死にパソコンとにらめっこしていた。腕時計をしきりに気にしながら、少なくなっていく残り時間とパソコンの充電に急かされながら、カナダかメキシコ行きの航空券を探していた。自分の考えが甘かったと言ってしまえばそれまでだ。というか、それしかない。旅人として情報収集を怠り、自分を過信した結果だった。16時発の飛行機の最終チャックイン時間は午後の3時25分。残り時間5分になって、わたしはまだ航空券を購入できていなかった。この時点でわたしは一旦、航空券購入をあきらめチャックインカウンターへ走った。ことの次第を説明して、なんとかならないか相談するつもりだった。文字通り、カウンターのお姉さんに泣きつきにいった。ことの発端はクライストチャーチ空港につき、チェックインを行っていたときだった。最近の格安航空会社にありがちな機械を使ってのチャックインを終えたあと、「アメリカ渡航にあたり確認事項があるので係員にお声掛け下さい」的な案内が出た。お、来たな、と思ったが、このときまでは、「なんとかなるだろー」としか思っていなかった。状況が変わってきたのが、近くにいたニュージーランド航空のスタッフに声をかけ、アメリカを抜ける航空券を持っているか尋ねられたあとだった。どこに抜ける航空券もバスチケットも持っていないと知ったアジア系のおねえさんは顔色を変えて「それではわたしたちの飛行機に乗せることはできない」と冷たく言い放った。それでも、なんとかいけないかと思い、ごねてみたのだけど、状況は一向によくならず、ついには奥から背広をビシッと決めた、見るからに偉めの紳士が出てきて、同じように、「アメリカを出る航空券を持っていないあなたを我々の飛行機に乗せることはできない」と突っぱねられた。あぁ、やっぱりそうなのか、てゆうか、こんな厳しいんだ、まじか。わたしは、2人を交互に見つめながら今後の対策について頭をフル回転させながら、急ピッチで考えた。まぁ、解決の手立てなんて一つしかないのだけれども。2001年の同時多発テロ以降、アメリカに空路で入国する際はトランジットも含めてESTAと呼ばれる入国管理システム?に旅行者情報を登録しなくてはならない。また、不法滞在防止などの観点から、アメリカから出国する航空券も事前に持っておく必要があった。インターネットなどで、そういった情報を事前に仕入れてはいたのだけれど、「航空券はなくてもなんとかなるだろう」という安易で楽観的な考えから、ついにわたしはアメリカを出国する航空券を持たずに、ニュージーランド出国日を迎えたのである。「Ok, I will buy ticket to leave America…」もうごねてもだめだなと悟ったわたしは、彼らの言う通りにルールに則ってアメリカを出る航空券をその場で買うことにした。カナダかメキシコならきっと安い航空券があるだろうし、行く予定でもあったからしょうがないが、買おう、と思って。「でも、カナダやメキシコはダメだよ。」わたしがおとなしく引き下がろうとした瞬間、偉めの紳士が言う。「日本へ帰る航空券ではなければダメだ」そんなことあるか、と思った。そんなわけはない。というかあってたまるか。日本へ帰る航空券なんていくらするかわからないし、もちろん日本へ帰る予定はない。そんな捨て航空券に安くないお金を使いたくない。「なぜだ、わたしは旅を続ける必要がある。そんな航空券なんて買えない」偉めの紳士にくってかかるわたしだったが、先方の出方は変わらない。「カナダへの航空券を買ったとしても、アメリカへ入国できるかはわからない。また向こうでも今と同じようなやりとりが繰り返されるだけだ。」偉めの紳士は引き続き冷たく言い放つ。変なアジア人にこれ以上かまっていられないんだ、わかれよバカ、といった表情だった。絶対に納得できなかったわたしは、「それでは、アメリカについてまた何か言われたら、その時はまた同じ問答をしよう。その時にダメならまたカナダから出る航空券を買う。それでいいか、、、というかいいでしょ、ねぇ。」と交渉して、チェックイン前にアメリカ発カナダ行きの航空券を購入すればロサンゼルス行きの飛行機に乗せてくれるということでなんとか話をまとめ、先述の通り、空港の片隅でパソコンとにらめっこするに至った。チェックイン締め切りまで残り50分でのことだった。50分あれば余裕だろうと思っていた航空券購入だったが、アメリカ入国以後の予定を一切たてていなかったわたしは、どこからどう移動するかを即座に決めることができなかった。結局、あーだこーだいろいろ値段を見て探して、などしているうちに残り時間が10分程度になってしまった。とりあえず見つけた中で最安値だったニューヨーク発トロント行きの航空券を購入しようとしたのだが、クレジット会計の段になって、なんどもエラーになってしまう。カードが悪いのかと思い、カードを変えて試してみるも、購入できず、結局タイムオーバー。文字通り、半泣きになりながらチェックインカウンターに駆け込み、ことの次第を説明した。オークランドでの乗り換え時間で、絶対、確実に、(actually ! seriously !!!) アメリカを離れる航空券を買うから、とりあえず乗せてくれないかと、ほぼ本泣きになりながらチャックインカウンターで拝んだ。時刻は3時半を超えていて、本来ならばタイムオーバーであった。そんなわたしの必死の形相をみたカウンターのお姉さんは、同情してくれたのかどうかわわからないけれど、電話でどこかへ掛け合ってくれて、とりあえずオークランドまでは乗せてくれることになった。オークランドでアメリカを出るチケットを購入して、それが先方の方で確認できたら、再度チェックインをおこなってロサンゼルス行きに乗せてくれる、とのことだった。飛行機の出発時刻まで残り20分。ギリギリのギリギリだった。わたしはカウンターのお姉さんになんどもお礼を行って、頭をなんどもさげながらその場を離れ、搭乗ゲートへと走った。その道中、例の紳士にあったので、ことの次第を簡単に説明した。紳士は一言、「Run, good luck」と走りさるわたしの後ろ姿に向かって声をかけてくれた。意外とけっこー、いい人だった。息を切らして搭乗ゲートまでたどり着いた時、まだゲートは開いてさえいなかった。時刻は16時ジャスト。なんとも拍子抜けしてしまってベンチに倒れるように座った。ベンチ横にコンセントを見つけたので、充電が切れかけたパソコンをつないで、時間ぎギリギリまで最後、航空券購入と格闘した。先ほど購入しようとしていたアメリカン航空を諦め、少しだけ(といっても数千円)高いデルタ航空のチケットにターゲットを変更して購入手続きを進めていった。するとなんてことない、すんなりとクレジット会計もすることができ、登場ゲートが開く前にカナダ行きの航空券が買えてしまった。さっきまでしこたまかいていた脇汗が冷えていくのを感じた。とりあえず、ここでできることはやれた。やりきった。わたしはオークランド行きの飛行機に乗り込み、横に座ったおばさんにこれまでの経緯を聞いてもらいながら、一時間半後にオークランド空港に到着した。オークランドに到着してからは簡単だった。一度荷物をとってチェックインしなおす時に、また例のごとくアメリカ発の航空券をもっているか尋ねられたのだけれど、カナダ行きの航空券を見せるとすんなりチェックイン作業は終わった。柔らかい雰囲気のおじいさんスタッフを狙って声をかけたのだけれど、クライストチャーチで言われたようなことは特に言われなかった。搭乗ゲートでロサンゼルス行きの案内を見ながら、心底ほっとした気分にひたった。あー、やっとニュージーランドを発てる。自然と笑みがこぼれて、隣に座っていた男の子から訝しげな目線でしげしげと眺められたのだけれど、その時のわたしには一切、気にならなかった。こうして無事、ニュージーランドを出国することができたわたし。17時間の飛行機での移動は、気流の乱れによりなんども大きく揺れ、あげく、隣に座っていたアジア人の女性がトイレに立った瞬間に通路で倒れ、酸素吸入処置を取られたりして、なんとも落ち着かない時間だった。※ その女性は数時間後になんともないような雰囲気で帰ってきた。なんだったんだろう。そして、最終関門のアメリカ入国。対応してくれたのは、黒人の強面のおじさん。わたしは内心とても緊張していたのだけれど、悟られまいと、笑顔で乗り切ろうと意を決していた。おじさん「どこから来た?」わたし「ニュージーランドからです!(ニコ)」お「その前はどこにいた、日本からか?」わ「オーストラリアです!(ニコニコ)」お「アメリカのあとはどこに行くんだ」わ「カナダです!8月9日に出ます!!」お「そのあとはどこに行くんだ!!」めっちゃ聞いてくんなーこいつ、と思いながら終始笑顔で対応。こっちの気持ちを知ってか知らずか、強面おっちゃんは質問をやめない。そして少しづつ話題がそれていく。お「カナダのあと、メキシコにいくだと、お前、仕事はしていないのか」わ「(そんなん聞くー??)はい、いまはしていません。旅の途中で、全体で2年くらい日本へは帰りません、働きません(ニコ)」お「働かないだと、なぜだ!人間たるもの働け!お前いくつだ、日本で仕事はしてなかったのか!」わ「(えー、入管かんけーなくなっちゃった!)2年半、マガジンカンパニーで働いてました。広告担当してました。仕事は好きですよ。帰ったらまた働きます!(ニコニコニコ)お「そうか、まぁ、がんばれ。怠けると、人間だめだからな。しっかりな!」enjoy and good luck、といって、おじさんは終始ぶっちょうずらのまま、わたしのパスポートにボスっとスタンプを押してくれた。最後の方は親戚のおっちゃんに説教されているような感じになったが、とりあえず、なんとか入国することができた。アメリカ出国については、出国日を確認されただけで特になにも聞かれなかった。なんか、いろいろあったなー、とこの20時間を振り返りながらくぐった「Welcome LA」と書かれたゲートは、とても神々しくみえた。結果的に、なんとかならなかったけれど、ならなかったなりに、なんとかなったな、と安堵のため息をつきながら、ハリウッド行きのバスに乗り込んだ。車窓からは大都会LAのヘビーな交通渋滞、その向こうに小さく「HOLLY WOOD」の文字が山の斜面にあるのが見えた。あー、これが、まぁ、旅するってことですよねと小さく独り言をいってから、バスの座席に深く座りなおした。久しぶりに自分で「旅」をしている感覚にしびれながら、これからはじまる「アメリカ」に思いを馳せた。つづく。

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  • 08 Aug
    • 旅のはじまり

      今、ニューヨークにいます。7月の頭にオーストラリア・ケアンズ近郊でのバナナジョブを終え、シドニー→バイロンベイとオーストラリア国内でゆっくりしてから、7月20〜30日まで、ニュージーランドをバナナジョブ仲間とレンタカーの旅をして、7月30日にニュージーランド・オークランドからロサンゼルスに入りました。ニュージーランドの旅までは、ワーホリ仲間と行動を共にしていたので、どこか、「旅」というよりも「ワーホリ」感が抜けなかったのですが、7月29日の午後、バナナ仲間と別れて一人ホステルに向けて歩いている時に、久しぶりに“独り”を感じて、あ、これで本当にワーホリが終わって、一人旅がはじまるんだなという決意のようなものがふつふつと湧いてきていました。ほんで、アメリカ。正直、そっからしっかりブログを書こうと思ってたんですが(何度目の言い訳)太平洋をひとっ飛びした結果の、かなりヘビーな時差ぼけと、極寒のニュージーランドを薄着で旅したツケによる風邪のせいで、正直、観光するのも億劫な状態だったので、ずるずると旅をはじめて一週間もたってしまいました。ほんで、ニューヨーク。今、マンハッタンのスタバで、グランデサイズのラテを飲みんがらMac Air をいじっています。隣では、画家のおじさんが、色鉛筆を使って創作活動を行っています。ロスも、昨日までいたワシントンも、ここニューヨークも、そこかしこに、アートが溢れていて、やっとわたしの執筆(なんておこがましいけれど)意欲もふつふつと湧いてきました。ここで少し休憩してから、かの有名な、でっかい女神さんでも拝みにいってきたいと思います。旅日記、はじめの章。そより、と、スタートです。カイワレ

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  • 12 Jun
    • お久しぶりです!

      だーいぶ、時間が空いてしまいました。フィリピンの旅を終えた後、世界一周のお小遣い稼ぎにオーストラリアに来ています。こっちにきて、なんだかんだで、もう7ヶ月。その間のことを、書こう書こうと思いつつ、仕事(と仲間との遊び)が忙しいという言い訳のもと、三ヶ月もブログを滞らせてしまいました。すんません。笑こっちにきてからは、ほーんとにいろいろあって、人生初体験!のことだらけで、正直、胸がいっぱいでお腹いっぱいで大変なことになっています。いま、定住しているところを離れるのがあとちょうど2週間後。その間に、なんとかキャッチアップしたいと思います。できるかな。笑いや、やりましょう。とりあえず、カイは生きてますよ報告でした!カイワレ⭐︎

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  • 31 Mar
    • 祝⭐︎「Travelers Box」さんで記事を書かせていただきました⭐︎

      一ヶ月以上も前になるんですが、旅のWebマガジン「Travelers Box」さんで記事を書かせていただきました!!!わたしのはじめてのパブリックな記事です⭐︎記事はここから⭐︎旅にでる前から、ずーっと読者として大好きだった媒体に、こうした形で関われるのが、本当にうれしいです。担当していただいた編集の方には、結構迷惑をかけてしまったかとは思うけど(なにせ素人なもんで)これからも少しづつ、こうした形でも書いていけたらと思います。記事の内容としては、フィリピンでの留学中に出会った人々と、その人たちからかけられた言葉をもとに、「選択」をテーマに書きました。わたしたちは、実に様々な選択肢を持っている。そのことに気がつき、どう選ぶかが大事。「なにをどう選ぶか、どう旅をするか、どう生きて行くか。わたしの旅ははじまったばかりだ。」おひまなときにでも⭐︎カイワレ

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  • 18 Mar
    • レイテ島慰霊5

      30段ほどの階段を登りきると慰霊碑はあった。「鎮魂」と書かれた石碑には、「千葉県護国神社」と奉納者の名が彫られていた。どんな所以があるのかは調べていないのだけれど、こんなところで自分の生まれ育った「千葉県」の文字を見るとは思わなかったので、ここでもまた何かしらの因果を感じてしまった。わたしはもうどっぷりと、完全に、感傷に浸っていた。石碑の横には、木でできた小さな小屋があり、中には「陸軍第一師団戦没者英霊之碑」と書かれた塔婆(お墓の後ろにある木の板)のような慰霊碑が小さなお地蔵さんとともに納められていた。その木の慰霊碑の傍にはそっと花束が供えられていて、茶色く枯れてドライフラワーのようになっていた。いつぞや誰かが置いていったのだろう、見た目の美しさは失っても、それはとても美しかった。誰かの、誰かへの、祈りが伝わってくるようだった。さて、わたしのミッションはまだコンプリートしていない。この地に来ることだけがわたしの目的ではないのだ。わたしにはもう一つ、やるべきことがあった。大切な、外せない“やること”があった。わたしは持ってきたリュックサックの中から、「百年の孤独」を取り出した。箱に入れたまま封も切らずに持ってきたのは、わたしなりの礼儀であり、相手への尊敬を表していた。多少お酒を嗜む人なら知っていると思うが、「百年の孤独」は宮崎県の酒造メーカーが作る焼酎で、現皇太子もその味がお気に入りとのことで「皇室御用達」の冠がついた宮崎を代表する麦焼酎である。ちなみに、「百年の孤独」の名前は、コロンビア人ノーベル賞作家による同名小説(1967年)に由来している。その小説の内容(実際に読んだことはないのであらすじしかしらないけど。)がどことなく我が一族の物語とリンクしている部分もあるようなんだけれど、それはまた別の物語。また別の機会に話すとしよう。そんな焼酎を、わざわざ日本から重い思いをしてえっこら運んできたのは言うまでもない、この地で亡くなったわたしの祖父の叔父、為一おじさんに捧げるためだった。曽祖父の代まで、わたしの先祖は宮崎県で代々酒造りをしていた。その思い出も、昔の栄華も、今のわたしにとっては、まったく接点のないただの「物語」なのだけれど、こうして、こういった形で、親戚を訪ねることになった今回、もちろん手ぶらでは来られないと思ったし、どうせ持ってくるならその「物語」に沿ったものがいいなと思った。その結果、やはり郷里の酒が当然の一択となった。銘柄が書かれた茶色い箱から瓶を取り出す。厚紙のような包装紙に包まれた瓶はいつも家で飲んでいたものとは違って少し特別なもののように見えた。「百年の孤独」この地で、70年前に、孤独に亡くなっていったいくつもの魂を想う。キャップを取ると、少しクセのある、あの独特の焼酎の香りが鼻をついた。わたしは「鎮魂」の石碑の前に立ち、一礼をしてから、手を合わせて心の中で挨拶をした。「従軍獣医、為一の甥の孫のりかこと申します。今日は一族を代表して来ました。宮崎の、郷里の酒です。飲んでください。」最後にもう一礼をしてから、わたしは石碑に焼酎を供えた。辺りが焼酎の匂いに包まれた。お酒は比較的強い方だと思うのだけれど、その匂いだけで酔っ払いそうになった。それから、わたしも一口いただいた。いつもの飲みなれた味だったけれど、すごく特別な一口のように感じた。そして実際にそれは特別だった。瓶の半分ほどが空いた段階で、隣の小屋の前に移動し、そこに残りの半分をお供えした。焼酎の匂いがより強くなった。峠の中腹に位置する慰霊碑からは周囲がよく見渡せて、今通ってきたハイウェイの向こうには草原とジャングルが広がり、遠く、ガンギボット山が見渡せた。あの山にも多くの日本兵が眠っていると聞く。また、反対側は鋭く落ちて崖になっていて、すぐそこに海を臨んだ。海風がとても心地よく、いい場所に祀られているな、と素直に嬉しかった。わたしはしばらくの間、そこでただぼーっとしていた。どれくらいの間そうしていたかはよくわからなかった。「感覚」がいつもと違っていたので(と思うので)、一時間かもしれないし、もしかしたらたった数分だったかもしれない。ぼーっと突っ立ち、手前から奥へずーっと広がる木々と遠くに見える丘陵を眺めながらわたしは何かを感じていた。それはどう表現すればいいのか今はよくわからない。時間、かもしれないし、歴史ともちょっと違う、つながり、だったり、家族、だったり、なんだかよくわからないけれど、わたしは確かに何かを感じていた。それを明確に表現できる日が来るのかはわからないけれど、それは特に問題ではなくて、わたしは目的の場所に来ることができて、したかった人に挨拶をして、一緒にお酒を飲んだ。その事実がわたしにとってとても大切なことだし、次の物語へ進むために必要なことだった。「約束はできないのですが、いつかまた来ます。」そう最後に言ってからわたしはその場所を後にした。振り返りはしなかった。なんとなく、そうしないほうがいいと思ったからだ。階段は下から見るよりも傾斜が急に感じたので、登ってきたときよりもよりゆっくりと降りていった。左右には例の赤い花が咲いていて、やっぱりゆっくりと揺れていた。それはとてもとても、やさしく咲いていた。階段を下りながら、この花がここに咲いていてくれてよかったなと思った。その赤いトンネルを下りながら、一歩一歩、自分を現実へと戻していった。わたしには歩むべきわたしの物語がある。階段を下り切ると、おじさんがタバコを吹かしながら戻ってくるところだった。サンキューと声をかけるとおじさんは無言で頷いてバイクに跨った。バイクが走り出したとき、最後に一度だけ振り返った。草木に隠れて階段は見えなかったが、あの赤い花だけが、静かに手をふってくれていた。帰りしな、「ずっとここに来たかったんだ、今日は本当にありがとう」と改めて肩越しにお礼を言った。おじさんは振り向きもせず、OKとだけ言った。10分くらいでレイテの集落に戻ってきた。わたしは財布から100ペソ紙幣を取り出しておじさんに渡した。日本円にすると300円くらいだけれど、フィリピンではそれなりのところでご飯が一人分食べられる。多いか少ないかはわからなかったけれど、とりあえず自分のお財布の中に入っている一番大きな紙幣を渡した。おじさんはサンキューといってまたタバコを吸いだした。無口だけれど、目はとてもやさしいおじさんだった。帰りのバンが来るまで、サリサリの前で先ほど集まってくれたおばさんたちと立ち話をした。英語での説明に自信がなかったので、わたしの“祖父”がこの地で眠っていると説明した。遠いところをよう来たね、と言いながら、わたしの服についた葉っぱやら木くずやらを、毛づくろいするように取ってくれた。よく日本人はここに来るの?と聞いたら、ぼちぼちねと言っていた。そのぼちぼちの人たちが、わたしが今日出会ったものと同じのような親切に出会えることを心から願った。最後におばさんたちの写真を一枚撮らせてもらって、わたしはバンに飛び乗ってオルモックへと帰った。車窓を眺めながら、とても幸せな気分に浸っていた。わたしの慰霊の旅は、思っていたよりもすんなりスムーズに目的を達成してしまった。こうしてやっとこさ、2年半前の一つの旅に区切りをつけることができた。わたしは物語の次の章へと移っていける。宿に着いたのは夕方ごろだった。わたしは慰霊碑まで行くことができたことを吉田さんに報告し、一応、お礼も言いたいと思っていた。ラウンジに姿がなかったのでスタッフの人に聞いてみると、今日の昼過ぎにチェックアウトしたらしい。わたしをオルモックへと連れてきてくれた奇妙なカップルとは、初日以来、ついにきちんと会話をせぬまま、2度と会えなくなってしまた。吉田さんには吉田さんの物語があって、わたしの物語とは一瞬交差したけれど、方向が全く違っていたのだ。でもその一瞬の交差が、わたしの物語には絶対的に必要であって、きっとわたしはこの先も吉田さんという登場人物を消して忘れないと思う。そして願わくば、傍にいた華奢な少女が心から笑っていることを心の端で祈った。彼らには、彼らの旅があり、彼ら自身の物語を自らの足で生きて行く。それだけだ。島を離れるフライトは2日後だったので、わたしは次の日を1日だらだら過ごしてから、島について5日目の朝に予定通り島を離れた。これからマニラで乗り換えをして2カ国目、オーストラリアに向かう。離陸した飛行機のまどからタクロバンの街が綺麗に見えた。また来ることがあるだろうか。それはわからないけれど、ここに来れたことは、本当に良かったと思う。レイテの島はすぐに見えなくなって眼下にはひたすら海だけになった。わたしはこの5日間を想って、大きくため息をついた。満ち足りた気分になったとき、わたしはため息をつく。気持ちがいっぱいでうまく息を吸えなくなるからだ。「いい、旅だった」そう思って、わたしは次の国へ移動する。次の旅が、次の物語がわたしを待っている。胸には、期待しかない。カイワレ。

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      テーマ:
  • 11 Mar
    • レイテ島慰霊4

      翌日は昼ごろまで寝ていた。早く情報集めのため町にでなければいけないのはわかっていたのだけれど、連日の移動のせいで、身体が言うことを聞いてくれなかった。昼すぎにもそもそと起きだしたわたしはとりあえず、昨日通過したレイテの集落まで行ってみようと思い、バン乗り場に向かった。聞くと、13時過ぎの便があるという。料金は往復で80ペソ、約240円だった。レイテの集落についてからどうするかは特に決めていなかった。暗くなる前になにも見つからなかったらおとなしく今日はオルモックに帰ってこようと思っていた。でも、なんとかなるだろうという楽観的な予感はあった。というか、それしかなかった。今日なんとかならなくても、まぁ、明日や明後日には、きっとなんとかできるだろうと思っていた。世の中になんとかならないことはない。なんとかならなかったと思う自分と、結果はどうあれなんとかなったと思う自分がいるだけだ。そして基本的に私は後者の人間で、「まぁ、なんとかなったわな」と最終的な結果に満足してしまう人間だった。だから、特にそんなに焦ることもせず、なにか情報がもらえたらラッキーぐらいの心持ちで、レイテの集落に向かった。レイテの集落につくと、サリサリ(フィリピンの大衆的な雑貨店兼レストランのようなもの)の前でバンは止まった。「さて、こっからどうしますかね。」誰にともなくつぶやいてみた。不安でなかったといったら嘘になる。自分を奮い立たせるためにも少し、大きめの声で言ってみた。同乗者の何人かが振り向いたので、わたしは彼らに微笑んでから、バンを降りた。幸いなことに、メインストリートの両端に点在するサリサリを始めとする商店には、多くの人がいて、学校の終わる時間帯なのか学生やその保護者とみられるお母さん方がたくさん買い物をしていた。これだけ人がいれば、誰か一人くらいは慰霊碑について知っている人がいてもおかしくないだろう。とりあえず、サリサリの目の前に座っていた、40歳くらいの男性に話しかけてみた。スマートフォンの画面に、慰霊碑の目印となる国道沿いに建てられた看板の画像を表示して、ここを知っているかと尋ねた。男性は一瞬、はて、という顔をしたのだけれど、横にいたおばさんや取り巻きが集まって来てくれたので、私はつづけて、ジャパニーズ、ソルジャー、WW2、といった関連ワードを並べ立てた。「慰霊碑」という英単語を知らなかったし、正しく発音できる自信もなかった。英語は伝える気持ちが一番大切と、いつぞや誰かが教えてくれた言葉をわたしは律儀に守っている。すると、近寄ってきてくれたおばさんの一人が、「あぁ!あそこよ、ほら!日本人のスタチューがあるじゃない!」と集まったフィリピン人たちに向かって叫んだ。何人かも、あぁ、あそこだ、あそこだ、と続けてくれた。わたしの慰霊碑探しの旅は表紙抜けする程あっさりと、道が開けたみたいだった。聞くと、この先の峠を越えたさらに先の峠の中腹にあるらしい。が、とてもじゃないが歩いてはいけないとのことだった。とりあえず、慰霊碑が現存して、行き方もわかる人がいるということで、私は今日のところはこれだけでも大収穫だなと思った。あとは足をなんとかするだけだ。出だしは好調。明日、タクシーか何かをオルモックでチャーターして出直せばいい。「ほら、あんた!!!なにしてるのさ、連れてってやんなよ!!!」明日の移動手段についてわたしが思案していると、リーダー格らしいおばさんが、わたしが最初に話しかけたおじさんの肩をバシっと叩いて言った。おじさんも、さぞ当たり前のようにうなずいて、自身がまたがっていたバイクの後部座席を指差して、乗れ、と合図してきた。お?お?と戸惑っているうちにあれよ、あれよ、という間にバイクに乗せられ、そのまますぐにそれは走りだしてしまった。大丈夫がこれ、と思わなくもなかったがそんな不安をおかまいなしに、急勾配の峠をバイクがモーター音を響かせて登っていく。レイテの集落はすぐに後ろへ通り過ぎ見えなくなった。鋭く落ちた崖の向こうには草原が広がり、民家なのかただの小屋なのかわからないが人々の営みが点在していた。その向こうにはジャングルの影がうっすら目視できた。「thank you very much」と肩越しにおじさんにお礼を言った。おじさんは振り向きもせず、OKとだけ応えた。順調すぎる旅路にこのまま変な所に連れて行かれたらどうしようと逆に不安を覚えなくもなかったが、そんな不安がむくむくと大きくなる前にあっさりと目的の場所でバイクは止まった。無口なおじさんは何も言わずバイクを止め、ここで待ってるからと一言だけ言ってタバコを吸いにどこかへ行ってしまった。あ、着いた。まじか。なんだか本当に拍子抜けするほど、順調すぎるほど、わたしは目的地まで来ることができた。これはもう、幸運という他ない。ここに来るべきだった、というか、来ることが決まっていたのだと、変なスピリチュアルではあるけれど、思わざるを得なかった。峠の中腹に「JAPANESE SHRINE」と書かれた青い看板が立っている。そのすぐ傍に慰霊碑へと続く階段が伸び、階段の両脇には彼岸花のような赤い花が階段に沿って咲いていた。それは意図して植えられたのか、単に自生していたのかはわからないけれど、ここまでの道中や今辺りを見渡しても、咲いているのはその階段に沿った場所だけだった。「やっと、来ましたよ」そう呟いてから、わたしは一歩一歩を踏みしめながら階段を登っていった。思ったよりも傾斜がきついその階段は、心急ぐわたしに対して「落ち着け落ち着け、そこにいるから大丈夫」と語りかけているようだった。峠を吹く風はとても心地よく、赤い花がゆっくりと左右に揺れていた。つづく。カイワレ

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      テーマ:
  • 20 Jan
    • レイテ島慰霊3

      空港があるタクロバンから島の反対側のオルモックまではバンで3時間ほどかかる。急なカーブやのぼり道をバンは猛スピードで進んで行く。道路は舗装されてはいるが、なにせ急カーブの連続で、ひどく左右に揺さぶられた。バンが走り始めてからも、吉田さんの退屈な話は相変わらずなトーンで続いていて、猛スピードで峠を越えていくバスの揺れの中で、私は適当な相槌さえ煩わしくなってきていた。(のでほとんど返事さえしなくなっていた。)タクロバンを出発してから、あたりはすぐにヤシのジャングルになった。写真や映像で見ただけの単なるイメージに過ぎなかった世界が急に目の前に現れたとき、逆にその実態は現実味なく目の前を通り過ぎていく。写真の続き、どこかで見た映像の続き、そんなどこかふわっとした感覚にとらわれながら、車酔いでムカムカする胃袋を抱えて、過ぎ去る景色をぼんやりと眺めていた。バンが走り始めてから2時間ほどたったとき、急な峠が幾重にも重なった場所にきた。途中途中で海が見え、ハイウエイの端は鋭く落ちていて崖になっていた。崖を避けながらハイウエイが激しく蛇行しながら峠の頂に向かってうねうねと伸びていた。一つの峠を越える度に、一つずつ集落があって、それ以外はまさしく「未開」と呼ぶにふさわしいジャングルだった。道が整備された以外は、70年前となんら変わっていないそうだ。「ここらへんじゃないですかね。」不意に吉田さんが言った。それまで彼の話を適当に聞き流していた私は不意に我に返った。「レイテ峠、ここら辺じゃないですかね。」バンは一際高く、急勾配な峠を越えていた。相変わらず、見渡す限りのヤシの木だった。かじりつくように窓の外を凝視しながら、やっとこれた、と思った。そして、「やっと来たよ」とつぶやいた。この「レイテ峠」のどこかにある、「日本陸軍第一師団慰霊碑」。そこに、私の祖父の叔父、父の大叔父も祀られている。陸軍第一師団に獣医として所属した私の大叔父は、この地で亡くなり、故郷宮崎には空っぽの墓石しかない。「一族を代表してきました。もう少し待っていてください。」峠を超えながら、心の中でつぶやいた。きっと私は見つけられるという確信が不思議とこの時湧いてきた。ほどなくしてバンは「LEYTE」と書かれた看板のある集落で泊まった。今越えた峠がレイテ峠なのか、これから越える峠がそうなのか、全くもってわからなかったけれど、とりあえず、レイテの場所は分かっただけでも、このデスロードを激しい揺れに耐えながら走ってきた甲斐はあるように思えた。バスはまた走り始め、また今まで通りの未開のジャングルがつづく。それでも先ほどまでの景色とどこか違って見えた。それは、「ここ」がとても自分の中でリアルになり、「つながり」をひたすら感じる場所になったからだった。「餓死や病死が多かったそうですよ。レイテ島の戦いは。」座席の後ろから吉田さんがつぶやく。その言葉は先ほどよりもしっかりと私の脳みそに響いた。私は、吉田さんに気付かれないようにこっそり泣いた。堪えようとしたけれど無理だった。その涙は、とてもリアルだった。テレビや映画を見たときの涙とは違っていた。自分がいま、「現実」に「いる」感覚。人類史の中の一人の人間として「在る」という感覚。点と点が何万個も重なって繋いできた線の突端にいる感覚。隣の隣の隣のはるか彼方の「点」が、いまは次元を超えて“隣”にいる感覚。私のほほを伝った涙は、とてもリアルだった。バスはそんな私を御構い無しに、あいも変わらず猛スピードで運んでいく。私の心はあいも変わらずではいられなくて、涙で霞む目を手の甲でなんども拭いながら道を覚えようと必死だった。レイテの集落を出て、峠をもう一つ超えてから30分ほどでオルモックの町に着いた。とても綺麗な港町で、タクロバンよりも明るい活気に満ちた気持ちのいい町だった。吉田さんが定宿(と彼は言っていた)としている宿に私も泊まることになり、ティナと二人、黙って吉田さんに着いていった。相変わらず情報はゼロだったけれど、目的地に近づいている、少なくとも行動しているということが、焦る気持ちを幾分和らげてくれた。レイテ島を離れるまであと2日半。残された時間はそう、長くはない。

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      テーマ:
  • 24 Dec
    • レイテ島慰霊2

      レイテ島に到着した次の日の早朝、私は部屋の外から聞こえて来るポップミュージックに起こされた。どうやら隣部屋の客が共有スペースで聞いているらしい。レイテ島の滞在は全部で4日間の予定だった。4日目の夕方の飛行機でマニラへ帰りそのまま飛行機を乗り継いでオーストラリアへ向かう予定となっていた。この地へ来たのは、「親戚のお墓まいり」と称した慰霊が目的だったのだけれど、私はほとんど情報をもっていなかった。この日はチェックアウトまでぐっすり寝て体力を回復してから、街で情報収集する予定だった。なので、早朝に爆音の音楽で叩き起こされた私は正直イラッとしてしまった。ホテルは一人部屋ではあったのだけれど、アパートの一室のような形式の部屋だった。間取りは2LDKで、リビングとキッチンをシェアする形で、個室の2部屋にはそれぞれ別の宿泊客が泊まっていた。深夜に部屋についたとき、リビングのテーブルの上に日本円硬化が散らばっていたので、もしやと思ったのだけれど、朝起きて挨拶してきたのは60歳は超えていると思われる歯が抜けた日本人のおじさんと、ティーンと思われるフィリピン人のカップルだった。「僕の彼女を紹介します。」挨拶もそこそこに、吉田(仮)と名乗るそのおじさんが言った。吉田さんの彼女だというフィリピン人の女の子はティナ(仮)といって、とても小柄な女の子だった。見た目は16歳くらいだったけれど、吉田さん曰く、19歳だそうだ。「僕は彼女を助けたんですよ」チェックアウトまでの時間、吉田さんと朝食を食べながら話していた時に、彼女との馴れ初めのようなものをちらっと話してくれた。「彼女がウェイトレスとして働いていたレストランでね、見つけたの。オーナーに搾取されててさ。僕が全部、借金とか肩代わりしてね、学校へ通うお金も出してあげてね、彼女のおばあちゃんへ新しいミシンも買ってあげてね、僕がティナとその家族を助けてあげたんだ」なぜ見ず知らずの少女にそこまでしてあげるのかとか、「girl friend」という肩書きは彼女が自ら望んだことなのかとか、いろいろ聞きたいことは山ほどあったのだけれど、私は質問を挟むことはしなかった。質問したところでこちらが納得する答えは得られないと思ったし、正直、吉田さんの話はどこまでが本当の話なのかよくわからなかった。吉田さんの話には、ティナを助けた話を筆頭に、自分がいかにこの国の事情に詳しく、貧しい人たちを助けたかどうか。また、「有名」で「お金持ち」で「人望の厚い」“友人”がたくさんいて、彼ら・彼女らがいかに吉田さんを慕っているかとか、そんな話が大半だった。話を聴き進めるうち、ちょくちょくつじつまが合わない箇所があったりしたのも私が彼を信用できない要因でもあった。また、彼の話し方や見た目からは、申し訳ないがそんな人たちと実際に親しいとは到底思えなかった。「日本には帰らないよ。だって、こっちはいい。僕は東南アジアをずーとまたにかけて生活しているけど、こっちはいいよ、こっちは。」吉田さんは繰り返しそういった。正直、どうでもよかった。久しぶりに日本語で話すのが嬉しいのか、吉田さんはそれはもうノンストップで話続けた。つじつまがあわない急ごしらへの自慢話のようなものを延々を聞かされるものだから、私は心底辟易して、そしてどっと疲れてしまった。その間、ティナはもくもくと朝食を食べ、早々に食べ終わると部屋にこもったきりでてこなかった。ことあるごとに吉田さんはティナを部屋から呼び出してなんとか会話に入らせようと少し頑張っていた。私は吉田さんのティナを呼ぶ時の声が嫌いだった。すごく嫌いだった。それは、とても愛情がこもった猫なで声で、それはなんだか、溺愛する飼い猫を呼び寄せるような甘ったるさがあった。私は、吉田さんの「男」としての一面を見せつけられているようでとても不快だったし、その声が二人の関係をすべて物語っているような気がして、聞いていられなかった。ティナは吉田さんに対してとても従順だった。それがまた私の不快感を助長させた。せめてもっと、気の強い憮然とした人だったらいいのにと思った。「バカな日本人を利用しているの」くらいの人であったら私の不快感もいくらか和らいだのではないかと思う。ティナの表情からは、彼女がどんな気持ちで今ここにいるのかは読み取ることはできなかった。ティナは常に無表情だった。「リモン峠に慰霊にいくなら、ここタクロバンじゃなくて、オルモックに行って情報収集したほうがいいと思いますよ。僕らも今日オルモックにいく予定なので、よかったら一緒に行きませんか。」私の旅の目的を説明すると、吉田さんがそう提案してきた。正直、吉田さんとはあまり一緒にいたくないなと思ったのだけれど、何せ時間も情報もなかった私は自称「フィリピンに詳しい」吉田さんのアドバイスを飲むことにした。また、確かに吉田さんには辟易していたのだけれど、もう少し彼と歳の離れた彼女を観察したいとも思った。私は、ふたりについて宿をでて、白いバンに乗って島の反対側のオルモックに向かうことにした。自分の判断が正しいのかどうかはわからなかった。けれど、この奇妙な“カップル”について行くのもそれはそれでおもしろいんじゃないかと、相変わらず喋り続ける吉田さんに適当な返事を返しながら、ぼやっと思った。つづく。カイワレ

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      テーマ:
  • 08 Dec
    • レイテ島慰霊1

      「なんでそんなことするの?」とよく聞かれる。理由はよくわからない。でも唯一わかっているのは、「わたしはしなくてはいけない」ということだけ。2013年2月、学生最後の旅として自分のルーツを辿る旅をした。それから2年半以上が経ち、やっと今、その旅に一応の区切りをつけることができた。わたしにとって旅はネバーエンディングストーリー。終わりのない物語。一つ一つの旅や出会いが、つながり、またつながり、その広がりは無限で終わりない。真っ暗な中に滑走路を示す2本の明かりだけが目立つ。4時間も遅延した飛行機は想像以上にスムーズに目的の空港に滑り込んだ。タラップを降りて徒歩で向かった空港の建物はとても小さく、“国際”空港なんて名前がジョークに思えるほど、簡素なものだった。「Welcome to LEYTE Island~」荷物が流れてくるベルトの横で空港スタッフが10人ほど並んで歌っていた。「レイテ島へようこそ」。そんな歌、歌わんでも、とちょっと笑いそうになったが、なんだか陽気なフィリピン人らしくて、これはこれでいいなと妙に納得してしまった。適当に声をかけられたタクシーに乗って予約していた宿へ向かった。レイテ島は雨が多いと聞いていたけれど、予想をはるかに超える土砂降りで、舗装されていない道は泥水でぐちゃぐちゃだった。それでもやっと、そして無事、ここまで来られたことの嬉しさで、滝のように降る雨にもあまり不安は誘われなかった。首都マニラがあるルソン島から飛行機で一時間、セブ島のすぐ右隣に位置するこの島に来ることは2年半以上前から決めていた。冒頭でも述べたが、学生最後の春休みを私は自分の父方のルーツを探るため、九州を一人、旅していた。父方の親戚の多くは宮崎県の日向市とその近郊の村に住んでいる。また、父方の先祖は代々そこらの地主で、世が世なら私は立派な地主さんのお嬢さんだった。そんな話はなんとなく知っていたんだけれど、この目で確かめたくて父方の先祖が眠る墓へと私はお参りに行った。そこで見つけたのが「フィリピン」そして「レイテ島」という場所だった。「レイテ島ヨリカエラズ。骨ソノ他スベテモドラズ。」「為一 享年21歳」彼の墓は一族の墓がいくつも立つ墓地の一角にひっそりと立っていた。訪れた当時の自分よりも年下だったわたしの曽祖父の弟。祖父のおじさん。父の大おじさん。為一おじさんは、獣医を志す青年だった。1944年に彼は出征し、レイテ島で死んだ。その4年後の1948年に遺骨が戻らないまま、彼の墓は建てられた。おじさんは、郷里の村から遠く離れた東京に出て、獣医になる勉強をしていた。宮崎では今も畜産が盛んだ。村の農家を助けるため、獣医を志したのではないかと察しがつく。わたしには一切、その才能が受け継がれていないのだけれど、父方の血筋は医師が多く、優秀な人が多かったと聞く。第二次大戦中、戦局が苦しくなってくると、為一おじさんは学徒出陣の一環で、当時の満州へ従軍獣医として出征していった。彼が所属したのは陸軍第一師団で、のちにフィリピンへ送られ玉砕する部隊だ。南洋での日本軍の敗北が目立ち始めると、満州からフィリピンのレイテ島に送られた為一おじさんたち陸軍第一師団は1944年10月、マッカーサー率いるアメリカ軍のレイテ島奪還作戦に対峙することとなる。アメリカ軍はレイテ島東部タクロバンに上陸し、圧倒的な武器と兵力で日本軍の拠点を次々に制圧していった。日本軍はレイテ島の西側にあるオルモックから兵力やその他備品を補給していったのだけれど、アメリカ軍の猛攻に補給は追いつかず、あれよあれよという間に補給基地であったオルモックも制圧されてしまう。為一おじさんの所属していた陸軍第一師団の参謀たちはおじさんを含め多くの兵隊をレイテ島に残したまま、隣のセブ島へと退避してしまった。とり残された日本兵たちは、武器も食料も十分に持たず、レイテ島のヤシの密林をさまようこととなった。レイテ島の戦いはあまりメジャーな方ではないと思う。自分も詳しく調べるまで、なんとなく、フィリピンの島だよな、くらいの認識しかなかった。試しに何人かの友人にSNSで「レイテ島なう」と送ってみたのだけれど、みな一様に「どこそれ笑」と返してきた。その島で、わたしのおじさんは死んだ。実際に訪れて思う。相当、それはもう相当に、つらかったと思う。これは、言葉では言い表せない。ただただ、つらかったと思う。見渡す限りのヤシの密林。続く高い峠の数々。当時は整備された道もない中、いつ敵が出てくるかもわからない恐怖の中、食料も鉄砲玉もなく、この原生林をさまようことは、気が狂うほどに、つらかったと思う。現に、このレイテ島の戦いでは、戦って死んだ兵隊と同じくらい餓えや病気で死んだ兵隊がたくさんいるという。私は最激戦地とされ、為一おじさんが所属した第一師団の慰霊碑のあるリモン峠に差し掛かった時、溢れる涙を止めることができなかった。そこはあまりにも、絵に描いたようないわゆる「ジャングル」で、わたしは直視することができなかった。それまで、そんなものはあくまで映像や写真の中でのことで、実際にそこへ行ってみると、「そうでもなかったよ」「いまは昔。変わっちゃってたよ、はは」という感想をどこか期待していた。でも、現実はそこにあった。70年前と地形も様子もほぼ変わっていないという。ここまで、しっかりと、“見ることができる”とは思っていなかったわたしは、その(自分にとっての)非現実的な現実の前に、ただただ泣くことしかできなかった。そして、ありきたりだけど、思わずにはいられなかった。こんなところで、飢えて、もしくは鉄砲にあたって、死にたくなかったろうに。おにぎり、味噌汁、梅干し、母ちゃんの卵焼き、食べたかったろうに。郷里の土に、眠りたかったろうに。もちろんわたしは、為一おじさんにあったことはない。どんな人か聞いたこともない。わたしが知っているのは、彼の足跡だけで、見たのは遺骨も何も入っていない彼の墓石だけだ。でもたった70年前、ここで、自分と同じ血が流れる青年が、いろんなものを捨てて、国のためといって戦い、もしかしたら誰かを殺して、自分も死んだ。これは事実だ。そして、わたしはこの事実を知った以上、ここを訪れなければいけなかった。訪れなければ、わたしは旅を先へは進められなかった。「やっと、きたけん。もう少し待っててね。」わたしは心の中でつぶやいた。曖昧に覚えた宮崎弁を織り交ぜた。それはわたしのせめてもの気遣いだった。わたしは宮崎に住んだことはない。父も祖父もとうの昔に郷里を離れた。とても、長い時間が経ってしまった。カイワレつづく。

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      テーマ:
  • 27 Nov
    • しれっと留学終えました。

      あんまり更新がなく、しれっとすぎるのもいい加減にしろって感じですが、先週、一ヶ月の留学を終え、少しフィリピンの違う島を旅した後(これについては追い追い)しれっとフィリピンを出国して2カ国目のオーストラリアに入りました。語学学校での一ヶ月間は、本当に楽しく、あんまり日本人と絡みすぎるなよとの方々からのアドバイスにもかかわらず夜な夜な日本人スタッフや他の学生と大富豪に興じたり、サリサリと呼ばれるフィリピン版コンビニ?みたいなところで飲んだりまぁ、好き勝手遊んでました。もちろん日が暮れるまではみっちり英語の勉強もしたよって言い訳もしておきます。マンツーマン授業で、グラマーは完全に無視してスピーキングとリスニングに重点をおいたカリキュラムを組んてもらい、さらに必要に応じてカスタマイズや変更も加えてもらってこっちもこっちで本当好き勝手させてもらいました。引き続き、私のリスニングスキルはbadなのですが、一ヶ月前のtoo bad 状態からは一歩抜け出せたかなと思います。また、「恐れないで・・・」と真矢みきの名台詞ににたトーンで先生から言われた言葉もあって間違った発音や文法でもなんでもいいから、恐れないでとりあえず話す度胸のようなものはつきました。ボス先生とは宗教の話や戦争について、年が近い女の先生とはガールズトークおばちゃん先生とは日本人のボーイズ交えて下ネタ幅広い話題を英語で話す訓練をしました。なんでもいいけど、世界共通で、男女関係と下ネタは盛り上がるんだね。いろんな、イケナイ単語、覚えました。かぶれてます。ええ。私が通った語学学校はNPO法人も兼ねていて代表は私とそう年齢も変わらず、インターンとしてきているスタッフも大学生や20代の方ばかりで、本当にいい刺激をいただきました。「遊んでばっかじゃ彼らにおいてかれるぜよ!」って心の龍馬が叫んでました。いや、でも本当にそうで。改めて私が旅に出た理由、旅の途中でやりたいこと旅から帰ったらやりたいこと、それに向かって今、やらなければいけないことを再認識させてもらいました。(オーストラリアきてまた忘れかけてる、とかは言わない)このブログの趣旨は「ストーリー」を書いていくなんだけど(初めて言った)たまにはこうゆう風に、ちょくちょくブログらしいブログも更新していきたいと思います。カイワレ

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      テーマ:
  • 15 Nov
    • 「do you agree or disagree ?」2

      フィリピンの夜は長い。踊ることに飽きても、飲むことに飽きても、クラブを出て別の場所に移るという選択肢がない。だって、そこにはそのクラブ一軒しかないのだから。もちろん、移動の足もないのだから。ジャパニーズ・ボーイズがフィリピーナとよろしくやっているあいだに、私は私でフィリピンの若者たちとフィリピンのパーリーナイトをこれでもかと楽しんでいた。こちらは日本のクラブと違って(といってもあまりサンプルは多くないんだけど)、みんなよく踊る。踊る、というか、踊り狂う。狂ってる。クレイジーに、踊り続けている。見た目はティーンでも、みな器用に腰をくねらせ、お尻をふって、腕を掲げて、セクシーに踊る。男性陣はそれに応えるように、彼女たちの動きに合わせて自分の動きをメイクしていく。点滅するライトのした、熱と汗と奇声と歓声の中にいて、私はクラクラとした目眩を覚えながら(年齢的に体力の限界を感じながら)、いっとき、彼女らとともに狂ったように踊っていた。といっても、そう若くない私。ティーンたちに合わせて踊っていたらすぐに体力の限界がくる。汗もだくだくだし、喉も渇くし、もう満身創痍。私は曲が変わるごとに輪から外れ、少ししたらまた戻るということを繰り返すようになった。たまに席に戻ったりもしたのだけれど、そこはもう女子は飽和状態だったので(フィリピーナの人数もなぜか増えてたw)喉を潤すだけにして、また席を離れてふらふらとフロア内をさまよったりした。その間に、何人かのフィリピーノにお酒をおごってもらったりもしたんだけれど、こちらのお酒は薄いのかとても酔えず、私は英語の勉強も兼ねて健全に彼らとの会話を楽しんでいた。個人的にはすごくそれが楽しかったのだけれど、会話が弾み出した頃合いを見計らってジャパニーズボーイズたちの席からフィリピーノの一人がとことっときて、「こんなとこで飲んでないで、こっちおいで!」と連れ戻された。邪魔すんなよとも思わなくもなかったが、そこは親切心に感謝してすごすごと元の席にもどった。といっても、席に連れ戻されてもとくにすることがないので、またふらふらと踊りにいったり、飲みに行ったり、クラブの外に出て奥さんに逃げられたバンドマントの話をひたすら聞いていたりした。(このバンドマンの話もおもしろかったんだけれど、それはまた別の物語。)深夜も3時くらいになって、そろそろお開きにしますかという感じになった。気づかなかったけれど、大通にはジープニーも通っていて、どうやら乗り継いで帰れるらしい。正直、バンドのおっさんの身の上相談にも限界がきていたし、眠いし疲れていたので、帰れるときいて少し嬉しかった。クラブの外に出て、街灯の下でフィリピーナたちと別れの挨拶をした。ジャパニーズ・ボーイズとフィリピーナたちは、それぞれいい感じのカップルが成立したらしく、さらにどこかへしけこむ相談をしていた。楽しそうでなにより!とおばさん心全開で彼らを祝福しながら、ジープニーに乗って帰ることにした。そのとき、ふと横をみるとボーイズの一人がやけに落ち込んでいる。顔は白く、全身から負のオーラが出まくっていた。この数時間、お楽しみしたはずなのに、である。「・・・だまされました。」遠い目をしながら、かぼそい声で彼がそうつぶやいた。ぼったくりかなにかにあったのかと思ったのだけれど、そうでもないらしい。「彼らに、だまされました。」私は最初なんのことかわからなかったのだけれど、ハグをしている「女の子」たちを見渡してピンときた。なるほど。彼、ら。そこにポニーテールの可愛らしい「女の子」が私に駆け寄ってきた。先ほどまでその落ち込んでいるボーイの膝の上にいた子である。「Do you agree or disagree ??」(あなたは、私たちのこと、認める?認めない?)彼女、もとい女装した彼の笑顔はとてもくったくがなく、女性の私でもどきりとしてしまうようなチャーミングさがあった。「Of cource, AGREE !!」私は彼女たちと大きなハグをしながらこれまでの数時間を振り返った。4、5歳離れた大学生たちとパーティーピーポーでもない私が慣れないフィリピンのクラブに来て、キャバクラとかした席を拠点に踊り狂い、現地人と戯れながらこの空間を楽しみ倒したこと。そして、最後に綺麗にこの素晴らしいオチ。もう、AGREE以外のなにものでもない。Thanks GOD!! Thanks HALLOWEEN!! 「Thank you FRIEND !!!!!」そう言って華奢な腕を私の首に回しながら、“彼女”は力強いハグを返してくれた。その距離でさえ私は彼女の本当の性を感じ取れなかった。彼女はしっかりと「女の子」だった。「認識が客体に従うのではなく、客体が認識に従うだけだ。」昔大好きだった人が教えてくれた言葉が思い浮かんだ。この世の中に絶対的普遍的な客体は存在しない。見る側の認識によって客体はいかようにも変容しうる。言うまでもないけれどフィリピーナたちの半分はゲイだった。見た目には一切わからなかったし、仕草もすべて女の子のそれだった。ボーイズたちは意気揚々と彼女(彼)らを膝の上に乗せて、ハグをし、キスをした。彼女、もとい彼らと。「脚を見ればわかります。おしりも固いし、手もゴツいし・・・。」苦し紛れの言い訳というか、後の祭りというか、苦々しそうにジャパニーズが語る。気付かず楽しんでたやんか!と心の中でつっこみつつ、私はお腹を抱えて笑うしかなかった。客体は認識に従うだけ。そこにあるのは、今も昔も、綺麗におめかしした“彼ら”だけ。「それとこれとは違うんです。。。」かわいかったからいいじゃんという私に対し、ボーイズはうなだれながら答えてくれた。人間て本当に面白いなとしみじみ思った。「カレー味のうんことうんこ味のカレーどっちがいい?」なんて小学生のときによく出た命題があるけれど、「すごいかわいい女の子の見た目をした男の子と、すっごくぶっさいくな女の子とどちらとヤりたいか」ってカレー味のうんこ論争と同じなのかなと彼らを見ながらそんなバカなことを考えていた。(例えがまずくてすみません。)そんなこんなで、フィリピンのパーティーナイトは終了。汗と酒とタバコにまみれてファームに帰ってきた私たちは言葉少なにそれぞれの部屋に帰っていった。私は明け行く空を見上げながら、楽しかったなーと伸びをしてまたひとしきり思い出し笑いをした。フィリピンのサタデーナイト、のハロウィーン。お見それしました。カイワレ

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      テーマ:
  • 08 Nov
    • 「do you agree or disagree ?」

      「Do you agree or disagree ?」かわいらしいポニーテールをゆらして彼女が満面の笑顔で聞いてくる。言わずもがな、私はこのシチュエーション含め全てにagreeをして、彼女とハグをした。彼女の華奢な腕にはなんの違和感もなかった。私はこの数時間を思い返しながら、この状況を全て楽しみ倒した自分の進化をちょっぴり誇らしくも思っていた。フィリピンにきて一週間あまりが経ち二度目の週末が来た。サタデーナイトにかぶったハロウィーンは、日本同様、むしろそれ以上に、カトリックが大半を占めるこの国では盛大に祝われる。こちらでは日本でいうお盆のようなものらしく、ハロウィーン翌日の11月1日の夜には、送り火よろしくキャンドルナイトで死者をお墓に送り出す儀式が各家いえの軒先で執り行われていた。さて、今夜はサタデーナイトのハロウィーンナイト。私が滞在している語学学校は、人里離れた広大なファームの中にある。マニラから車で3時間ほどかかる片田舎にあって、人里に出るには「トライシクル」と呼ばれる三輪バイクを飛ばして10分ほどかかる。ここでは、若者たちを満足させる娯楽はあまり多くない、というか、ない。そんな中で、サタデーナイトのハロウィーン。さて、どう騒ごうかと、みな思案するわけです。私はというと特に予定もなく(することもないので)、学校の宿題でも粛々とこなそうかと考えていたのだけれど、金曜日の夜になって、語学学校の他の生徒や日本人スタッフが、ナイトクラブに行こうと誘ってくれた。今は語学学校の閑散期らしく、生徒は私含めて3人しかいないくて、女子は私だけだった。語学学校のスタッフやインターン生などを含めても、10人足らずだ。そのほとんどが関西出身の大学生だった。フィリピンのクラブなんてそうそういけるもんじゃないしなと思って、私は二つ返事で彼らの誘いにのった。普段はあまりパーティーガールな人間ではないのだけれど、なにかおもしろいことが起こりそうな予感がしたので、意気揚々とついていった。土曜日の夕方になって大学生たちに連れられ、ジープニーというバスのようなものとトライシクルを乗り継ぎ、二時間半くらいかけてマリラウという繁華街に出た。例えるならば、千葉の田舎の繁華街のような趣で、でっかいイオンが町の中心にそびえ立っているのと同じように、こちらで幅を利かせているでっかいモール(SMモール)がでんと鎮座していた。私たちは、そのショッピングモール内のレストランで夕食を済ませ、モールの向かいにあるナイトクラブに入っていった。エントランス料金は30ペソ。約90円足らずである。しかもそのとき少額の持ち合わせがなかった私は、エントランスのいかついお兄さんに困った顔をして20ペソにまけてもらった。世界共通で女子はおとく、ってね。クラブの中は前方中央にステージがあってバンドが生歌演奏をしていた。ステージの前にはダンスフロアと小さな丸いお立ち台があって、ダンスフロアを囲むように、テーブルと椅子がずらりと並べられていた。クラブというよりバブル期のディスコのような雰囲気だった。(といっても平成生まれなので、実際のディスコは知らない)私たちが入店したのは午後9時近く。まだ客もまばらで、ステージではモノマネタレントのコロッケにそっくりのシンガーが、あまったるいバラードを熱唱していた。大音量で流れるバラードとチカチカせわしなく変わる照明の下で私たちはとりあえずビールで乾杯した。フロア全体が温まる前に、こちらも臨戦態勢に入っておかないと、である。飲みだしてからの一時間は単調なバラードが続いた。私たちは飲み続けた。夜10時過ぎになって、客もちらほら入り出し、曲調もダンスミュージックに変わってきた。私たちは、酒を飲んでは踊り、踊っては席に戻って飲み、また踊った。だんだん店全体の熱気も盛り上がってきて、さっきまでの昭和・バブルな雰囲気が熱気ムンムンの六本木よろしくなってきていた。その時分になって、4、5人のフィリピーナが私たちのテーブルにやってきた。皆、小柄でかわいらしく、見た目はまだティーンだった。彼女たちがテーブルに来る前に女子トイレ内で見かけたのだけれど、メイクをなおしたりおしゃべりしている様子は本当にかわいらしいものだった。「あ、これ、俺の彼女っす。」そう言って、平井堅なみに彫りが深くどうみても現地人にしか見えない大学生スタッフくんがフィリピーナの一人を紹介してくれた。残りの女の子たちは彼女の妹とその友達たちとのことだった。フィリピーナたちは日本人を挟むようにしてそれぞれの隣に座った。さながらフィリピンパブのようになった。ちょうど人数もフィリピーナと日本人(男)が半々。私は彼女たちが連れてきた小太りのおかまちゃんと話しながら、この後の展開にわくわくしていた。つづく。

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プロフィール

カイリカコ

お住まいの地域:
千葉県
自己紹介:
カイリカコ、女性、20代。 旅が好き。 写真が好き。 映画が好き。 本が好き。 おしゃ...

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