※今回はまだありませんが、この先残酷な描写が出て来ます。ご注意ください。

 02 司



 小さい頃から、それは当たり前のように見えていた。あまりにも鮮明に映る彼らを、生身なのかそうでないのか、見分けるのが未だ難しい程に。

 “神社の息子”という肩書きだけで、いや、たとえそれが無かったとしても。人とは違うものが見える存在は、容易に周囲の人物に知れ渡ってしまう。

 特別扱いされるのは嫌いだ。腫れもの扱いされるのも。それならばいっそ放っておいて欲しいと思う。関わらないでくれれば、こちらも関わらないで済む。

 生身であろうと、そうでなかろうと。

 幼少期から染みついた考え方は今も健在で、それ故、司は己の能力が面白半分に利用される事が嫌いだった。

 今回は最悪のケースだと言える。

 氷室響子からの打診は今までも何度かあった。初めの頃は料理部に所属して己の目的を果たそうとしていたらしいが、司が何度も断って行くうちに、自らそれらしい部活を立ち上げ、その上で勧誘する形に変えてきた。

 今回も断る事が出来た。今まで通り端から全てを切り捨てて、踵を返して帰る事も出来た。その選択肢を取らなかった理由はただ一つ。部員に迷惑を掛けたくなかったからのみ。

 他人と距離を置き、壁を作り過ごしてきた司が唯一受け入れた他人。正確には受け入れたと言うより押し入られた形になるのだが、彼女達の存在は、不思議と苦ではなかった。それ故に、表面上何と言おうとも、部員だけは大切にしていた。

 本音を言えば帰って欲しかったのだが(勿論危険から遠ざけたいと言う意味で)、何を言おうとついて来ることは分かっていたので、沈黙した。

 何かあれば守れば良い。その為の力だ。

 そう思っていた……のだが。

「王子。おーじっ」

「さきにがいないよっ。消えちゃったっ」

 背後から深山あかねと笛吹友香の慌てた声が聞こえ、司は素早く振り返った。

 大分暗闇に慣れた瞳に、見慣れた二人の部員が映る。だが、彼女達の言う通り、もう一人一緒に来ていたはずの部員――藤崎咲の姿が見えない。

「さっきまで隣にいたのに」

「お嬢さまがすっこけてさきににぶつかった後から、姿が見えないんだよ」

「な、わたくしのせいだと仰いますの? 後ろでぼーっと突っ立っているのがいけないのですわ。大体……」

 氷室の愚痴を耳から締め出し、司は部員たちの言葉の意味について考える。

 いかにも誰の手も入っていない森は当然ながら整備された道などない。司たちは道に迷わないようにと、森に入ってからはとにかく真っ直ぐを心掛けて進んでいた。たとえ鳥に驚いた氷室が戦いて藤崎にぶつかったとしても、人間の体がそう簡単に吹き飛ぶわけがないのだから、傍にいてしかるべきだ。

 それなのに、姿が消えたと言う。事実、司が辺りを見回しても、深山と笛吹、氷室とそのボディーガード以外に人の姿は見られない。

「藤崎っ!」

 試しに、大声で呼び掛けてみる。

 返事はない。不気味な程の静寂が辺りを取り囲むのみだ。

「王子、どうしよう?」

 部員二人が不安げな瞳を向けてくる。司が黙っていれば、その思いはいや増すだろう。長く悩む訳にもいかない。

「……藤崎が消えてから、そう時間は経っていないな?」

「うん。お嬢さまが驚いた時に一回止まって、また歩き出した直後に気付いたから、さきにがいなくなってから数歩と離れてないと思う」

 二人の証言を元に近場の茂みを覗き込んでみても、やはり藤崎の姿は見当たらない。

「逃げたんじゃありませんの? 彼女、ここに来るのを躊躇っていたではありませんか」

「あいつは了承も取らずに突っ走るタイプじゃない。お前と違ってな」

 苛立ちが、そのまま強い皮肉となって現れる。当然の如く起こる猛反発は、司の耳に全く入って来なかった。

 最悪中の最悪のパターンが、脳裏に浮かんでいたからだ。

「……“逸れた”、か……」

「おーじ、それたって、何?」

「……さきに、大丈夫、だよね?」

「逃げた方の心配などしても仕方ありませんわ。とっとと先に進みましょうよ」

 女性陣の言葉を全て受け流し、黙考する事刹那。

「……笛吹、深谷」

「あいっ」

「どうしたの? 王子」

「先に森を出ていろ」

 司の言葉に、後輩二人は一瞬、きょとんとして目を瞬かせた。彼女達から疑問の声が発せられる前に、司は次の指示を口にする。

「なにも、二人だけで出ろとは言わない。守りは付ける。だから、先に森を出ろ」

「でも」

「明日、今日と同じ時間に家庭科室に集合。良いな?」

「…………」

「…………」

 二人は互いに顔を見合わせると、小さく頷き合った。

「りょーかいっす!」

「では、明日にまた!」

「……それで良い」

 物分かりのいい後輩に、司は満足そうに首肯する。

 司の指示の裏にある言葉は、『説明が欲しければ明日してやる。だから今日は大人しく帰れ』である。全てを言わずとも、笛吹も深谷も理解してくれる。こういうところが、普段は他人を寄せ付けない司が、彼女達を受け入れる由縁だ。

 司は葉の生い茂る天を見上げると、半ば叱りつける勢いで叫んだ。

「さつき!!」

 呼び掛けからしばらく、森には何の変化も無い。「さっきから何を叫んでいるんですの?」と不満を隠しもせずぼやく氷室を無視し、司は近くの木々を仰いだ。

 がさがさという葉擦れの音。がしゃがしゃという重苦しい金属の擦れる音。二つが複雑に絡み合い、風のように近付いて来る。

「つかさっ! 呼んだっ? 呼んでくれたっ?」

「きゃああああっ!」

 細い幹や枝葉が銀色の筋に切り落とされる。それと同時に現れたのは、巨大な影。驚いた氷室が尻餅をつきそうになってボディーガードに体を支えられ、後輩二人は互いに身を寄せ合う。

「二人を森の外まで送ってくれ。出来れば、無事に家に帰り着くまで見守って欲しい」

 唐突に現れた対象に冷静に指示を送る司。その傍らで、深山と笛吹が首を捻った。

「……あれ?」

「武者、ちゃん?」

「あー、その節はどうもー」

 頑丈な鎧に身を包み、長い黒髪をポニーテールに結った、どこか凛々しい表情の女性は、五月人形の物の怪、牛丸だ。前に学校で騒ぎを起こした所を司たちに掴まり、以後、司の家に居候をしている。

 自身は非常に不本意だったが、姉たちの陰謀により“名付け”をする羽目になった司は、彼女に“さつき”という名を与えた。五月人形という本来なら男の性別を与えられた器に宿った女性の物の怪。という事で、それっぽい(しかし安易な)名前を与えたのだ。

 だが、よほどの理由が無ければ呼び出したりはしない。呼び出したとしても、殆ど雑用だ。それでも、司の役に立つのがよほど嬉しいのか、さつきは何をやらせても嬉しそうにしている。

「見守ってはほしいが、他の奴に見咎められるなよ。お前は目立つからな。気をつけろ」

「分かってるよぅ。大丈夫だいじょーぶ。ぼくにお任せっ」

 重厚な鎧と冷徹な光を持つ刀を装備している割に、本人はほんわかした雰囲気でにこにこと笑っているので不釣り合いな事この上ない。物の怪としては若者の部類に入るらしいが、言いつけた仕事はきちんとこなすので、その点、司はさつきを信頼していた。

「二人が家に無事に着くのを見届けたら戻ってこい。俺はこれから隠裏世に入るが、お前なら探せるだろう?」

「もち……って、えぇ?! どうしてまた? 司一人? 危ないよう」

「……どこぞの馬鹿のおかげで、藤崎が道を逸れたらしいからな」

「ちょっとちょっと、ちょーっと! 先程から一体何の話をしているんですの? ちゃんと説明なさいな! それに、そこの鎧をつけたお方はどなたですの? わたくしにも分かるように説明……」

「遊び半分でこういう場所にくると、こういう事になるんだ。少しは学べよ、お嬢様?」

 ここにきて一番の皮肉を浴びせると、氷室は言葉に詰まり沈黙した。その間に司は後輩たちにお守り代わりのお札を持たせ、さつきと共に帰路へ送り出す。背中が見えなくなるまで見送ると、ポケットから小さな鈴を取り出した。

 紅白の紐がストラップの様につけられた、少しくすんだ金色の鈴。ストラップの輪の部分を中指に通して鈴を握り込むと、司は氷室を振り返った。

「……お前は、ついて来るつもりなんだろう?」

「とっ、当然ですわ! ですが慧羽月司。いい加減説明というものを……」

「命が惜しいなら、俺を見失わないようにするんだな」

 冷たく言い放ち、何の前触れもなく駆け出す。後方から氷室の叫び声と必死に駆けてくる足音が聞こえたが、振り返らなかった。

 鈴を握った拳を緩く開き、走る振動を利用して鈴を鳴らす。鈴はコロン、コロンと、低く固く、だが耳に心地よい音色を奏でた。

「……稲荷様」

『お? もしや司か? 珍しいのう。どうかしたんかの?』

 風に吹き流されそうな呟きに答えるように、司の耳元で甘く、しかし威厳のある声が聞こえてくる。

「悪いが、道を“逸らして”欲しい。隠裏世に後輩が迷い込んだ」

『ふむ。あい分かった。しかし、どうしたんじゃ? 随分苛立っとるではないか』

 司としては普段通りに話したつもりだったが、見事に感情を見抜かれてしまう。

「……我儘なお嬢様に振り回された上、そのツケが全く関係ない奴に回れば苛立ちもする」

『ふむふむぅ。成程。さては隠裏世に飛ばされたのは、司が気にしとる|女子《おなご》じゃな?』

 口端をにやりとつり上げて笑う稲荷様の顔が見えてしまった気がして、司は思わず走りながらも咳き込んだ。

『先程牛丸も呼んどったではないか。お前さんが、誰かが道を逸れたくらいで苛立ったりするとも思えんからの。これはよほどの事が……』

「あまり余計な事を言うと、次の飯当番でいなりに唐辛子を混ぜるぞ」

『わしにそんな悪戯をしようなど百年早いのじゃ。実行しようもんならお前さんが望む縁全部ぶった切ってやろうぞ』

「…………」

 口でも立場でも勝てないのは理解している司は、稲荷様の悪戯っぽい言葉を前に、口を閉ざした。

 稲荷様は、司の家――神社に祀られている神。その名の通り狐の姿を持つ女性で、慧羽月家の者は皆、彼女と連絡する為の鈴を身に着けている。司も含め家の者は『稲荷様』と呼んでいるが、稲荷様いわくちゃんと名前は持っているらしい。

 教えて貰った事はないし、知りたいと思った事もないのだが。

『さて。準備が出来たぞ。お前さんの後ろをついて来とるのはどうするのじゃ?』

「負担で無ければ一緒に逸らしてくれ」

『良いのか? あやつら耐性ないぞ』

「…………」

『あーはいはい。成程のぅ。元凶はあやつらじゃったか』

 心の内を全て見透かされても、司は動じない。稲荷様の見立ては正しいし、わざわざ口にするのも嫌になるくらい腹が立っていたのだ。

『おかしいと思うたのじゃ。お前さんが興味本位でこんな場所に来るはずないからのぅ。合点がいったわい』

 稲荷様ののんびりとした物言いと同時に、がくんと司の体に負担が掛かった。

 空気が変わったのだ。

「…………」

 司は歩を緩めると、ゆっくりとその場に立ち止まり、辺りを見回した。

 一見、先程までいた森と変わらないように見える。だが、空気があの森の数倍は重い。黒い空気が体に纏わりつくようで、呼吸が辛くなる。

 コロン……コロン……。手に持つ鈴を振ると、司の周りで空気が軽くなった。

「こっちを……本拠地にしているようだな」

『そのようじゃのぅ。気を付けるんじゃぞ、司。ここは表も相当厄介な場所じゃが、裏は比較にならんほど危険じゃからのぅ』

「分かっている」

 いつも通りの声音で答え、司は背後を振り返った。

「先程から一体何なのです? いい加減説明して頂きますわよ!」

 肩で呼吸を繰り返し、怒り心頭の氷室が近付いて来る。ボディーガード達の姿が見えない。稲荷様は彼女たちも全員“逸らして”いるはずだから、単純に遅れているのだろう。

 平然と歩み寄って来る氷室と、追いつけないボディーガード達。その違い。

「……お前、この状況でも平気なんだな」

「何の話ですの? 別に霊が見つかった訳でもありませんし、森が暗かろうと大して怖くありませんわ」

「俺が言っているのはそう言う意味じゃない」

 そう言って、司は氷室の後方を指し示した。彼女は首を傾げながらも後ろを振り返る。

 体を折り曲げるようにしてのろのろと近付くる影は、ボディーガード達だ。皆総じて顔色が悪く、胸元や膝を押さえながらもかろうじて足を動かしている。

「だらしないですわよ! この程度の運動でへばってしまわれるなんて我が家の」

「あいつらは運動で疲れたんじゃなく、この森の気に当てられてるんだ」

「……はい?」

 ぽかんとして司を振り返る氷室。空気は重く、近くに怨霊の気配もする。普通の人間なら恐怖で動けないところだ。その中で平然としていられる氷室はある意味大物だと、司は思った。

 彼女はどこまで見えないのだろうか。そんな好奇が少しだけ芽生えながら、司は本来の目的を達する為、踵を返して歩き出す。





 03 咲



「やだっ! やだっ! 来ないでよっ! 来ないでっ!」

 足が動かなくて尻餅をついちゃった私は、迫りくる黒い影を前に、両腕で顔を覆う事でしか身を守れない状況に陥っていた。あまりの恐怖に涙目だし、動けないから自分がどうなっちゃうのかも分からなくて前も見れないし。状況としては最悪だ。

 でも。

「…………?」

 いつまで経っても、体に変化がない。不思議に思って恐る恐る腕を退けてみると、すぐそばまで近付いて来ていたはずの黒い影たちが、何となく距離を置いている。

 とは言え、いなくなった訳ではない。現に、影の一つがまた近付いて来る。

「だからっ! 来ないでってばぁ!」

 後ろに下がりたくても足は動かず。振り返ってみればそこにも影がいるで、私は半ばパニックに陥りながら叫んだ。

「にゃっ!」

「へ?」

 近付いて来る影に向かって、小さな黒い影が飛び掛かる。小さな影は大きな影に向かって腕を振りおろし、銀色の筋と共に大きな影が戦いて下がった。

 柔軟な動きで音もなく地面に着地したのは、黒猫。

「え……に、にぼし?」

 私の声に反応して、猫は頭だけ振り返る。あの大きな金色の瞳と、短すぎる尻尾は間違いない。にぼしだ。いつの間について来たのかしら?

 それに、もしかしなくても、にぼしが助けてくれたの?

「にゃん!」

 にぼしは私の傍に寄って来ると、くるりと踵を返してどこかへ行く素振りを繰り返した。『逃げろ』って言ってるように見えなくもない。けど。

「そんな事言われても、足が地面に張り付いちゃったみたいに動かないのよ」

 泣きそうな声で訴えると、にぼしはぴくりと顔を上げて、足早に私の元に戻ってきた。そして、柔らかな体を私の足に擦り付けてくる。

「にゃっ」

「え? あ……」

 まるで鍵を外したみたいに、私の両足は自由になっていた。やっぱり、にぼしってただの猫じゃ……ない?

「にゃっ、にゃっ!」

 再び『逃げろ』の動作を繰り返すにぼし。私は立ち上がると、鞄を胸に抱えてにぼしの後を追った。黒い影たちの隙間を縫って、森の中を走り出す。

「にぼしっ、あなた一体……?」

「にゃっ!」

 訊ねる暇もなく、にぼしは急に立ち止った。私も慌てて歩を止める。

「って! 全然逃げれてない?!」

 さっきまでと似たような距離感で、私たちを囲う黒い影。

「にゃっ、にゃっ!」

 にぼしは私に向けてしきりと首を振っている。どうやら違うみたいなんだけど、どう違うかが分からない。動作だけじゃ、細かいニュアンスって伝わらないのよね……。

「……にぼし、喋れれば良かったのにね……」

 思わず、本音が口をついて出る。ジェスチャーで取れるコミュニケーションには、かなり限界があると感じざるを得ない。もしにぼしが普通の猫じゃないなら、人の言葉も喋れるのなら、この場を切り抜ける策を聞けるかも知れないのに。

「にゃっ! にゃっ! ……にゃから、逃げれてないんじゃなくて追いつかれるのが早いんすよ! もっと奴らを巻いて行かないと……って、喋れた!!」

「えええ!? にぼし、あんた喋れるの?」

「にぼしじゃないっすよ、お嬢っ。自分黒霧って言います! 黒い霧で黒霧っす。いやー助かりました。やっぱ自分の見立て通り、お嬢はいい勘をしていらっしゃる!」

 って、にぼし……じゃなかった、くろぎり? ものすんごく軽いキャラだったのね。この状況なのに、いや、この状況だからこそ、何か和むわ。

「いや、今はそんな事言ってる場合じゃないっすね。さっさと逃げましょう。こんな体じゃなきゃもう少しマトモにお嬢を守れるんすが……自分を見抜いたお嬢です、誰か妖怪に知り合いいませんかね?」

 見抜いた? 私、何か見抜いたっけ? いや、今それはさておき……。

 妖怪に知り合い?

「物の怪になら、何人か……」

 って、この返答普通じゃ有り得ないわね。まぁいいか。今は普通の状態じゃないわ。

「同じっすよ、お嬢! 自分も言い方悪かったっすけど、この状況でテンパってますね?」

 ううう、そうかも。いや、この状況でテンパらない方がおかしいと思うんだけども。大体、ここがどこでこの黒い影だか霧だかが何なのかも、私は分かってない。事態が全然飲み込めてないんだから仕方ないじゃないの。

「その知り合い、誰でも良いんで呼べないっすかね? お嬢は自分の恩人っすから、ちゃんと生き延びて欲しいんすよ!」

「呼べるとしても一人だけだし、大体、こんな訳の分からない場所まで来れるかどうか……」

「ここは人の社会から見ると“裏道”っす。自分ら妖物にとっての縄張りみたいなもんっす。だから、妖物なら間違いなく来れるっす」

「そう、なの? じゃあ……」

 黒霧の言葉に半ば押されつつも、私は唯一呼べる名前を口にしようとして。

「きゃっ!」

「失礼しますっす!」

 黒霧にジャンプ台にされて、ちょっとよろめいた。でも、叱る事は出来ない。何故なら、黒霧は私の背後にいる影を攻撃して、守ってくれてるからだ。

「ちょっち離れましょう! こっちっす!」

 再び駆け出した黒霧の後を追って、私も必死に走り出す。

「ううう……市松さん……」

 その間に縋る思いで名前を口にしたけど、いっつも思うんだけど、こんなんで聞こえるのかな……?

 市松さんって、私が前に近所で拾った市松人形の物の怪。本当の名前は“唐子松”。器が女の子で中身が男性で、困った時の“捨てられそうな子犬顔”が可愛くて、でもいざという時すごく頼りになる。

 市松さんって呼び名は、私が無自覚の時に付けてしまった、妖物の間では“名付け”と呼ばれるものらしい。これのおかげで、市松さんは離れてても何となく私の居場所とかが分かるそうだ。

 でも、今日は部活に行くとしか言ってないし。しかも黒霧が言う“裏道”ってとこに入っちゃってるらしいし。(つまり”隠裏世”って事かな?)ホントにホントに大丈夫かな?

「お嬢っ!」

 唐突に呼び止められて、私は慌てて足を止めた。黒い影の回りこむ速度が速すぎて、危うく自分から突っ込むところだ。

「もうやだあっ! なんなのこいつらっ」

「こいつら怨霊っす! この辺りに蔓延ってるのは特に性質が悪くて、知ってる奴らは殆ど近付かないほど凶悪なやつっす」

 それってきっと、黒霧たちが言う“人の社会”のあの森が、自殺の名所になってるのと何らかの関係があるのよね……。

「話には聞いてやしたが、ホントしつこいっす! これじゃ逃げても逃げても意味がないっす!」

 言いながら、黒霧は身軽に跳び上がると迫ってくる怨霊を引っ掻いた。本人の言う通り、体が体なせいか、引っ掻いたくらいじゃ相手には大してダメージが入らないみたい。一度下がるけど、暫くするとまた迫ってくる。

「ヤバイっす。このままだととり込まれるっす!」

「とり込まれたら、どうなるの?」

「考えない方が良いっす!」

 考えられないのも怖いわよ!

 怨霊たちに完全に囲まれ、しかもじりじりとその輪を縮められる。近付かれるたびに、寿命が縮んでいく感覚……。

「もう……もう、来ないでよぉ……」

 鞄をぎゅっと抱き締めて、私は立っていられなくなってぺたりと座り込んだ。空気は重いし怨霊の重圧は酷いし、苦しいし怖いしで、そろそろ本気で泣きそう。

 黒霧が背中の毛を逆立てて唸ってるけど、威嚇くらいにしかなってない。

「いちまつさん……」

 呟く声が、涙声通り越して泣いていた。

 だから、怖いのは嫌いだって言ってるのよ……。

「にゃおーん!」

 黒霧の遠吠えのような鳴き声と共に、怨霊が銀色の太刀筋に吹き飛ばされていく。

「……ほえ?」

 状況が掴めずにぼーっとしている間に、私たちを囲っていた怨霊たちがひとつ残らず切り刻まれ、霧のように霧散していく。

 そうして、私の目の前に降り立ったのは、大きな赤い影。

 その姿を見た瞬間、私は反射的に動いていた。

「咲? どうしてこんな場所に……って、うぉ!?」

 さすが市松さん。私がいきなり飛びついても、ちゃんと受け止めてくれた(そのまま尻餅つかせちゃったけど)。薙刀を持っているのに、咄嗟に私から離すのも、さすがだ。

 でももう、私はその辺り全部どうでもよくって、しばらく何も言えないまま、市松さんに顔を埋めて泣いていた。私の状態を悟ってくれたのか、市松さんは黙ったまま、空いた手で私の頭を撫でてくれていた。

「お嬢は悪くないっす。集まりに突然乱入してきた女が、お嬢たちを無理矢理連れて来たんすよ」

「……誰だ?」

「自分、黒霧言います。黒い霧で黒霧っす。ちょっとポカやってこの姿にされた上段ボールに拘束されちまったんすが、お嬢のお蔭で喋れるところまで回復致しまして。恩返しさせて貰ってる最中でございやす」

 私が殆ど本能的に泣いてる間、市松さんと黒霧は情報交換をしていた。黒霧が説明してくれたおかげで、私が泣くのを止められるくらい回復した頃には、市松さんも状況を把握してくれたみたいだ。

「落ち着いたか?」

「うん……ありがと」

 私が顔を上げたのに気付いて、市松さんが優しく声を掛けてくれる。

 赤い振袖に黒くて真っ直ぐな長い髪。中性的な面立ちで、優しい笑顔を浮かべている。市松さんはまだ頭を撫でてくれてて、それが余計に私を安心させてくれた。

 いつも以上に優しくしてくれるのは、私が怖がりなの知ってるからなのよね。

「落ち着いた所で悪いが、まだ少し怖い思いをさせるかも知れん」

「……え」

 申し訳なさそうに言ってくれたけど、あんまり慰めにはならなかった。市松さんが来てくれて安心材料が増えたとはいえ、それで怖い思いをしても平気かと問われたら、絶対に首を横に振る。振りまくる。

「旦那に非があるんじゃないっすよ。この辺りは怨霊が酷いんす。だから表に戻ろうと思うなら、完全にこの地帯から抜け出すか、大元を叩いて場を落ち着かせないとどうにもならないんす。無理矢理戻るのは危険なんすよ」

 つまり、逃げて逃げて怨霊地帯を抜けるか、追って追って大本を断つかしないと、家に帰れないって事ね……。

「後者は俺達だけでは少々心許ない。いかんせん、この辺りの怨霊は活動が活発でな。倒しきれぬかもしれん。勿論、大量の奴らを振り切って逃げられる保証があるかと言えば微妙なところだ。どちらも成功率が高いとは言えぬ。それでも、より確実な方を選ぶしかない」

「うん……」

「お嬢、旦那、おいでなすったっす。そろそろ動いた方がよさそうっす」

 黒霧の言う通り、私たちの周りに再び、怨霊たちが近付いて来ていた。一度市松さんに殲滅させられてたから、次が来るのが遅れたのね、きっと。

 でも、それで喜んでいる場合じゃない。市松さんだって力に限度はあるだろうし、黒霧に至っては殆ど力を発揮できていない。かくいう私は何も出来ない。この面子で、怨霊だらけのこの森から抜け出さなくちゃならないんだ。

「咲、走れるか?」

「……頑張る」

 私は市松さんに手を引かれて立ち上がった。恐怖で震える体を、鞄を押し付ける事によって抑えようと試みる。

「俺が先を行く。黒霧、お前は後ろを見てくれ」

「了解っす!」

 黒霧の威勢の良い返事とほぼ同時に、私たちは走り始めた。

 さっきからそうだけど、怨霊たちは足(?)が速い。あっという間に回りこまれてしまう。そこを道を開くように最低限の数を市松さんが捌いて、黒霧は私の後ろを掛けながら後続の敵の位置を知らせる。私は、二人の負担にならないように、ただただ走る。

 ただ、問題があって。

 ここんとこ何かと走る機会があったけど、元々私はそんなにアウトドア派ではない。つまり、体力はそんなに豊富なほうじゃない。

 しかも、肝試しにと引っ張り出されてから、結構森を歩いた後に、今度は怨霊から逃れるためにそれなりに走っている。しかも、泣くのにも結構体力を使う。

 ちょっと、限界が近い。だからと言って、そんな事で泣き言を言っている場合でもないのは分かってる。怨霊が休む暇なんかくれる訳ないし。

 まぁ、色々言い訳を言っているけど、要するに、私は正直な話、結構疲れていた。人間、命に危険が迫ると普段からは考えられないような力が出るって言うけど、確かにそんな感じで、気力だけで走っていた所はあるんだけど。

 ……障害物には勝てなかった。

「きゃっ!」

 森の中は地面が柔らかくて、私はそこに足を取られてすっ転んでしまった。黒霧が声を上げて、市松さんが戻ってくる気配があって、私が正確に状況を把握出来たのはそこまでで。

「咲っ!!」

「あわわわわっ、来るなっす! お嬢に手出しするんじゃないっす!」

 二人の声で、私の傍に怨霊が来ているのが分かって、私は慌てて起き上がろうとしたんだけど、土に引っかかったつま先が上手く抜けなくて焦ったら、余計訳が分からない状態になって。

「ううっ、抜けてよ、抜けろっ!」

 体を捻じって自分の足を掴もうとした時、私の上に何かが覆いかぶさった。

「――――っ!」

 それは赤い色をしていて。

 直後に何か衝撃みたいのが来て。

 それで。

「にゃおーん!!」

 黒霧の遠吠えが少し遠くで聞こえて、その後、ちょっとだけ静かになった森の中で。

 私を守ろうと覆い被さってくれた市松さんが。

「いちまつ……さん?」

 私の呼び掛けにも無反応なまま、ぐったりと体を横たえていた。



03へ続く。

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