■マサ小浜とイグザヴィア~太平洋をまたぐ2人のソウル・メイトのクロスロード~(パート1) | 吉岡正晴のソウル・サーチン

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■マサ小浜が全編ギターのブルーズ・アルバム、ファンタスティック・ネグリット、ビルボード・ブルーズ・チャートで4位に

【Fantastic Negrito Album Featuring Masa Kohama Is #4 On Billboard Blues Album Chart】

ヒット。

2016年6月24日付けのブログで最後に紹介したマサ小浜(マサ小浜・スペシャル、7月10日に開催)が全編でギターを弾いているコンテンポラリー・ブルーズ・アーティスト、ファンタスティック・ネグリットの2016年6月リリースの新作『ザ・ラスト・デイズ・オブ・オークランド』が最近のビルボード・ブルーズ・アルバム・チャート(2016年6月25日付け)で4位を記録した。ちなみに、1位はエリック・クラプトン。このアルバムが実に素晴らしい出来なので、ソウル・サーチン・ブログとしては強力にプッシュしたい。

マサ小浜スペシャル第18回~7月10日に~「レジェンド・スペシャル」
2016年06月24日(金)
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12173593901.html

そのアルバムがこれ。

The Last Days of Oakland [Explicit]
Believe Global Label Services (2016-06-03)


デジタル版。

The Last Days of Oakland
The Last Days of Oakland
posted with amazlet at 16.06.22
Fantastic Negrito
Blackball Universe (2016-06-03)
売り上げランキング: 81,539


どんな曲調か、こちらのサウンドクラウドにアップされているので、まずお聴きいただきたい。

https://soundcloud.com/fantastic-negrito

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■マサ小浜とイグザヴィア~太平洋をまたぐ2人のソウル・メイトのクロスロード(パート1)

このファンタスティック・ネグリットの人生がまた激動で、まさに「ソウル・サーチン」の連続。すばらしいので、2回にわたってご紹介しよう。

オークランド。

ファンタスティック・ネグリットは、現在のアーティスト名。本名は、Xavier Dphrepaulezz (イグザヴィア・ディーフレッパレーズと発音)。モスリムの家族にアメリカ東部マサチューセッツ州で15人兄弟の8番目として生まれた。誕生日は1968年1月20日。(2019年5月25日追記=その後の取材で1968年がわかった) 父親はカリブ海のソマリア出身で、オックスフォードで学び、大変厳格で、信心深かった。父は、ソマリア初の国連大使でもあり、マサチューセッツではレストランも営んでいた。父親は趣味でアフリカの楽器をプレイする一方、家ではアーサー・フィドラーを流し、子供たちはその他の音楽は聴かせてもらえなかった。

アーサー・フィドラーとはマサチューセッツ州ボストン生まれのクラシック・ヴァイオリニストでボストン交響楽団の指揮者でもあった世界的に有名な人物だ。

しかし、イグザヴィアはラジオで流行りの音楽に接するようになった。イグザヴィアは12歳のとき(1980年頃)にカリフォルニア州オークランドに移住、そして、厳格な父親と対立し家出。生活費も稼げなかったのでストリートでホームレスとなったり、孤児院で生活した。オークランドと言えば、ブラックが多い土地で、音楽的にはスライ&ファミリー・ストーンをはじめとする「ベイ・エリア・ファンク」「オークランド・ファンク」の地。タワー・オブ・パワーなどもこの地出身の人気グループだ。彼は同地のファンキーなR&Bに接し、すっかり虜になっていく。

ちょうど音楽シーンではその時期、ヒップホップが大きくなり始め、またパンクも盛り上がり始めていた。

幼い頃から音楽に親しんでいたが、楽器に夢中になるのは、18歳頃から。(1986年頃) なんと、きちんとした身なりをして、UCバークリー(大学)の練習ルームに無許可で入り、ピアノを勝手に練習。さらに、ドラムス、スライド・ギターなどを見よう見まね、独学でプレイするようになっていた。1980年に出ていたプリンスのアルバム『ダーティー・マインド』などは、ロックとR&Bが融合していてお気に入りだった。20歳頃(1988年頃)になるまでに、あらゆる楽器をプレイできるようになり、デモテープ作りにいそしんだ。

しかし、オークランドはブラックの多い街で音楽的にも豊かだったが、かなり、危ない連中とのつきあいもあった。銃の密売などもやっていたが、あるとき銃を持った強盗に襲われ、一命はとりとめたものの、そんな人生が嫌になり、その翌日にはロスアンジェルスへ。

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LA。

そこで、彼はなんとか音楽で身を立てようと考え、自分のデモテープを聴いてくれる人を探し続けた。クラブに出入りしたり、スタジオにアポなしで訪れたり、音楽シーンと接点を持とうと懸命だった。その頃知り合ったのが、当時14歳だったロビン・シックや、ウィル・アイ・アム、ジェイミー・フォックスらだった。ロビンが14歳ということは、1991年頃とみられる。そんな中で、彼は敏腕マネージャー、ジョー・ラファーロとひょんなことで知り合う。ちなみに、ジョー・ラファーロとは、ロバート・キャヴァロ、スティーヴン・ファグノリとのトリオで、プリンス、アース・ウィンド&ファイアーなどをマネージするアメリカ・エンタテインメント界の有力な人物だった。ジョーがゴルフをしていたコースに出向き、強引にデモテープを手渡し、それが功を奏し、彼がマネージすることになった。

彼らはイグザヴィアに、プリンスのような才能を認め、あちこちに売り込み、結局、そのつてでなんと、2パックやドクター・ドレで人気急上昇中の新進気鋭レーベル、インタースコープ・レコードと契約。アーティスト、Xavier(ザヴィエール=あるいは、英語発音はイグザヴィア。日本での表記はザビエル)として華々しくデビュー。ネオ・ソウル、プリンス風のシンガー・ソングライターとして、アルバム『Xファクター』でデビュー。1995年のことだった。(なお、1982年に小ヒットを放った、コネチカット州出身のグループにイグザヴィアと同名のグループがいるが、これはまったく関係ない)

そのアルバムからの「ジェントル・スクリーマー」。PファンクのようなプリンスのようなオルタナティヴなR&Bだ。

Xavier - Gentle Screamer - The X Factor

https://www.youtube.com/watch?v=GPkhuPakxT0


ホームレスから、強力なマネージメント会社、メジャー・レコード会社との契約。イグザヴィアの人生は、一転して華やかなものになり始めた。

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出会い。

一方、日本からLAに出向いて音楽業界での成功を夢見ていた一人の男、マサ小浜はかつてイグザヴィアがやっていたように、LAのクラブやライヴハウスなどに出入りするようになっていた。そんな中で、マサとイグザヴィアは1993年に知り合い、意気投合。すぐにいろいろなプロジェクトを一緒にやるようになった。彼らは、「Me & This Jap」「This Japanese Guy」「Chocolate Butterfly」「Bloodsuga」などのユニットでかなり一緒にやったという。「ミー・アンド・ディス・ジャップ」あるいは「ディス・ジャパニーズ・ガイ」は、なんとこのイグザヴィアとマサ小浜のデュエットだった。「ブラッドシュガ」はディアンジェロが気に入ってよく見に来たり、「ディス・ジャパニーズ・ガイ」はエリック・ベネイがよく見に来たという。

マサ小浜は、イグザヴィア関連の作品ではほとんどすべてでギターをプレイしていた。また、当時のバックコーラスには、イディナ・メンゼルもいた。あの「レット・イット・ゴー」でその後大ブレイクするシンガーだ。

イグザヴィアは、フュージーズ、アレステッド・デヴェロップメント、デラ・ソウルらとツアーも敢行、かなりプロモーションされたが、残念ながらそれほどの大ヒットには至らなかった。インタースコープではラップ、ヒップホップの方向性を模索していたが、ラップは本人のやりたい方向ではなかったようだ。この時期は経済的にもかなり恵まれるようになったが、クリエイティヴの面ではかなりストレスが溜まったようだ。彼自身は、「レコード会社との契約が、すべてをダメにしてしまった。僕はビジネス面のことは、まったくわからなかった」と述懐している。

Xavier – Cinnamon Girl (イグザヴィアのオリジナル)

https://www.youtube.com/watch?v=GPkhuPakxT0



メジャーからデビューしたイグザヴィアだったが、大ヒット、大ブレイクには至らず、LAのクラブ・シーンで地道に小さなライヴを続けた。しかし、そんな彼に思いもよらぬ出来事が起こる。


(イグザヴィア物語、マサ小浜とイグザヴィア~太平洋をまたぐ2人のソウル・メイトのクロスロード~パート2へ続く)

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