■フィラデルフィア・サウンド(TSOP)ストーリー (パート1) | 吉岡正晴のソウル・サーチン

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■フィラデルフィア・サウンド(TSOP)ストーリー (パート1)

【Roundup For The Sound Of Philadelphia】

TSOP。

今週は、月曜深夜からJFN系全国ネットの『ビッグ・スペシャル』(深夜1時~4時。関東地区は東京FM、全国30局以上ネット)でフィラデルフィア・ソウル特集をお送りします。そこで、この「ソウル・サーチン・ブログ」でも番組と連動して、「フィラデルフィア・ソウル」について、月曜から金曜までまとめてご紹介します。

まず、今日は「フィラデルフィア・ソウル」の全体像をご紹介します。

ACT 1 : フィラデルフィア・ソウル前夜

まず、いわゆる「フィラデルフィア・サウンド」「フィラデルフィア・ソウル」「フィリー・ソウル」というと、1960年代後期から1970年代にかけてのフィラデルフィアで録音されたソウル・ミュージックを指します。具体的には、デルフォニックス、スタイリスティックス、イントゥルーダーズ、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツなどのサウンドです。「ザ・サウンド・オブ・フィラデルフィアThe Sound Of Philadelphia」は、その頭文字を取って、「TSOP」とも略されます。

特徴は、踊り易いグルーヴのわかりやすいリズムと、流麗なストリングス、ブラス・セクションが入ったリッチなオーケストレーションのサウンドにソウルフルで迫力のあるソウル・ヴォーカルがからみます。たとえば、南部のソウル・ミュージックが泥臭いと言うのであれば、フィラデルフィア・サウンドはひじょうに都会的に洗練されたものです。

また、独特のドラムスによるグルーヴ、のりのあるリズムの強いサウンドは、70年代中期から大きなブームとなる「ディスコ・サウンド」の元にもなり、さらにその後の「ハウス・ミュージック」の原形にもなっていきます。

これらの「フィラデルフィア・ソウル」略して「フィリー・ソウル」の立役者となったのが、トム・ベル、ケニー・ギャンブル&レオン・ハフの3人です。彼らはフィラデルフィアで多くの若手アーティストをてがけ、スターにしていきます。

そんな彼らが活躍を始めるのは1960年代後期からですが、そうした「フィラデルフィア・ソウル」隆盛の前夜とも言うべき時代があります。それが1950年代から1960年代初期までの間、このフィラデルフィアという土地が、「音楽都市」として大きな注目を集めることになったのです。

その大きな要因が、テレビ音楽番組『アメリカン・バンドスタンド』です。これは、そのときのヒット曲をかけ、一般試聴者がそれにあわせて踊るところを見せる、というシンプルな番組です。これが、1952年9月から始まり、1989年9月まで続くことになります。この収録スタジオがフィラデルフィアにあり、当初はローカル番組でしたが、1957年10月から全米にネットワークされることになり、これを機に番組の人気が一挙に爆発します。多くのアーティストが出演するために、フィラデルフィアにやってきました。また、ロックンロールの登場とともに大変人気が高くなりますが、当然地元フィラデルフィア出身のアーティストは、こぞってこの番組に出ようとしたので、街自体が音楽で盛り上がり始めました。後に1970年代に登場する『ソウル・トレイン』のプロトタイプとなったのが、この『アメリカン・バンドスタンド』です。

この番組からは、多くのヒットが生まれましたが、その多くは白人のヒットでした。また、フィラデルフィアにも多くのインディ・レーベルが生まれました。キャメオ/パークウェイ、ジェイミー・ガイデン、フィラ・オブ・ソウルなどなどです。

そんなインディ・レーベルのキャメオ/パークウェイから、チャビー・チェッカーという黒人シンガーの「ツイスト」という曲がヒットします。これは、当時ヒットしていた「ツイスト」というダンスについて歌ったもので、その「ツイスト」用の曲として1960年8月から大ヒット、全米ナンバー1を記録しました。

これは、70年代のいわゆる「フィラデルフィア・ソウル」のジャンルには入りませんが、「フィラデルフィア・ソウル」の前夜の動きとして、頭の片隅にいれておいてもよいでしょう。

このキャメオ/パークウェイからは、女性R&B歌手のディー・ディー・シャープの「マッシュポテト・タイム」という曲が1962年に大ヒット(ソウル・チャート1位、ポップ・チャート2位)します。これも「マッシュポテト」という当時流行ったダンスをテーマにした曲です。このディー・ディー・シャープは、後にフィリー・ソウルの立役者となるケニー・ギャンブル夫人となります。いずれも『アメリカン・バンドスタンド』から出た数少ない黒人によるヒットです。

またフィラデルフィアは、南部からの黒人が多く移り住んでいたために、黒人人口比率が高く、そのためゴスペル音楽も盛んで多くのゴスペル・シンガーがいました。これも、ソウル・ミュージックが盛んになる大きな下地となっていました。

ACT 2 : トム・ベル、ギャンブル&ハフの登場

トム・ベルについては明日、ギャンブル&ハフについてはあさってのこのブログで詳しくご紹介しますが、この3人がフィラデルフィア・ソウルのシーンを引っ張っていくことになります。

トム・ベルは前述のチャビー・チェッカーのツアー用バンドの音楽ディレクター(コンダクター)の仕事を得て、フィラデルフィアの音楽シーンで頭角を現し始め、ギャンブル&ハフも同じようにフィラデルフィアでバンド活動を始めるうちに力を見せ始めます。

ギャンブル&ハフは1966年、イントゥルーダーズのヒットを出し、ジェリー・バトラーなどのプロデュースをしたり、トム・ベルは1968年、デルフォニックスの「ラ・ラ・ミーンズ・アイ・ラヴ・ユー」でヒットを出し、それぞれヒット・プロデューサー、注目のプロデューサーになっていきます。単発的には、クリフ・ノーブルスのインスト・ヒット「ホース」(1968年6月からヒット、ソウル、ポップで2位)、ファンタスティック・ジョニーCの「ブーガルー・ダウン・ブロードウェイ」(1967年10月からヒット、ソウルで5位、ポップで7位)(いずれも、フィラオブ・ソウル・レーベルからのヒット)、エディー・ホールマンの「ヘイ・ゼア・ロンリー・ガール」(1969年12月からヒット、ソウルで4位、ポップで2位、ゴールド・ディスク)などが出て、徐々にソウル・ヒットを生み出すフィラデルフィアという雰囲気が盛り上がり始めます。

そんな中、「フィラデルフィア・ソウル」の歴史の中で、大きなターニング・ポイントが訪れます。

1971年、当時メジャー・レコード会社のCBSコロンビアのヘッド、クライヴ・デイヴィスが、ブラック・ミュージックの販売に力をいれようと、ギャンブル&ハフに資金を提供し、彼らにフィリー・ソウルのレコード会社「フィラデルフィア・インターナショナル・レコード」の設立を促すのです。

クライヴ・デイヴィスはCBSですでにスライ&ファミリー・ストーンなどの新しいブラック・ミュージックを売り出すことを成功させていました。また、モータウン・レコードやスタックス・レコードの隆盛、フィラデルフィアからぽつぽつ出てきたヒットなどを見て、ソウル・ミュージックに大きな流れが来ていることを感じ取って、ギャンブル&ハフに注目していたのです。

それまで、フィラデルフィアから出てくるソウル・ヒットは、あくまで一ローカル・ヒットがたまたま全国的になるという「単発的」なものでした。ローカルのインディ・レーベルもたくさんありましたが、ローカルでの群雄割拠の様相を呈しており、全国的なうねりにはなっていませんでした。

そこにCBSの大きな資金と、全国的な販売ネットワークが備わることによって、大きなヒットが生まれる可能性がでてきました。

ギャンブル&ハフたちは、豊富な資金をバックに、自分たちが作りたい音楽を積極的に作り出すようになりました。

ACT 3 : シグマ・サウンド・スタジオとフィリーのミュージシャンたち

そんなギャンブル&ハフ、トム・ベルらが積極的に使ったスタジオが、「シグマ・サウンド・スタジオ」です。212ノース・12ス・ストリートにあるスタジオ。1968年、当地のカメオ/パークウェイのチーフ・エンジニアだったジョー・ターシャがそれまでにあったスタジオを買い取り、手作りでいろいろ揃えていったスタジオですが、ここから多くのヒットが生まれるようになります。このスタジオは全米で2番目に「24チャンネル」のマルチ・トラック・レコーダーをいれたスタジオとなりました。フィリー・ソウルの独特のサウンドがこの名エンジニア、ジョー・ターシャの手によるものという点は特筆すべきでしょう。

このシグマ・スタジオを根城にしたミュージシャンたちは多数います。

アール・ヤング(ドラムス)、ノーマン・ハリス(ギター)、ローランド・チェンバース(ギター)、ボビー・イーライ(ギター)、TJティンドール(ギター)、ロニー・ベイカー(ベース)、ヴィンス・モンタナ(ヴァイヴ)、ラリー・ワシントン(パーカッション)、ボブ・バビット(ベース)、レニー・ペキューラ(キーボード)などなど。この他にストリングス・セクション、ブラス・セクション、またアレンジャーが多数います。アレンジャーとしては、ボビー・マーティン、ジャック・フェイス、トニー・ベル、ギャンブル&ハフ、リチャード・ローム、ジョン・デイヴィス、マクファーデン&ホワイトヘッドなどなど。

こうしたミュージシャンたちを、ギャンブル&ハフたちがシンガーのバックバンドとして起用するときに、「MFSB」と名付けるようになりました。しかし、各メンバーはそれぞれフリーのミュージシャンたちですので、ギャンブル&ハフ以外のバンド・マスター、ディレクター、あるいはプロデューサーがそうしたミュージシャンたちを起用することもできます。

そこでヴァイヴ奏者であるヴィンス・モンタナが仕切ってレコーディングするときは、同じメンバーで同じようなサウンドになっても、それは「ヴィンス・モンタナ・オーケストラ」あるいは、「サルソウル・オーケストラ」となったり、ジョン・デイヴィスがやれば「ジョン・デイヴィス&モンスター・オーケストラ」になったり、リチャード・ロームが指揮をすれば「リッチー・ファミリー」となったりします。

いずれにせよ、フィラデルフィアのシグマ・スタジオにはすぐれたミュージシャンが集まっていたので、誰を使ってもクオリティの高い作品が作れました。

ギャンブル&ハフが、当初目指したのが、60年代に多くのヒットを生み出していたモータウンのやり方です。たくさんのすぐれたソングライター、アレンジャー、プロデューサーを揃え、ハウス・バンドを使って次々とレコーディングし、ヒット曲を量産していく方法です。

このシグマ・スタジオは、モータウンの本社スタジオ、MFSBたちミュージシャンたちは、モータウンにおけるファンク・ブラザーズたち、ギャンブル&ハフ、トム・ベルらが、モータウンのベリー・ゴーディーに相当する司令塔という役割です。

ギャンブル&ハフの周辺、その元からも次第に新しい世代が育っていきます。それが、バニー・シグラー、ボビー・マーティン、ベイカー・ハリス・ヤングのトリオ、マクファーデン&ホワイトヘッド、デクスター・ワンゼルなどなどです。

ACT 4 : ヒットに継ぐヒット

1972年頃から、トム・ベルはスタイリスティックスで次々とヒットを出し、さらに、スピナーズでもヒットを量産します。ギャンブル&ハフは、1971年にフィラデルフィア・インターナショナル・レコードがスタートしてから、1972年にオージェイズの「バックスタバーズ」、ビリー・ポールの「ミー&ミセス・ジョーンズ」、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツの「イフ・ユー・ドント・ノウ・ミー・バイ・ナウ(二人の絆)」などのミリオン・ヒットで、一挙に爆発。「フィラデルフィア・ソウル」がアメリカ音楽業界の中でも、もっとも注目される現象となりました。

こうして、フィラデルフィア・ソウルに注目が集まり、いわゆる白人のロック・アーティストなどもこの地を訪れ、そのサウンドを取り入れようとしました。エルトン・ジョン、デイヴィッド・ボウイなどがその例です。特にデイヴィッド・ボウイの1974年の『ヤング・アメリカン』、エルトン・ジョンの『トム・ベル・セッション』などは、話題になりました。

フィラデルフィア・ソウルで人気のスリー・ディグリーズなどは、日本でも大きな人気を獲得、日本語の楽曲などもレコーディングしました。これらのフィリー・ソウルの大ブームを受けて、日本の歌謡曲界でも、このフィリー・ソウルの影響を受けた作品も出ました。

そんなフィラデルフィア・ソウルでも、プロデューサーによって、少しずつ色合いが違ってきます。

トム・ベルの作る作品は比較的甘いスイート・ソウルが多く、ギャンブル&ハフたちはもう少し硬派の、またメッセージ色の強い作品が多くなっていきます。ギャンブル&ハフの作品群のジャケットにはいつも、「There’s a Message In The Music(音楽の中にはメッセージがあります)」というキャッチフレーズが書かれていました。ボビー・マーティンもオーケストラ・アレンジがうまく、また、それとソウルフルなヴォーカルの組み合わせが大変上手です。バニー・シグラーは、ファンキーなサウンドが得意です。

1972年から1970年代を通して、「フィラデルフィア・ソウル」は大きなブームとなります。しかし、1980年代に入ってからは、徐々にその勢いを失っていきます。ミュージシャン、アレンジャーたちの変化、アーティストたちの変化などもあり、またヒップ・ホップの登場など、時代の流れもあったのでしょう。

「フィラデルフィア・ソウル」がこれほどの隆盛を極めたのは、やはり、トム・ベル、ギャンブル&ハフという「マイティー・スリー」(三巨頭)がリーダーシップを取ってフィラデルフィア・サウンドを盛り上げていったこと、その周辺に優れたミュージシャン、シンガー、ソングライターたちが多数いたためです。

しかし、大きな流れもいつかは終わりがきます。1984年、CBSとフィラデルフィア・インターナショナル・レコードの配給契約が終了し、ひとつの時代にピリオドが打たれました。その後、フィラデルフィア・インターは、EMIが配給するようになり、2007年、再びソニーが全カタログの発売権を獲得し直しています。各国で過去カタログの再発売などの作業が続いています。

2010年2月、フィラデルフィア・インターナショナルのオフィースが放火され、幸いけが人などは出ませんでしたが、多くのマスターテープなどが消失しました。

また2011年8月、フィラデルフィア・インター設立40周年を記念して、TSOP Soul Radio というインターネット・ラジオ局を開始しています。ここでは、24時間、フィリー・ソウル・ヒットが流れています。

http://media.streamads.com/playersdk/v2/widgets/webplayer/arplayer/player.html?pid=0&sid=162536

1970年代から80年代初期に多くのヒットを放った「フィラデルフィア・ソウル」「フィラデルフィア・サウンド」は、黒人のソウル・ミュージックをもっとも美しい姿で映し出した作品群の数々です。そして、それぞれに歌のうまい情感あふれるシンガーたちが熱いソウルを歌いました。モータウンのヒットの数々も、スタックスのヒットの数々も、素晴らしいのと同様に、フィラデルフィア・ソウルのヒットの数々もその時代のブラックたちだけでなく、世界中の人々の人生のサウンドトラックとなり、賛歌となったのです。

(今週のブログは、「フィラデルフィア・サウンド」特集。明日は、トム・ベル・ストーリー、リンダ・クリード・ストーリーをお送りします。あさってはギャンブル&ハフ・ストーリーです)

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JFN系列、2011年11月14日(月)から17日(木)深夜25時~28時 『ビッグ・スペシャル』~「フィラデルフィア・ソウル大特集」をお送りします。17日(木曜)深夜は、吉岡正晴も生出演します。

『ビッグ・スペシャル~フィラデルフィア・サウンド特集』(東京FM・JFN系列全国ネット)。

関東地区は、関東のラジコで。その他の地区は各地区のラジコでも聞けます。
関東用のラジコ↓
http://radiko.jp/player/player.html#FMT

番組ホームページ。
http://www.fmsounds.co.jp/production/program_detail.php?b=1&p=62&PHPSESSID=vvnqkbcm

毎日生放送ですので、リスナーからのメール、ツイッターでのメッセージなども受け付けています。

ハッシュ・タグは、次のようなものがあります。

東京FM #tfm ビッグ・スペシャル #bigsp 

ネット局:

FM青森 , FM岩手 , FM秋田 , FM山形 , ふくしまFM , RADIO BERRY , FMぐんま , FM-NIIGATA , FM長野 , FMとやま , FM石川 , FM福井 , K-MIX , FM AICHI , Radio80 , レディオキューブ , FM滋賀 , fm osaka , Kiss-FM KOBE , V-air , FM岡山 , HFM , FM山口 , FM徳島 , FM愛媛 , FM高知 , FM香川 , FM大分 , FM佐賀 , FM長崎 , FMK , μ FM , JOY FM , FM沖縄 , TOKYO FM

■ 4枚組み、フィラデルフィア・サウンドのオムニバス

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