雪の近松ファンタジー*『心中・恋の大和路』 |  *so side cafe*

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元宝塚歌劇団雪組、壮一帆さんの現役時代の記録。ただいまシーズンオフ。

『心中・恋の大和路』大絶賛上演中です。

今回、初日には駆けつけられなかったのですが、「感動の声、続々」という感じのリアルな声がTwitterにたくさんつぶやかれていて、行けなかったけど、「そうでしょそうでしょ」と、もうどこからの目線なのかもわからないけど(笑)、しあわせな気持ちになっていました。

壮さんがトップになってからお芝居は、月組「ベルばら」特出のアンドレ、「若き日の唄は忘れじ」を中日劇場と全国ツアーで二度、「ベルばら」のフェルゼン、「Shall We ダンス?」のヘイリー・ハーツと演じ、この「心中・恋の大和路」が五役目。次に待っている「一夢庵風流記 前田慶次」も加えると、半分の三役が日本ものということになります。

これは本当に珍しいことでしょう。
ファンとしては、日本ものではない壮さんも素敵なことは知っているし、見たかったけれど、これこそが雪組の男役にしてトップスターである壮一帆に与えられた仕事であり、また運命なのだと、『心中・恋の大和路』を観て、思いを新たにしています。

けれど、日本物とひと口にいっても、その時代背景も物語世界もさまざま。現に、壮さんが演じ、演ずる三作だけとっても、それぞれまったく違っていて、面白いものだなあと思います。

文四郎というストイックな武士を演じたかと思ったら、こんどは、近松の「冥途の飛脚」の忠兵衛。どうしようもなく女に弱いところがあるけれど、商才や教養もあり、趣味もたしなみ、洒脱さもある美男のモテ男。24歳(なのですよ、近松さんの原作では ^ ^ )。そしてその次に控えている慶次は、豪放磊落な風流者。

なんて面白いの。しかも、壮さんが演じると、その役が、イキイキと動き出すのです。

『心中・恋の大和路』もそうです。

わたしは舞台は観たことがなくて、今回の壮さんの雪組版が初観劇だったのですが、「名作」といわれているのが納得の作品でした。

ラストシーンの忠兵衛と梅川の絵が印象的なので、ずっと、あんなカッコして、延々と二人でグダグダしているような会話劇だと思っていたのです。

ぜんっぜん違っていました(笑)。
近松先生、ごめんなさい。グダグダなんてとんでもない。退屈な場面なんてひとつもない、完璧な芝居でした。

忠兵衛と梅川の恋を物語の縦糸にして、二人をとりまく大坂のさまざまな生活空間と人々の情を巧みに織り込んだ緻密な芝居でした。
まっつ演じる米問屋の主人で忠兵衛の親友・八右衛門、飛脚宿の面々(隠居のお袋様、番頭さん、手代、丁稚ちゃん、女中たち)、同業の宿衆たち、廓の女たち、忠兵衛の在所の父親、田舎の友人たちと、二人をとりまくさまざまな人たちが絶妙に絡んできて、まったく飽きさせません。

壮さんの忠兵衛は圧倒的な説得力で迫ってきました。

何よりもまず、忠兵衛が美男だったことがうれしかったです(笑)。

確かに忠兵衛はダメ男だし優男だけれど、ただの優男とはちょっと違う。おそらくは男も女も見とれてしまうような「超絶美形のモテ男だった」。「忠兵衛は超絶イケメンだった」(言葉を変えて二度言いました(笑))。そこが重要ではないかと思うのです。

一幕は、街道を走る飛脚たちの場面から始まります。この後に宿衆として登場する六人の男役が見せてくれるのですが、この、唐突にカッコいい飛脚のナンバーが終わると(ちなみにスカイステージの番組で壮さんは、この飛脚たちを「ファンタジー佐川」と呼んでいました(笑))、中央に白い人の影が。

白い人の影が、ゆらりと動くと…。そうです、忠兵衛です。
日本の色ではなんというのでしょう。薄いたまご色のような着物に、花柄の帯を締めて。飛脚たちよ急げと歌うのですが、この忠兵衛から立ち上る幽玄な雰囲気と美に、この男がこの世の者ではないこと、この、人をまどわせる「美」がすべての発端であるということを知らされるのです。

(忠兵衛が、ゆらりゆらりとわたしのほう(笑)へ歩いてきたとき、めまいのような殺気を感じました。あ、殺られる…と。でももちろん恐れはなく、ほとんどドラキュラ伯爵に血を吸われて恍惚のなかで命を落としていく女のように(笑)。それくらい、この場面の壮さんの忠兵衛は美しかったです。)

不思議に人の心をつかんでしまう人というのがいるけれど、忠兵衛はまさしくそんな男。男も女もつい、忠兵衛じゃあ仕方ないなあと許してしまうような、えもいわれぬ魅力をもっていたのではないかと思うのです。
ダメダメな男だけど、なんともいえない魅力があって、登場人物たちもみな、忠兵衛をどこかで許してしまう。その手練手管を楽しむ芝居だともいえると思うのです。この『心中・恋の大和路』は。

梅川はもちろん、八右衛門や亀屋の者たち、廓の女たちだって、故郷の人たちだって、みんな忠兵衛を憎めないでいるのではないでしょうか。

だって、本当にかわいいんだもの。美形なんだもの。色気があふれてるんだもの(笑)。

ここのところが理解されないと、「忠兵衛は阿呆やねえ。公金横領したんだから、当然犯罪者でしょ」で終わってしまう。でも、壮さんの忠兵衛は、まずここで説得力があったと思います。少なくともわたしは、この幽玄の忠兵衛を見て、すっかり虜になっていたのでした。

一幕は、忠兵衛が、亀屋が預かっていた客の金の封印を切って、梅川を身請けするお金に使ってしまう、「封印切り」の場面までが描かれます。

壮さんの忠兵衛は、とても自由でした。
もっと男っぽい忠兵衛かと思ったら、むしろ女性らしいやわらかい感じで、美貌の女形さんが立役を演じたときのような愛くるしさがあって、わたしはもう、一目で好きになりました ^ ^

忠兵衛の遊び好きな若旦那ぶりや、ちょっといけずだけど、人にとことんやさしいところが軽い仕草からよく出ているのです。

だから、八右衛門との場面も、番頭の伊平を言いくるめる場面、手代の与平をからかう場面、お袋様に頭が上がらない場面、女中のおまんちゃんをからかう場面も、本当に楽しい。

説明台詞なんてないのに、会話だけで、忠兵衛が置かれている状況を笑いのなかに伝えてくれる。いま、こんな脚本が書ける演出家が果たしているでしょうか。素晴らしいです。

ちなみに、ちなみに近松さんの台本では忠兵衛、《今年二十の上はまだ四年》、つまり24歳。
《茶の湯俳諧碁双六延紙に書く手の角取れて、酒も三つ四つ五つどころ紋羽二重も出ず入らず、無地の丸鍔象嵌の国細工には稀男。色の訳知り里知りて》と描写されています。

「稀男」とは、世にもまれな美男という意味。脚注や解説書によると、二十歳で大坂に養子に入り、四年の間に、茶の湯や俳諧、碁などをたしなみ、身なりにも気を遣うオシャレさんで、色町のことにも通じていると書かれているようです。

廓ではいつもモテモテだったんでしょうね。
梅川にしつこい「田舎の客」というのが何度も出てくるのが面白い。忠兵衛だって田舎出なのに、持ち前の美貌もあって、あっという間に調子のいい都会人になってしまったんですね。ふふ。かわいい ^ ^

梅川は、廓のなかで、まだまだ世慣れしていない感じに惹かれたのかなあ。あゆっちの梅川を見ているとそんな気になりました。

一幕の忠兵衛が、の軽い感じは、見たことがない壮さんだったから、とても新鮮で。
すごく自由なところにはスタンを思い出したり、紫子やオスカルにも通ずるような気もしました。

スーツものやコスチュームものだったりすると、肩パットをたくさん入れたり、補正もたくさんするんでしょうけれど、今回はすっきりとしたお着物だけ。

だからあんなに自由でしゃらしゃらしていているのかしら。文字どおり、「身一つ」で芝居をしているんだなあ。

そんなしゃらしゃらな忠兵衛さんが、「封印切」の場面では、一気に狂気の世界を見せてくれます。日常からの落差が凄い。

歌舞伎座ではちょうどいま、「封印切」の場面を上演中で、わたしも見てきたのですが、近松さんの「冥途の飛脚」とはだいぶ違います。八右衛門は敵役として、忠兵衛をねちねちといたぶり、封印が切れてしまったのをきっかけに、忠兵衛が涙にくれながら封印を解いてしまう。
橋本治も書いていたけど、歌舞伎のほうは通俗的な改作が過ぎて、物語としては断然、近松さんの浄瑠璃版が面白いのです。

タカラヅカの『心中・恋の大和路』は、もちろん、近松さんの浄瑠璃版を底本としたものです。

壮さんの「封印切」は、狂気の沙汰でした。与平にお金の怖さを言い聞かせていたくらい商売のこともわかっているはずなのに、もう完全に見えなくなってしまっています。

あの表情。あの眼は何を見ているんだろう。ひさしぶりに見たイッちゃってる壮さん。ここでは、ちょっとプルキルを思い出したり。

そして二幕は、梅川との逃避行。この二人の旅がまた素晴らしいのです。

映画でいうなら、ロードムービーの雰囲気ももっているし、若い二人が逃避行をする物語でもありますね。

レオス・カラックスの『汚れた血』や、わたしが愛して愛してやまない映画、ニコラス・レイの『夜の人々』なんかを思い出すと書いたら、ぽかーんとされてしまうでしょうか(笑)。タカラヅカの作品なら、『凍てついた明日』でしょうか。そういえば、『カナリア』の銀行強盗の場面は、正塚先生のボニー&クライドへのオマージュかもしれません。

二人は楽しそうに旅をします。破滅へと向かう旅なのに、お金を使ってしまったら、どんどん冥途に近づいていくというのに、豪勢にお金を使って楽しく旅をしてしまう。それがまたせつないのです。

好きな場面は「相合籠」です。
こんな場面があるとは知らなかったので、目の前の籠から、忠兵衛がちょいっと顔を出したり、籠のなかにちんまりと二人が座っているのを見たときの驚き。

後から原作を読んだり、いろいろ調べてみたりしたところ、この場面はとっても色っぽい場面のようです ^ ^

もちろんタカラヅカですし、舞台でそういう描写はありませんが、人目につくのをおそれた二人は、夜の闇に紛れて一つの籠に揺られていきます。寒い冬の旅なので、籠の中ではお互いの足の間に足を入れ、梅川はほつれた忠兵衛の髪を直したりしているのだそうです。

ちらりとのぞいた忠兵衛の顔と、二人の気配ががとても色っぽく感じたのは、籠の中で、濃密な二人の時間を過ごしていたからでしょうか。忠兵衛の、客席にむかっていたずらっぽく目配せをしているような表情も忘れられません。

「新口村」も、歌舞伎でよく知られている、忠兵衛の父・孫右衛門が登場する場面。ここも「封印切」と同様、近松さんの浄瑠璃台本と歌舞伎とは、場面は同じでも、話がまったく違います。近松さんのオリジナルのほうが、よりクール。歌舞伎では、父と子が対面をするのに対し、近松版は救いがありません。父は、罪を冒してしまった息子に「逢うことはできない」と、逢わずに去っていくのです。

このときに、小屋の小窓からのぞいて身もだえしている忠兵衛がまた、たまらなくよいのです。

この小窓は、牢獄の格子の入った窓なのでしょう。
近松さんの浄瑠璃台本でも歌舞伎でも、二人の最後は、捕らえられてしまうという哀しいもの。でも、タカラヅカ版のこの作品だけが、二人が雪の中に消えて幕となるのだそうです。

この改作が素晴らしいと思います。

でも、脚本を書かれた菅沼潤先生は、時世を狂わせて、忠兵衛が自分の罪と対峙するところをきちんと描いている。それが、「新口村」の小窓での忠兵衛であり、道行の途中で、忠兵衛と梅川が縄に巻かれる幻想シーンであり、さらし首を見せる場面です。そのことが、もっと素晴らしいと思います。

幻想シーンとはいえ、自らの罪と対峙する壮さんの忠兵衛は圧巻です。
自分の冒した罪の前に、なすすべもなく、ただ、なすがままに縛られ、流れていく。かわいい遊女、梅川を求めるあまり、冒してしまった色恋の罪。その重さと対峙する場面の官能的なこと。

忠兵衛は、後悔していたでしょうか。いえ、後悔することを忘れるほど激しく愛に溺れてしまっているのです。

一幕幕開きの幽玄な忠兵衛は、囚われの忠兵衛の姿かもしれません。囚われてなお、梅川を求めていたのでしょうか。だからあんなにも官能的だったのでしょうか。

そんな情念とは裏腹に、新口村で見つかった二人の雪の道行は、浄化され、この世のものではないほど美しくなって、白い雪のなかに溶けていきます。もう、人形浄瑠璃の世界にも見えます。

そこにかぶる、まっつの八右衛門の「この世にただひとつ」。

純化された二人の姿には似つかわしくないような、魂がほとばしるようなアグレッシヴな歌。

芝居の枠を超えたパフォーマンスをしないのが、まっつの美質だと思っていたけれど、そのまっつが、舞台のフレームをやすやすと超えて、歌で客席に語りかけてくるのです。二人はいっしょになれた、こんなにも愛し抜くことができた二人はしあわせなのだと。

素晴らしいラストでした。

舞台を見る前は、このラストシーンは、もっと情念の世界になると思っていたのです。

でも壮さんとあゆっちの忠兵衛と梅川は、それとはまったく違って、もっと抽象的な表現でした。まるでモダンダンスで表現した物語を観ているような感覚。

これが壮さんの忠兵衛なのですね。

冒頭の飛脚たちを壮さんは「ファンタジー佐川」と呼んでいたけど、この『心中・恋の大和路』こそがファンタジーなのではないでしょうか。

涙が出るほど美しい、愛の。白い雪原にうたかたと消える…。