劉邦は大きい*『虞美人』東京公演、七 |  *so side cafe*

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元宝塚歌劇団雪組、壮一帆さんの現役時代の記録。ただいまシーズンオフ。


ニ幕の序盤。劉邦に扮し、銀橋で「♪東へ」と歌い上げる壮さんを見ながら、立ち姿が大きいなあと、惚れぼれする。
(銀橋という空間にいるときは、なぜか役名よりも芸名で見てしまう時間が長くなる)

わたしが初めて舞台で観た壮さんの銀橋ソロは、「タランテラ!」の「カリプソ」だった。壮さんそのまんまのような明るい歌で、笑顔がチャーミング、大好きな場面だったけど、たたずまいが不安定というか(笑)、いつもハラハラして観ていた気がする。
(確かカフェブレイクでは、銀橋がこわいと訴えていて、この人は何を言い出すのだろうと、愉快に観ていたのでしたが、今にして思えば、とっても劉邦(笑))

そんな壮さんが、今ではどっしりと銀橋に立ち、力強い歌声を劇場に響かせているのだ。

役柄や衣装や音楽の力も、もちろんあるけれど、気持ちが歌声に乗って、まっすぐ客席に向かってくる。大きくあげた手が、客席に伸びてくる。こんな銀橋パフォーマンスをするようになった壮さんを見るのが、楽しくて仕方ない。

この銀橋の場面だけじゃない。

一幕で劉邦が着ている緑の着物が、振り袖みたいで美しく、それがまた壮さんに映える。龍のように大きく見える(カラダが大きいと言いたいわけではないですよ)。

そう、劉邦は大きいのだ。

一幕のはじめ、故郷の村・沛県での場面。呂の熱いまなざしを受けて(この場面の呂のかわいさ! いい奥さんです)、「♪そうだ、私もまた、天がける龍」と歌うところなんか大好きで、わたしには、ほんとうに美しい龍の化身に見えるのだから困ってしまう(笑)――ほおにかかるシケなんか、龍のひげに見えるし、たたずまいが「龍」ってカンジじゃないですか。泉鏡花ものとか、似合うだろうなあ――。

そして、観劇を重ねるうちに、考えすぎてあたりまえになりがちなことを、楽を間近に控えたいま、もう一度思い出す。

劉邦は、美しい。

さわやかな野心にあふれていて、誰もが好きにならずにいられない、そんな顔をしているのだ。

あの時代の中国では、顔の果たす効果が絶大だったらしく(情報網といえば口コミ・手紙・歌くらいですもんね)、劉邦の顔と見映えのよさは、強力な武器だったのだと思う。

以前に少し書いたけれど、劉邦は「竜顔(天子の顔。天顔)」で「美髯(びぜん)」の持ち主だったといわれている。

そんな容貌をもっていたから、蕭何にコイツはただ者ではないと思わせ、ハンカイやソウサンのような取り巻きをつくり、呂や張良に決意させ、女たちはみんなぞっこん、果ては、無闇に心を開かない項羽だって、ころりと恋に落としてしまったのではなかっただろうか(笑)。

劉邦は、この「貌」ひとつで天子にまで昇りつめたのだ。ただの農民だった、この男が。

まさにチャイニーズ・ドリーム。「♪私には羽根がある」は、「誰もが天子になれる」という、あの時代の男たちの夢を歌ったナンバーだったけれど、その夢を現実のものとしたのは、あの場にいない劉邦だったというのがなんとも面白い。
(「♪私には顔がある」)

張良の智、韓信の戦術眼、蕭何の実務能力、それを支える臣下たちの熱い思いがあって、「弱い劉邦」が天子になることができた。「なんだ、劉邦って、なんにもしてないじゃん」と思う人がいるかもしれない。それはその通りなのだ。

劉邦は弱いし、特筆に値する功績を残したわけでもないらしい。

でも、劉邦以外に劉邦の役はつとめることができなかった。劉邦でなくてはならなかった。みんなにそう納得させてしまうのが、劉邦の人としての大きさだと思う。

劉邦は大きい。

史実からしたら大男だったのは項羽のほうだけれど、いまここで問題にしたいのは、身体の大きさではなく、人としての容れものの大きさだ。

シバリョー先生も小説『項羽と劉邦』のなかで、劉邦は空虚だ、だが、空虚だから、人の意見を入れることができたと語っていたと思う。

容れものは大きいほどいい。もっともそれは、入れる物のあるならばという話だけれど。

この、人としての大きさと、もうひとつ、はじめにしつこいほど語った(笑)、人を魅了してしまう「貌」の持ち主だったということ。

このふたつがあったから、劉邦は周囲の者たちの考えを取り込むことができたのだし、民衆の心をつかむことができたのかもしれない。「エーヤン! 劉邦」。「漢王、万歳!」

壮一帆サンの演じる劉邦が、ますますいい「貌」になっていっています。

……と、わたしはいつだって壮さん中心に見てしまっているのですが(笑)、項羽も虞も、呂も張良も韓信も、ほかのみんなもです。いい芝居、いい貌です。

皆さま、ぜひもう一度、劇場へ足をお運びください(笑)。