続・劉邦、その愛*『虞美人』壮一帆『虞美人』東京お茶会、その3 |  *so side cafe*

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元宝塚歌劇団雪組、壮一帆さんの現役時代の記録。ただいまシーズンオフ。


全体像に迫ることはすでに放棄している(笑)、お茶会関連レポその3です。

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お茶会で話してくれた、壮さんの「私は誰も愛していない」の解釈にはマジでシビれました(笑)。
(その2参照)

頭ごなしに上から何かをやらせるのではなく、まいっちゃったなあといいながらも、臣下たちと同じ目線で、みんなで事を成し遂げようとする(だから、人を惹きつけないではおかない)。そんな人間っぽい劉邦だから、まわりに集まってきてくれる人が好きで、また劉邦自身もみんなの気持ちに応えたくて、だから自分の愚かしさに直面したときに絶望してしまう。もっと愛してやりたかった、愛に応えたかったのだと初めて気づく。

それが壮さんの演じたかった劉邦なのかなと、とりあえずは理解しています(笑)。

項羽が“戦いの神”なら、劉邦は“人間”。この考えは、とても壮さんらしいなと思う。

でも一方で、セリフどおりに、誰のことも愛してなんかいない、空虚な劉邦の姿というのもまた、見てみたかった気もする。

闇の帝王のトート閣下よろしく、「項羽との約束なんかどうでもいい、みんな戦って死んでいけばいい」なんて言い放ちそうな劉邦は素敵だと思う。

「愛? そんなもの知らない」と、冷たく笑ってみせる劉邦だって、絶望し、自分の内へ内へと入り込んでいってしまう自己愛的な劉邦だっていい。

孤独に打ちひしがれる二枚目を真っ正面から描くなんてことは、今やタカラヅカくらいでしか成立しないだろうし、ヅカオタ的には間違いなくそっちのがウケると思うのだ(笑)。

でも、たとえそういう方向で素敵な場面ができたとしても、その前の劉邦や、その後の劉邦にはつながらない。それでもその場面のカッコよさを取ることもできるけれど、壮さんはたぶん、そういうチョイスはしない人だ。ビジュアルのカッコよさよりも、演じる役の行動原理や心情に沿った演技を優先する人なんじゃないかとわたしは感じている。

そんなふうにして演技プランをつくっていくから、あの「私は誰も愛していない」の場面ができあがり、『虞美人』という作品のなかの「劉邦の物語」は、すべての場面がきれいにつながっていくのかもしれない。

(すべて想像です(笑))

で、「劉邦の物語」をうまくつなげるために(笑)、壮さんがもっとも力を注いだのが、この「一人になって」から「ゆっくりと~歩きましょう」に至る場面なんじゃないかと思います。

とりわけ、絶望しているはずの劉邦が、突然目の前に現れた關ちゃんにころっとまいってしまう場面(笑)。

お茶会で壮さんは、この場面を、芝居表現について「木村先生と唯一やりあった場面」と語ってくれました。

え「ファンの方からいただくお手紙で、よく聞かれたことがあるんです。劉邦が一人になる場面で、絶望しているのに、すぐに『お嬢さん、お名前はなんと?』なんて言ってるけど、笑う場面なのかって。
あ、お手紙は、もっとすごく気を使ってくれた書き方だったんですけどね(笑)。あの場面は笑っていいものかどうか悩んでる…みたいに。そんな、もう、面白かったらどうぞ笑ってください(笑)。
ただ、自分としてはあくまでも、ほほえましくて思わずくすっとするような笑いは想定してますけど、決してギャグにするつもりで演じてはいないので、もしそこまで笑えるとしたら、それは私の力不足です!
あの場面ね、実は、木村先生とやり合った場面なんです。先生としてはあの場面は、ドッカンと笑いが来るようなイメージだったみたいで。 私も最初のうちは(お稽古場?)そういうふうに演じてたんです。でも、やっていて、なんかしっくりこないなって思って、いろんな人に相談して、今みたいに演じるようになったんです。自分だけだと客観的に見れないから、その場面をみんなに見てもらったりして。
最終的には先生も納得してくれて、今みたいなかたちになったんですけど、木村先生とこれだけは一致してたっていうのが、あの場面が劉邦のバイタリティーを表しているということでした。絶望していても、目の前にかわいい子がくると、思わず声をかけているような(笑)。立ち直りが早いんです。気がついたら、立って歩いてるし(笑)。でも、そういうところが劉邦のバイタリティーを表してるよねって」


(大意です。たぶん、もうじぶんの言葉に置き換えられてしまっていると思う(笑))

だいたいこんな話だったと思います。

「私は誰も…」もだけど、この場面も、演技をまとめるのに苦労したことだろうと思う。だって、どう考えても、脚本の書き込みが少なく唐突ですもん(劉邦の物語ではないし、仕方のないことだとは思っていますが)。

この場面って、史実にわりあいリンクしていて、劉邦はホントに一人で逃げたらしいですね。それも、劉邦だとバレないように衣服をみんな脱ぎ捨てて裸で(笑)。

劉邦としてではなく、衣服も名前も捨てた、ただの人になって逃亡し、親切な家にやっかいになる、そのときの心境がそのままこの場面になっていると思うんです。

關とここで出会ったというのはわたしが読んだ本にはないから、たぶん木村版オリジナルだと思われますが、これ、いいと思います。場面的にはともかく、ストーリーとして説得力がある。

まわりのみんなは、「劉邦だから」寄ってきたけれど、關だけは、劉邦と知らずに手を差し延べてくれた。劉邦としては、そのことにもぐっと来たんじゃないかな。

それから、“男性は、病気などで弱っているときにやさしくされると恋に落ちやすい”という定説もありますしね。劉邦って、そのへんわかりやすいから(笑)。そして、それが劉邦のかわいいところ。

戚だけが、「劉邦」でも「劉邦さま」でもなく、「あなた…」と呼びかけるのも面白い。虞姫が、項羽と二人きりでいるときに「子どもになって…」と歌うけれど、そもそも劉邦は、“子どものような”無防備な姿で戚に出会ったのだから、そして關ちゃんはとってもラブリーだったんだから、もう劉邦が恋に落ちないはずはないのです(笑)。

關ちゃんは、街のきれいな女たちとは違う、素朴で素直な少女だったんじゃないかな。ハイジみたいな。これはわたしの好みですが(笑)。

まあ、こんなふうに考えると、劉邦がとつぜん關にメロメロになっちゃうのも少しはうなずけるのではないでしょうか(笑)。

(項羽と虞のベタベタぶりを見ていて、うらやましかったというのもあるかもです(笑))

お茶会の話、ほとんどなくってすみません。

でも、大劇場ではれみちゃん、東京では蘭乃はなちゃんと、タイプのまったく違う關ちゃんにやさしくしてもらって、劉邦もうれしいことでしょう(笑)。「歩きましょう」と歌いながら、しっかり肩を抱いてやさしく袖に消えていく二人を見るのが大好きです。

ところでお茶会では、「呂妃と關のほかにも、モテモテですが、女の子たちのなかでお気に入りはいますか?」という質問がありました。

え「ん? みんな同じ。特定の子に興味もないし。でも、女の子はみんな大好きです!」ということでした(笑)。

ぎゃー。劉邦さま~! 愛、愛、愛~!(笑)