「豊饒の海」を読みました | ここで、そこで、いろんなところで

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やっと三島由紀夫の4部作「豊饒の海」を読み終えた。

おととしの秋から「春の雪」を読み出したのだから、1年半もかかってダラダラと読んでいたことになる。


読み終えて、ほっとしたような、残念なような・・。

私はあまり本を読むほうではないので不勉強だけれど、こんなに硬質で男性的な美しい文章を読んだことはなかったように思う。


「春の雪」は運命の恋に翻弄される青年を、「奔馬」では正義感に燃える少年を描いていて、その文体に馴染めないながらも、感動しながら読んでいた。

特に「奔馬」は、若さゆえに純粋な死を選ぶ主人公はミシマの自決と重なる部分が多かったし、十代のの頃に読んだ「二十歳のエチュード」をふと思い出したりして、主人公に共感できる部分もあった。


でも「暁の寺」で、語り部の本多が中年から壮年になり、主人公も官能的な肉体を持った女性になり、物語についていけなくなり、放り出しそうになった。

それはまるで、私の中にないもの、また観たくないものをガンガンと見せ付けられているようで、この頃「ミシマに脳みそを侵されているような気がする・・」と友達にこぼしたりした。


しかし。。

「天人五衰」では、今までのテーマがすべて一つとなり、大きな流れとなって、私はすっかりこの4部作に魅せられた。

主人公は「自分が神に選ばれた人間であるか否か」を疑ってしまい、今までの輝きを失って運命そのものを逃してしまう。

そして語り部の本多も、人生の軌跡は、自分の心が作り出してきたことなのか、それとも本当に体験したことなのか、その境さえ見失ってしまう。

まるで宇宙の真理が小説になったようで、またその描かれ方が見事で、通学電車の喧騒の中でも、私はその世界にどっぷりと浸って、後半は読みまくっていた。


人生の意味も、この世の儚さも、肉体の限界もすべて悟り、それを小説という結晶にして、ミシマは45歳で散っていった。


私はこれからミシマの小説を読むだろうか。

好みか否かと言われれば、決して好きとはいえないけれど、この魂の奥深さを知ってしまったら、読まなければいけないんじゃないかと思わせる作家の一人になった。