以前、夫がお客様から頂いていた貴船神社のルアーお守り。
いつかお返しにあがらねば・・・と思っていたら、ふとチャンスが巡ってきました。

 

夕刻、京都市内・出町柳から叡山電鉄に乗り30分。
「貴船口」で下車し、バスに揺られて5分。
「貴船」に到着です。

 

この日は確か35度前後まで気温があがり、市内はうだるような暑さでした。
貴船に到着したら、湿度はありますが結構ひんやり。

 

生き返る~~~
みんなが避暑にくる理由がわかる~~~(*´Д`)

 


◇貴船の川床、鴨川の納涼床

さて、貴船といえば「川床」ですね。

 

川の上で食事ができるというのは同じですが、

 

貴船「川床(かわどこ)」
鴨川「高床(たかゆか)」または省略されて「床(ゆか)」「納涼床(ゆか)」と呼ばれます。

 

貴船では川の流れに近いところで食事ができます。
一方鴨川は高い床なので、どうあがいても川の水に足を突っ込むことはできません。


京都に住んでいた頃に鴨川の床には行ったことがあるのですが、

まったく涼しく感じた記憶がありません。


鱧料理を汗だくでいただいた記憶だけがございます(;^_^A

 

一方貴船は川沿いを歩いているだけで、涼しい!
貴船神社をお参りした後に、川床で食事をして帰る予定だったので、とっても楽しみ(°∀°)b

 

 

<貴船川と鴨川>
川床のある貴船川は全長約3kmという短い川。
叡山電鉄「貴船口」駅の近くで鞍馬川と合流し、鞍馬川は鴨川に合流します。

 

貴船川は川幅がせまく、雨で増水すると鉄砲水が流れてきます。
実際に見ると、結構な流れの強さを感じます。

 

台風などによる洪水や土砂崩れにより、貴船の川床や茶屋が流されること過去に数回
現在も水かさが増すと、川床の撤去を随時行っているようです。

 


一方、納涼床のある鴨川鞍馬川と合流したのち、高野川と合流。
さらに琵琶湖疏水から琵琶湖の水を受け入れ、桂川へ合流し、最終的に淀川へつながります。

 

鴨川はとにかく氾濫を繰り返す川でした。

 

824年には、治水を担当する「防鴨河使」(ぼうかし)という官職が設けられていたほど。


「平家物語」では、平安時代末期の白河法皇は

「天下三大不如意」(自らの意に沿わないもの)の最初に「賀茂河の水」をあげたと伝えています。

※残りの二つは雙六の賽(双六のさいの目)、山法師(比叡山の僧兵)

 

豊臣秀吉が作った「御土居」(土塁と堀)の東端は、ほぼ現在の河原町通りで、鴨川の西側にそって作られました。
一説に鴨川の氾濫による被害を抑える堤防の役割をもっていたとされます。

 

江戸時代にはいり1670年には今出川通から五条通までの区間に「寛文新堤」という堤防が設けられ、秀吉の築いた御土居との間が新たな市街地として開発されました。


明治~昭和にかけても治水工事は行われており、

昭和初期まで、鴨川の納涼床は増水による被害を何度もうけています。

 

 

◇納涼床の歴史

 

<御土居と四条橋>

桃山時代、豊臣秀吉は街道につながらない洛外への道(口)を「御土居」によって閉じました。
八坂神社に通じる「四条橋」、清水寺に通じる「五条橋」(現松原橋)は撤去され、

東方への街道があった六条坊門通(現五条通)に五条橋を架橋。


「祇園社記/享保8年(1723)」によると

慶長6年(1601)に四条口は開いたというので11年間閉じられていたことに。

江戸時代には秀吉以前のように、人々は四条橋を通るようになりました。(「日次紀事(ひなみきじ)」)

 

ちなみにこの間、祇園会の神輿は、三条橋を渡るようになったといいます。
 

 

<四条河原>

桃山時代、豊臣秀吉の三条・五条橋の架け替えなどを経て、

鴨川の河原は見世物や物売りで賑わいます。

 

当時の四条橋あたりには「中之島」という中州があり、

河原者(遊女や芸人、乞食など蔑視された身分)を中心に人が集まっていました。

 

出雲の阿国による歌舞伎にあわせて仮設の茶屋が置かれたりと、

慶長年間頃には四条河原の「女歌舞伎」が評判となります。
ちなみに、京阪四条、南座の向かいには、「出雲阿国」の像がありますよ。

 

江戸時代初期、元和年間(1615~1623年)に京都所司代・板倉勝重により

幕府公認で四条河原に「芝居小屋(櫓)が七座」発祥します。


この芝居小屋、火災により、焼失や廃座となっていき、明治時代には二座のみが残ります。
明治26年には北側芝居が廃座。
唯一現存しているのが「南座」です。

 

裕福な町衆は、浅瀬に床机を置いたり、中洲に床机を並べたりして、

芸能を見ながら軽食をとりつつ、足を濡らして涼をとっていました。
最初は五条河原付近に、それが徐々に四条河原へと広がりを見せます。

 

これが納涼床の始まりとされます。

 

▽都林泉名勝図会  巻之一 四条河原

寛政11年(1799)のものですが、江戸の床のイメージをつかめる資料です。

現在の鴨川では高床しか見ませんが、最初の頃は貴船の川床に近いイメージです。

 「都名所図会」と同じく、本文は京都の俳諧師秋里籬島、挿絵は佐久間草偃、西村中和、奥文鳴の三名が描いた墨摺五冊本。

(国際日本文化研究センターより)

 

 

<納涼床と川原の発展>
江戸時代になり街道が整備され、「三条橋」東海道の終着点になると、河原はますます盛況となります。

 

三条大橋の西詰め北側には、江戸時代に藩や幕府の高札を立てた「高札場跡」があります。

またこのあたりは「処刑場」でもあり、首がさらされもしました。


文禄3年(1594年)の秀吉による石川五右衛門の釜茹は有名ですし、

幕末は天誅と称して暗殺された人の首がさらされました。
私の好きな新選組の局長・近藤勇も、江戸・板橋の処刑場から首が運ばれさらされています。

 

鴨川にかかる三条大橋らへんは交通量が多く、

そのため情報を掲示する高札が立てられたり、首がさらされたりもしたのです。

 

ちなみに、東詰めには「東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さんの像や、
幕末の尊王家であり西郷隆盛らに維新の魁ともいわれた「高山彦九郎像」があります。

 

※余談
学生たちは高山彦九郎像前を通称「土下座前」といって集合場所の目印によくするのですが、
本当は土下座をしているのではなく、御所に向かって礼拝しているのです。
幕末史を詳しく学んでから「あれは土下座じゃなかったのか!」と知りました。
かくいう私も学生時代は「土下座前」といっておりましたorz
もう言わない!!


また京の豪商達は、遠方から来た客人をもてなすために為、納涼床に席を設け舞妓を侍らせました。
これにより「先斗町」や「木屋町」が茶屋街、置屋街として定着し、歓楽街となっていきます。
現在も三条~五条の鴨川沿いには、その風景が残っています。

 

四条橋は三条・五条橋と比べれは小さく質素だったようです。
しかし、「祇園会の神輿洗い」の時の四条河原は、ひときわ見物客で賑わったといいます。

 

現在は祇園祭の神幸祭(7/17)の前の7月10日と、還幸祭(7/24)の後の7月28日に、神輿洗式が行われています。


八坂神社の3基の神輿のうち、素戔嗚尊(アマテラスの弟/熱田神宮編・伊勢神宮編でもラフ~に解説してます)を祭る「中御座」が、鴨川の水で清められることにより、鴨川の水神をお迎え・お送りする行事です。

 

神輿洗いは四条通りの鴨川南にて行われており、このあたりを「宮川町」といいます。
鴨川の別名が宮川だったから、宮川町の名がついたともいいますね。

 

▽皇都祇園祭礼四条河原之涼(五雲亭貞秀)

時代は下って 安政6年(1859)に描かれたものです。

祇園会の時の三条~四条河原の様子がわかります。

(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 

江戸時代、寛文年間(1661~1672)には、鴨川の両岸は石垣や堤で整備されます。
両岸の茶屋からは、張出式の床も出されるようになりました。

 

江戸時代中頃には、茶屋は400軒を数え、組織化も進んでいたと思われます。
話し合って床几(=椅子)の数を決めたり、増水後の床の撤収などを組織的に行っていたことが記録されています。


元禄年間(1688~1703)には四条河原の納涼床は賑わいをみせ、
宝暦年間(1751~1763)から天明年間(1781~1788)には、最盛期を迎えます。

 

京の観光案内書であった「都名所図会」(1780)をはじめ、

丸山応挙安藤広重らの錦絵や浮世絵などにより鴨川の納涼床は描かれ、

全国的にも知られるようになっていきました。

 

▽都名所図会 巻之二 平安城再刻 「四条河原夕涼之躰 (四条河原)」 

「都名所図会」は名所図会本(旅のガイドブック)のさきがけとなったもの。

京都の書林吉野屋から安永9年(1780)に刊行されました。

本文は京都の俳諧師秋里籬島、図版は大坂の絵師竹原春朝斎が描いた墨摺六冊本。

写真は天明6年(1786)の再販本。

(国際日本文化研究センターより)

 

▽四条河原夕涼図(伝円山応挙)/宝暦元年(1751)

(立命館ARCより)

 

 

<現在の納涼床へ>
明治時代になると、7・8月に床を出すのが定着します。

鴨川の右岸・左岸両方に高床式の床が、中洲は床机、三條大橋の下には河原から張り出した床が出ていたとされます。

 

大正から昭和にかけて、鴨川の治水工事が行われます。
明治27年(1894)鴨川運河開削、大正4年(1915)京阪電車鴨東線の延伸などにより、左岸(東側)の床が姿を消します。


また治水工事の結果、川の流れが早くなり床机が禁止に。

 

納涼床を出せなくなることを憂えた木屋町、先斗町の店々の陳情により、大正初期、工事によって右岸の横に禊川ができます。
現在は右岸側にのみ高床式の納涼床だけが出されています。

 

▽Album of 60 hand-colored photographs of old Japan

上/橋の下の床・芸妓  下/川床・芸妓

18??年に刊行された英語の写真アルバムです。

上の写真は、京都鴨川納涼床協同組合のHPによると、「三条大橋下の床」のようです。

(国際日本文化研究センターより)

 

 

<貴船の川床>
一方貴船の川床は、大正時代に入ってから。
暑さしのぎに茶店が、川へ床机を置いたことが起こりです。

 

鞍馬・貴船エリアは京の奥座敷といわれますが、決して交通の便がよかった場所ではありません。
山岳信仰・山伏による密教が盛んな地域でもあり、山林業に携わる者も多かった地域です。

 

そのため当初の川床は、鞍馬寺・貴船神社の行者をもてなすための茶屋や旅籠が設けたといいます。

 

昭和5年に叡山電鉄が鞍馬まで開通すると、以前に比べて貴船を訪れる人も増加しました。
それから少しづつ川床を出すお店が増えていきます。

 

 

 

はい、恒例ですが予想外に長くなりました。

そして貴船の川床を調べていたら鴨川に派生しましたorz

 

で、肝心の貴船の川床ですが・・・。

 

のんびり貴船神社に参拝したんです。
まだ明るいし~って思って、奥宮まで参拝したんです。

 

でもって、もともと貴船にこれたらいいなーくらいの気持ちだったので、お店の予約はしていませんでした。


↓結果↓

 

ラストオーダーがどのお店も19時までで、入店さえできず。

東京タイムで、19時だしまだ余裕でしょう。とか思ってたら甘かった。

 

ショックのあまり、川床の写真をとってさえいないという不始末(´-ω-`)
ご飯食べながら、楽しく写真撮影する予定だったのに(もはや妄想)

 

で、写真ないし、著作権の問題もなかったので、

今回は古い資料の写真を引用してきました。

 

ということで、今回の記事は次に川床にいくときのための予習と相成りました。

 

鴨川の納涼床は遅くまでやっていますが、貴船は違う。

確実にいきたければ予約してから行きましょう。←自戒

 

お店によっては、貴船口までの送迎もあります。

また安くで川床を楽しみたい方は、絶対ランチ。

夜は安くて一人1万円前後からです。

 

<つづく>