これまでに何度か訪れたことはあるのですが…
その度に何かあるんですよね、ここでは(;´Д`)
今回は結構な熱中症で倒れてしまいました。
スピリチュアル好きな方々には「気がいいよね~」と言われる場所ですが、
どうやら私には合わないようです。
3度目の参拝で再確認orz
朝から頭痛&リバース(←失礼しました)した後。
仕事仲間とそのご家族がおかげ横丁でランチをしている間、ひたすら寝る。
ポカリを飲んで車の中で、寝る。
とにかく、寝る。
↓
復活(仮)
気合いで伊勢神宮(内宮)だけ、参拝(。-`ω-)b
もはや歴女の意地ですw
2016年7月
◇伊勢の神宮
(社格:二十二社・上七社、近代社格制度[旧社格]ではすべての神社の上に位置する神社として社格の対象外)
伊勢神宮の正式名称は「神宮」といいます。
<正宮>
・皇大神宮 こうたいじんぐう(内宮)
・豊受大神宮 とようけだいじんぐう(外宮)
この両正宮と14の別宮、109の摂社・末社・所管社合わせて125社の総称が「神宮」。
通称で伊勢神宮と言われていますが、本当は「伊勢の神宮」です。
125社は、伊勢市・松阪市・鳥羽市・志摩市・渡会郡・多気郡の広域にわたって鎮座しています。
ご祭神は
・皇大神宮(内宮)は「天照大御神」 ←熱田神宮でも書いたけど、すっごい神様(皇室の始神)
・豊受大神宮(外宮)は「豊受大御神」 ←食物の神様
◇豊受大御神についてφ(..)
トヨウケヒメは食物の神様。
「ウケ」は食物のこと。
神世七代(かみのよななよ)の末っ子、イザナミの孫。
イザナミが火の神・カグツチを生んで火傷を負って伏せているときに、
まゆりから水の神・ミズハノメが生まれ、次にワクムスビが誕生。
ワクムスビの子がトヨウケヒメ。
(古事記より)
ちなみに、他の食物神の「オオゲツヒメ」や「ウケモチ」などと同様に、
「稲荷神(お稲荷さん)」と習合し、同一視される場合があります。
~ここからはラフにお届けします~
・大気都比売(オオゲツヒメ)
古事記で高天原を追放された空腹のスサノオ(アマテラスの弟)が、
「食べ物ちょーだい」っていって食べさせてもらった女神。
でもオオゲツヒメは穴という穴からゲロリンチョと食材を取り出していて
(←ヒメ的には最高のおもてなし)
それを知ったスサノオが「そんなもの食べさすじゃねー」とキレて切り殺されちゃう。
遺体からは蚕(頭)稲(目)栗(耳)小豆(鼻)麦(陰部)大豆(お尻)が生まれた。
・保食神(ウケモチ)
日本書紀でツクヨミ(アマテラスの弟でスサノオの兄)が、
アマテラスに「私のかわりにウケモチに会ってご飯食べてきてー」と言われて会いにいった女神。
やっぱりウケモチも穴という穴からゲロリンチョと食材を取り出していて
(←もちろん、ウケモチ的には最高のおもてなし)
「侮辱するんじゃねー」とキレたツクヨミに、やっぱり切り殺されちゃう。
遺体からは牛馬(頭)栗(額)蚕(眉)稗(目)稲(腹)麦・大豆・小豆(陰部)が生まれた。
さすが兄弟w
ちなみにツクヨミはその後…
「何でウケモチを殺しちゃってんの」
と姉・アマテラスに叱られる。
「なら姉さんが行けばよかったのに!あんなの食べれるわけないし」
とムカついた弟・ツクヨミ。 ←まぁ、気持ちはワカル
結果、弟は月に籠っちゃたので、それ以後この世の昼と夜は分かれたんだそうな。
ちなみにツクヨミ(ツキヨミ・月読命・月夜見尊)は
内宮・外宮の別宮(両方とも伊勢市内)として祭られています。
話を戻して…
トヨウケヒメが外宮に鎮座したのは雄略天皇22年(478)。
もとは丹波国在住の神でしたが、アマテラスに
「さみしー!美味しいご飯たべたーい!トヨウケヒメご指名でよろしく」
といわれ、お引越ししてきました。
アマテラスが内宮に鎮座してから、約500年後のことです。
ここに、アマテラスの食事を司る御饌都神(みけつかみ)=お食事係が誕生!
現在も御饌殿(みけでん)では朝と夕の二度、アマテラスや相殿及び別宮の神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)が続けられています。
◇皇大神宮 こうたいじんぐう (内宮)
<内宮ができるまで>
皇大神宮は、三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)をご神体としています。
ネットでざっと調べたら、皇居にあるのはレプリカ。
神宮に祭られているご神体を最後に見た人は、明治初年に神宮を参拝した明治天皇だそうです。
また平安時代に3度火災にあい、源平合戦時に平氏が宮中から三種の神器を持ち出すも壇ノ浦の戦いで水没→回収されるといった過去を持つ模様。
さて、記紀によると八咫鏡が最初に出てきたのは、
アマテラスがスサノオ(弟)の暴挙に腹を立て、「天岩戸」に隠れた時。
「岩戸の前で宴会をしてアマテラスを引っ張り出そうぜ作戦」の時、
岩戸を少し開いて外のどんちゃん騒ぎを見ようとしたアマテラスに八咫鏡をむけ、
「ん、だれ?」と思って岩戸から出てきたところを捕獲。
そう、八咫鏡はアマテラスを岩戸から引っ張り出すのに一役買った、お役立ちアイテム!
それから後、国つ神・オオクニヌシ(大国様)の国譲り後、
天つ神・アマテラスは天つ神代表としてニニギ(孫)を日本(葦原中国)に降臨させます(天孫降臨)。
その時、自分の分身としてニニギに八咫鏡を授けます。
「おばあちゃんだと思って大切にするのよ~」って感じでしょうか。
ちなみに、ニニギは高千穂に降り立ち葦原中国をおさめていくのですが…
・「ブスは無理」ってコノハナノサクヤヒメの姉・イワナガヒメとの結婚を拒否った人。
→ニニギがふったせいで、人間に寿命ができたw
・コノハナノサクヤヒメに一目ぼれして結婚、子を宿すも
「それ本当に俺の子?」疑惑をかけた人。
→キレたコノハナノサクヤヒメ(嫁)は、産屋に火をつけて
「無事に生まれたら天つ神であるニニギの子なんだからねー」と。
無事生まれたので認知されましたw
そんなニニギの子孫であり、大和で即位した神武天皇以来、
歴代天皇は皇居にこの八咫鏡を祭ってきました。
そして崇神(すじん)天皇6年。
「引っ越ししたーい!どっかに新しい家建ててちょーだい」
と崇神天皇の神床にあらわれたアマテラスfrom八咫鏡。
お引越しの理由は、
・疫病対策で三輪山にいる大和の土地神であるオオモノヌシを祭りなおした結果、
アマテラスの力とのバランスが悪くなっちゃったからとも。
・疫病が収まらないのはアマテラスの祟りで、皇居に祭るのはおそれ多いからとも。
崇神天皇は娘の豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)にアマテラスの引っ越し先を探すように指示を出します。
この後、トヨスキイリヒメ→ヤマトヒメと新居探しの一大流浪の旅は続き・・・
次の垂仁(すいにん)天皇25年。
倭姫(ヤマトヒメ)と新居探しをしていたアマテラスは
「ここ住むー」と伊勢の国でやっとこさ啓示を下します。
この間、約80年程。
皇女様達、お疲れ様です(´-ω-`)
こうしてアマテラスこと八咫鏡が祭られ、内宮に鎮座したのが垂仁天皇26年(BC4年)です。
<式年遷宮について>
672年、「天智天皇の子・大友皇子」 VS 「皇弟・大海人皇子」
という古代最大の内乱、壬申の乱が起こります。
なんで内乱が起こったのかは諸説ありますが、
個人的には額田王(女性)を取り合ったからってのが浪漫があって好きです。
女性の取り合いで内乱を起こされたら、実際たまったもんじゃないですけどねw
まぁ、それはそれ。これはこれ。
結果は、地方豪族を味方につけた皇弟・大海人皇子の勝利。
大海人皇子は、この壬申の乱で伊勢神宮に向かい勝利祈願をしたといわれています。
この時、伊賀・伊勢の豪族が大きく関わっており、
大海人皇子の勝利により勢力地盤を固めました。
即位した大海人皇子は天武天皇となり、「記紀の編纂」に取り組みます。
ここまで書いてきた神話は、この記紀に記されたものです。
さて天武天皇の宿願により、
持統天皇4年(690)に第1回「式年遷宮」が内宮で行われました。
外宮はその二年後に斎行。
以後20年に一度、隣接する敷地に宮を建て替え、装束神宝もすべて新調し、神様にお遷りを願うお祭りとして現在まで続いています。
式年遷宮は、材木を伐り出す山の口に座す神に祈る「山口祭」から始まり、
両正宮においては約8年をかけ30以上のお祭りや行事を重ねて行います。
※室町時代後期の120年間程はお金が集まらなくて中断されていました。
直近は平成25年に第62回が執り行われています。
ちなみに総予算は550億円。
<これまでの遷宮の資金はどうやって集めてたの?>
っていう疑問が浮かび、調べてみたら、
「調査の泥沼警報」が発令されたので途中でやめましたorz ←いつものやつ
わかったことだけ、ざっとメモφ(..)
・律令国家時代
→税金でまかなっていました。
太神宮役夫工米の制(だいじんぐうやくぶくまい)
ちなみに律令制の時代、私幣禁断(しへいきんだん)といって、
天皇以外の者が幣物を捧げることが禁止されていました。
皇后や皇太子であっても天皇の許可を得なければ奉幣できない
という厳粛な決まりがありました。
国家の政治を祈る聖なる宮と考えられていたからと言われています。
また崇神天皇(お引越し騒動)以来、
鏡に宿るアマテラスを恐れたため(疫病が鏡のせいともいわれたから)、
天皇が直接参拝することがなかったともいわれています。(明治天皇まで)
まぁ、お金もかかるし、道は整備されているわけではないですしねぇ。
で代わりに、歴代天皇は、占いによって選んだ未婚の皇女(または王女)を、
アマテラスに仕える斎王として伊勢へ送りました。
斎王は天皇に代わって最も重要な神宮の祭、三節祭に奉仕されました。
この斎王制度は約660年間続き、74人の皇女(王女)が斎王に選ばれています。
・御師(おんし)の活躍
→御師とは神社や寺院に属し、信仰を説き、資金集めをし、
参拝者の世話をしていた人々のこと。
全盛時代には伊勢の宇治(内宮)と山田(外宮)で1,000軒あった
と言う説もあるくらい数が多く、規模も様々。
彼らが遷宮の資金難を支えたのはもちろん、街道の整備も伴い、
江戸時代におけるお伊勢さんブームは彼らによるところが大きいとされます。
・安土、桃山、江戸時代
→遷宮上人と呼ばれる慶光院清順・周養の勧進により
織田信長・豊臣秀吉が遷宮費用を献納。
徳川家にも受け継がれ、造営奉行に命じて式年遷宮の全面的な協力にあたりました。
・明治時代
→造神宮使庁が官制として設けられ、国費からまかなわれます。
・第二次世界大戦後
→GHQの神道指令によって民間の奉賛に主軸が移行。
平成25年の550億の内訳は、
自己資金(初穂料や一般の寄付等)330億+財界と神社界からの寄付220億。
またそれとは別に皇室から御内帑金を賜っています。(週刊ダイヤモンドより)
<なんで20年に一度遷宮するのー?>
っていう疑問については、様々な方が書かれているのでポイントだけ。
よく言われているのが「技術継承説」です。
また木造建築はいずれ木が腐るので、あらかじめ予定を決めて準備しておくため、というのも言われていますね。
▽宇治橋と大鳥居
宇治橋は五十鈴川にかかる橋で、神域への入口です。
現在は、20年毎に架け替えされています。
外と内にある大鳥居は、内宮・外宮の旧正殿の棟持柱(むなもちばしら)が再利用されています。
さらに20年たつと、内側の鳥居は鈴鹿峠のふもとの「関の追分」、
外側の鳥居は桑名の「七里の渡し」の鳥居となり、さらにリユースされます。
橋を渡って参道を進みます。
▽五十鈴川と御手洗場(みたらし)
五十鈴川は、古来より参拝者が心身を清める清流です。
「御裳濯川(みもすそがわ)」とも呼ばれ、ヤマトヒメ(アマテラスのお引越しを手伝った皇女)が御裳のすそを濯いだことから名付けられたと伝えらえます。
参道の右手斜面を降りると御手洗場が見えてきます。
元禄5年(1692)徳川綱吉の生母、桂昌院が寄進したといわれる石畳が敷き詰められています。
ここでは手水舎と同じようにお清めができます。
うっかり石畳の写真を撮り忘れましたorz
なお、五十鈴川にはお魚さんが泳いでいました。 ←夫が唯一興味がわくスポット
いくつか鳥居をくぐって
まずは正宮へ
▽正宮 皇大神宮
神宮のお宮は「唯一神明造」という建築様式です。
茅葺屋根に素木の柱、という簡素な造り。
古代の穀倉の形を留めているといわれます。
正宮内は写真撮影不可のため、石段下より。
正宮への参拝後は、荒祭宮へ。
途中にある「御稲御倉」や「外幣殿」とかを見ると・・・
私的には「豪華なねずみ返しつき高床式倉庫」とでも表現したいところ。
写真は安定の取り忘れです。
▽荒祭宮(あらまつりのみや)
内宮の第一別院で、アマテラスの荒御魂がお祭りされています。
最後に御朱印をいただきます。
熱田神宮でも「シ、シンプルですね」と思ったのですが・・・
内宮も、・・・シンプルでした。
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伊勢神宮 内宮(皇大神宮)
住所:三重県伊勢市宇治館町1
HP:http://www.isejingu.or.jp/index.html
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<おわり>