泉谷しげるの功績は幾つかあるが、隠れた功績としては「海援隊を発掘デビューさせた」ことが挙げられる。
当時、両者ともエレックレコードというフォーク・レーベルだった。
(吉田拓郎や、古井戸、大瀧詠一が「ナイアガラ」を発足させた最初もここだし、ずうとるび、などもいた。)
そう、泉谷がいたからこそ、武田鉄矢が日の目を見たし、「金八先生」も存在しなかったろう。
金八先生がなければ、たのきんトリオも、上戸彩も、亀梨和也も、本仮家ユリカも、平愛梨も、三原じゅん子も、中尾明慶も、その他多くの俳優、アイドルたちが日の目を見なかったかもしれないのである。
そんな流れで、泉谷から海援隊ということで、豪雨注意報の中、町田まで行ってきた。

すごく大きな会場というわけではないが、それでもソールドアウトなのだから立派です。
前から9列目で、ちょうど2列前から一段づつ高くなってくるので、とても見やすい。
オンタイムでスタート。
普通コンサートだと、始まる直前に客電が落ちて舞台に演者が登場するが、この日は客電を落とさない状態のままで、ステージ上も素明かりの中、海援隊のメンバー3人~武田鉄矢、中牟田俊男、千葉和臣~が登場。
ステージ上は海援隊の3人のみで、サポートメンバーなどはいない。
そして、歌よりも先に武田鉄矢のトークが始まる。(笑)
さすがです。
トークで先に場内の雰囲気を作ってしまうのだから。
客席にいる1人1人の顔を見ながら、3人でアットホームな感覚を作るかのよう。
客電を落とさない理由はそのためか?
そして、自己紹介も含めた1曲目「フォークソング」(だと思う)を演奏。
1曲終わっては、武田鉄也の軽妙なトークが延々と続くのだが(笑)、話が上手く、必ず笑わせるので飽きない。
もう、この方の喋りは「芸」ですね。
全体通して、トークネタは博多時代や自分の母親のエピソードが多い。
本人も言っていたが、母親の話が押並べて受けが良いそうだ。
博多のライブハウスで活動していた頃、どんなに頑張っても先輩格の「チューリップ」の人気が凄く、その差を実感し落ち込んで家にいたとき、母親に「チューリップに勝てない」と呟くと母親が返した言葉が「チューリップなら、夏まで持たん!」と即座に言ったとか、福岡でフォークと言えば井上陽水が一番なのだが武田鉄矢の母は「井上陽水は好かん!金持ちなのに、“傘がない、傘がない”とか歌って貧乏くさく!」とのたまったそうな。(笑)
博多の中学の頃は、おかしな学友も多かったということで、ある級友が英語の授業中”This is a pen.”を疑問文にしろと言われ“This is a pen か?”と答え、試験で「私は東京に住んでいる」を過去形にして書きなさい、という問題を「拙者は江戸に住み申した。」と書いて提出したとか。(笑)
また、ある者は社会の歴史の授業中に居眠りをしていたところを先生に差され「本能寺の変で、本能寺に火をつけたのは誰だ?」と訊かれるも寝ぼけてゴニョゴニョ言うや、その先生が怒鳴り気味で「本能寺に火ぃつけたんは誰か!」と言うとその級友は「俺じゃない!」と叫んで学校を飛び出ていったと。(笑)
しかもオチもあって、心配した先生がその生徒の家に電話して、その母親に丁寧にあったとおりのことを説明して「本能寺に火ぃつけたんは誰か!」と言ったら学校を飛び出したと伝えると、その母親も電話越しに泣き出して「先生、弁償に幾ら払ったら良かとですか?!」と言ったとか。(大笑)
トークの一部は、テレビなどこれまでも披露した所謂「定番」ものも多かったが、場内は沸く沸く!
演奏よりトークの時間の方が長いです。(笑)
でも、よく見たらコンサート・タイトルも「トーク&ライブ」でした。
トークの次にライブが来てました。(苦笑)
2時間強のステージで、曲は10曲だけだったのでは…?(笑)
1曲目の「フォークソング」(多分)で、2曲目が「スタートライン」、「贈る言葉」と続き、4曲目は、2年前に心臓病で手術・入院した経験を歌にした海援隊ならではのコミカル調な詞の「病院へ行こう」
(ここで、イントロの途中で救急車のサイレンの効果音が入るタイミングで客席の照明が消え、ステージ上が真っ赤なライト一色になるという、意表を突く演出!)
その後、「思えば遠くへ来たもんだ」、「母に捧げるバラード」、「恋文」、「ノスタルジー」、「冬支度」、アンコールで「巡礼歌」。
アンコール込みで10曲ですって!
(あれ?あと1曲くらいあったかな…?)
個人的には、他にも聴きたい曲はあったんだけど、ここに曲を追加すると3時間以上は要するだろしね…。
個人的には、フォーク系の方々は音楽はもちろんだがトークでどれだけオモロイことを聞かせてくれるか?という楽しみも持ってるもので、痛し痒しといったところか?
南こうせつとか、谷村新司とか、故・天野茂(N.S.P)とか、ラジオの深夜番組などで定評のある話術でした。
そういった中で、この武田鉄矢、さだまさし、故・やしきたかじんの3名は、歌以上にそのトークのファンが多いですからね。
さだまさしは最近は同じ会場を2日連続で必ずおさえて「音楽の日」と「喋りの日」と1日づつわけてツアーをしてるとか?(笑)いや、画期的ですし、実際そうせざるを得ないでしょう。
他にも、面白い話、いい話、個人的に思うことも多々あるのだが、とても書き切れない。(苦笑)
でも、冒頭に記した海援隊発掘者の泉谷しげるが生活の視点からもっと離れた視点(より外側でも、より内側でも)の作風になったが、海援隊の作風はいつまでも一市民の生活に根ざしたものなのは変わっていない。
変わる凄さもあるが、実は変わらぬ凄さのほうが大変なことだと思う。
最代表曲の「贈る言葉」も22才の時の失恋時の思い出を、着飾ってきれいにした曲だが、実際にその失恋する時は地元のデパートかどこかの広場で「何で別れるとぉ?こんな好いとおんに!」(←正しい博多弁か判りません)とご本人としては必死に自分の愛を伝えたのだが、その女性は「女々しか!」と一蹴し、それでも懇願してみた挙句は「大きな声、出すわよ。」と言われたそうな。
コンサートも終り、やはり気分的に「贈る言葉」を口ずさみながら、川っぷちの土手など歩いて桜中学にでも行ってみたいが、ここは町田市。
金八先生のロケ地は下町の足立区。
でも町田なので、森山高校へ足を運ぶことにした。
ん?森山高校って…。
続く。(笑)