井上章一著『京都ぎらい』朝日新書
京都では、今に至るも、「洛中」と「洛外」の地域意識があって、
その意識が差別意識に結びついて現出するという指摘がメインになるのだが、
そこまで踏み込むのならば、
京都という都市における階級・階層構造と位階秩序についてまで語るべきだろうと思うのである。
よくある「京都もの」の刊行物で、
西陣で生まれ育ったという京都人が、
その暮らしの伝承などをディープな「京都論」として著したりしているのだが、
それが京都を語り尽くしているかどうかについては、はなはだ疑問なのである。
京都は職人の街であるということは確かだったのだが、
その基盤たる地場の伝統産業が衰退するにつれて、
職人が「作家」を僭称してその仕事に「付加価値」をつけようとする。
実体的な生産活動から遊離したところで、幻想を振り撒いているような具合で、
今や、京都は「情報都市」であろうとしているわけで、
「情報」をうまく発信して幻想を振り撒き、観光客を集めての「消費都市」になろうとしている。
京都の「いやらしさ」の根元は、こういうところにあるのであって、
「総掛かりでの共犯関係」が成り立っている。