川柳で 韜晦もする 年の功


しばらく、川柳でものを語ろうと思います。


たいしたことが語れるわけでもないでしょうが。


技術論を川柳にするわけにはいきませんので、マジな論述もしていくつもりです。


なお、職業柄、HPを設けておりますのでご参覧いただければと存じます。


 従前よりのHP  → http://miwa-sokuhan.com/ (2017/03/01 リニューアル)


 新たに設けたHP → http://www.eonet.ne.jp/~geiji/



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2017-11-20 11:14:09

島田裕巳著『反知性主義と新宗教』イースト新書

テーマ:読書生活

今年(2017年)2月の刊行だから、いささか旧刊に属する。

先日紹介した新刊の角川選書の『日本の新宗教』とほとんどその新宗教教団の紹介部分は同じだから、

言ってみれば、「同じネタの使い回し」かと思えるわけで、

幾ら読み重ねてみても、実はよく分からないという点も同じである。

中味が薄いというか、

新宗教教団の、教義はこう、活動はどう、と説明されても、

信者の側の、

入信の動機や経過はいかなるものであったか、

信仰生活はどうであるか、等々の、「実態」が踏まえ切れていないから、

A教団に入信するか、B教団に入信するかは、ほとんど偶発的な切っ掛けによるものとなりかねず、

そうなると、信者の側から言えば、A教団かB教団かの違いはほとんど意味がなくて、

何かの教団に「帰属する」」ということのみが意味のあるということになりかねない。

犯罪学の世界で、「実は、詐欺被害に遭いたがっている、騙されたがっている」という被害者像が呈示されるのだが、

「何かを信じたがっている」という要求に、教団がうまく付け込んだという図式も垣間見えるのである。

 

この点を刺して、「反知性主義」と概括してしまうのは乱暴に過ぎるだろう。

 

反知性主義というのは、政治的なテーマにおいて提起された結論に対して、

恣意的で独善的な決め付けに過ぎるから、

「お前はアホか!」とレッテル貼りをするためのタームなのだが、

このスタイルを新宗教研究で用いれば、

研究対象に頭から難癖を付けることを意味するから、

そもそもがわざわざ研究対象として採り上げるまでもないということに帰着するだろう。

だから、と言って良いだろうが、

島田先生の「研究」は、紙の上での資料の取り纏めに終始していて、内容が薄い。

新宗教が遭難した事件について、

大きくなったから国家権力の側からの疑念や危機感を将来し、治安維持法事件と化したというのは、

小さければ、小さい内は、弾圧を招くという心配はしなくて済むから、

何事も程々にしておけ、という話になって、

そんな教訓話で済まされてはやるせないのである。

 

日本の宗教史をひもとけば直ぐに分かることなのだが、

神道というのは共同体の祀りであり、仏教は国家仏教として移入された。

元々が、社会共同体なり国家の精神生活の「補完物」なのであって、

従って、社会・国家についていかに役立つものであるかがその存在意義となってきていた。

しかしながら、信仰というものは徹底されればアジールの実現に向かうものであるか、

社会・国家に対して「よらしむべきもの」が「よらしまない」ということになれば、

当然、その存在は危険なものとして排撃・排除される。

近世前夜において、

「百姓の持ちたる国」となった一向一揆に対して、徹底的な殲滅が試みられたし、

「不受・不施」のスタンスを主張した日蓮宗の一派も、徹底的な弾圧を受けた。

「私らのことは好きにさせてくれ、放っておいてくれ」というのが信仰集団のスタンスなのだが、

「好きにさせておけるかい、放っておけるかい」というのが社会・国家の側の姿勢なのであった。

近世の徳川政権の下では、直接的な政教関係を伏せて、

本末制度なり寺壇制度として宗教の側の自己統制に委ねながら、

寺社法度という法的コントロールの下に置いたのだが、

(以前、ある神社で、徳川幕府ががこの神社に境内所有地を保証した「黒印状」なるものが展示されていたのだが、

 幕府は、寺社の権利を具体的に保証しつつ、体制統治の一環に宗教を組み込んでいたのである。)

この当地スタイルが明治維新後も近代化されていったと理解できる。

 

この点は、現在にあっても基本的には変わっていない。

 

宗教というものは。世のため・人のために役立つものでなければならないから、

経済的なトラブルや世俗の事件を引き起こすなどといった不祥事は決して許されないという、

そういう外的圧力の下で宗教活動が営まれるのだが、

宗教という、本来は「国家を超えるべきもの」を伏在させたものが、

厳格に法的コントロールの下に置かれていると見なければいけない。

そんな情況の下で、

宗教というものは成り立っていくのか、その本来の使命が実現できるのかという点の疑問はある。

だからこそ、この点の究明が必要とされる。

 

 

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2017-11-19 16:43:09

紅白歌合戦 2017 出場者決定

テーマ:演歌・歌謡曲

今期期待が持てる出演者というと、

エレファントカシマシ に尽きる。

まだ現役で頑張っておられたのかという、私自身の不明を詫びなければならないが、

あるいは、なぜ今エレファントカシマシか?という疑問も生じる。

 

今まで頑張ってきた現役の大物が次々に「卒業」してきている昨今、

それに替わる実力と実績のある歌手があったかどうか、

過去に遡って探索していくと、ここに突き当たったということだろうか。

 

何のかんのと、「忖度」と「贔屓」とでジャニーズを盛り込んでいては、

番組というか、この国民的歌謡祭がスカスカになってしまうから、

制作陣としては、結構、危機感が深かったのかも知れない。

 

エレファントカシマシと同時期にデビューして活躍した筋肉少女隊というロックバンドもあったのだが、

二組とも出せばいっそう盛り上がっただろうと思う。

 

あの当時(1980~1990)というと、

数々のロックバンドがメジャーデビューを果たして盛り上がっていたのだが、

フォークの世界と同じで、

独自な世界観を打ち出すバンドはなかなか一線に躍り出ることができず、

今に至っているのだが、

これを機会に、当時のロックバンドが再評価される機運が出ると良いと思う。

 

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2017-11-18 15:38:59

幻想空間

テーマ:日本宗教

紅葉の季節の真っ只中に、

観光客を少なからず集めようと、

とうとう宇治の平等院が夜間のライトアップを始めるらしい。

 

春の桜の季節と同様に、

紅葉の季節をライトアップで荘厳するというのは、

既に他の所でも施行されてきたわけだから、

「何を今更」という気もするのだが、

宇治の平等院については「さもありなん」と妙に納得させられる。

 

そもそもが、藤原頼通が極楽浄土をも模して作り上げた「幻想空間」であったのだから、

その「幻想」を現代的に昇華させる試みということは理に叶っている。

もっとも、『十訓抄』に、

釈迦が説法している光景を眼前にして有り難がったその光景が、

一瞬して消失して、

これは天狗の所業かと惑乱した話があって、

この註訓者は「主旨がよく分からない話」と難じていたのだが、

その当時は「これが浄土だ!」とばかりに浄土図が数多制作され布教に活用されたのだったが、

どれもこれもでっち上げの「幻影」を尤もらしく描いただけのものと皮肉った話なのである。

 

日本の浄土教史において、

浄土は西方にあるだろうとか南方にあるだろうとか、

私たちの現実世界の外に実在していると考えられたり、

否、私たち衆上の心の中にあるとかの議論があって・・・と考えられたり、、

そんな議論が今でも交わされているのだが、

私たちの生きる信仰世界に確かに存在しているわけで、

あるいは、浄土というものを仮想的に設定しないと浄土信仰が完結しないという位置づけがなされたものと、

そういように考えられることができる。

従って、現実にこの世界に存在するものを浄土の仮託世界とみなして、

それをいかように荘厳しても、

単なる「まがい物」なる「幻影空間」をもたらすだけのものでしかないだろう。

 

ライトアップによって観光に付加価値を付けるという手法は如何にも「あざとい」のだが、

それならそれで、

法華経に見られる如く、

仏がいます世界は光が溢れんばかりに充ち満ちている世界だと言って見せればまだ論理が一貫する。

 

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2017-11-17 10:14:23

二間瀬敏史著『重力で宇宙を見る 重力波と重力レンズが明かす、宇宙のはじまりの謎』河出書房新社刊

テーマ:読書生活

重力波を確認したということでノーベル賞が授与されたのだったが、

予めそのことが予期されていたのかどうか、

重力波に関する解説書が相次いで刊行されている。

本書もその一環かとも思えるのだが、

個別テーマの解説というよりも、

現在の宇宙論の研究情況について、何が分かって何が分かっていないかを丁寧に解説したもの。

 

私らの関心の向き方として、

何を研究テーマとして設定されるかという、その研究史的な理論情況を背景にして、

その観測手段について、どのように構想して現実に構築するかという工学的な開発、

その観測結果に基づいて、どのような結論が導かれるかという理論的な集約という、

つまり、一体何だったんだ?という疑問があるのだが、

そういったことについて実直に答えてくれる。

 

天文学の分野では、理論屋と観測屋という峻別がなされているようなのだが、

理論なくして観測はあり得ず、また、

観測なくして理論は成り立たないわけだから、

さまざまな知見をまとめ上げていく作業というのが宇宙論の現在ということになるのだろう。

 

 

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2017-11-16 14:56:57

JAVAのお勉強

テーマ:職人暮らし

ある程度の(かなりの?)日数を経てきたのだが、なかなかに難儀している。

 

依拠している教科書・参考書の類は以下のとうり。

 

①三谷純著『JAVA 入門編 ゼロから始めるプログラミング』翔泳社刊

  三谷純著『JAVA 実践編 アプリケーション作りの基本』翔泳社刊

 

②高橋麻奈著『やさしいJAVA』(第6版)SBクリエイティブ刊

  高橋麻奈著『やさしいJAVA 活用編』(第5版)SBクリエイティブ刊

 

③川場隆著『わかりやすいJAVA 入門編』秀和システム刊

  川場隆著『わかりやすいJAVA オブジェクト指向編』秀和システム刊

  川場隆著『新・わかりやすいJAVA 入門編』秀和システム刊

 

他にもさまざまな参考書を読まないといけないのだが、

何せ、膨大な分量だから、ただひたすらよみこむどりょくの日々ではある。

 

どんな分野であれ、新たに学ぼうとする場合、

簡単に全体像が把握できるような入門的ガイダンス本から始めて、

標準的な教科書を読み、

次いで、個別なテーマを扱った専門的な著作に進むというのが定番な手順なのだが、

プログラミング言語の習得の場合、

全体の言語仕様が個別のルーチンに凝集され流という性質を持つから、

個別の前に先ずその全体を、という進め方になる。

 

Eclipseを使って修得に励むのだが、

これ自体が使いこなせるまでにかなりな修練を要するので、

なかなか一筋縄ではいかない。

 

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2017-11-15 14:13:15

末木文美士著『思想としての近代仏教』中公選書

テーマ:読書生活

斯界の第一人者である末木先生の新著。

仏教学習というと、

いわゆる鎌倉新仏教の勉強から始まり、それで終わるという場合が多く見受けられるのであるが、

現代に生きる私たちにとっての現代仏教を学ぶためには、

明治維新後の近・現代仏教の歴史と思想を学ぶべきなのである。

 

なぜならば、二つのハードルが存在しているからなのである。

 

一つは、例えば、宗祖親鸞の思想を誠実に学ぼうという場合、

そもそも親鸞は何を語ったかを学ぶことは現在の新宗教団のありようとの「乖離」を学ぶことになり、

学べば学ぶ程に宗派との距離感が拡がるということになる。

「宗祖に戻れ!」ということは、現在情況に対する批判を込められているのである。

それがもっと進めば、「釈尊に戻れ!」と、大乗非仏説論から原始仏教の再読へと向かうわけで、

仏教を、その信仰思想を学ぶということは、仏教の無制約な相対化に向かってしまうのである。

 

二つは、日本の仏教史にあっては、その歴史は権力と随伴する「随走者」であったという視点である。

宗教というものは、そもそもが、国家・権力を超えたものであるという決め込みがあって、

国家・権力が宗教に容喙するということは本末転倒なことで、

逆に、宗教が国家・権力を導く指導原理であるという立場が強調されたりする。

実態的には、宗教は国家・権力の合法性・適法性の枠内にのみその存在が許されて、

一途に国家・権力を荘厳するという役割を期待されたものと見ることができる。

この点は宗教研究においては常に意識されてきたようで、

近代日蓮宗運動(田中智学の国柱会)が改めて関心を集めることになっているのだが、

議論の中味としては矛盾を抱えた妙なことになっている。

つまり、

立憲主義の憲法秩序の下では、「政教分離」という原則は厳密に護持されなければならないとすると、

宗教は国家の合法性・適法性の下でのみその存続が認められるということを意味するのだが、

宗教というものは、

思想・信条の自由、信教の自由、表現の自由、結社の自由・・・といった、近代憲法的自由権の中核をなすものなのだが、

その自由権というものが、実は、そのことごとくが国家の合法性・適法性の枠内でのみ許容される権利であるということを意味する。

立憲主義を強調するということは、個人・団体の自由権を制約するべき原理を含むということなのである。

従って、国家・権力を丸ごと乗っ取りして、自らをアジールとして構築することが真の宗教的自由権を確立する道であると、

そういうことが宗教活動の究極目標と自覚されるに至るだろう。

その観点でいえば、かつての日本共産党と創価学会との「抗争」も、実は、権力奪取を目論む戦略問題であったと見える。

 

このような観点から近代宗教史を顧みれば、

例えば、

 下斗米伸夫著『神と革命 -ロシア革命の知られざる真実』筑摩選書

ボリシェビキの革命運動が、ロシア革命の遂行過程そのものが、ロシアでの宗教運動に乗っかっていたという指摘があって、

歴史に《IF》はないとはいえ、

共産主義革命運動と日蓮主義国家運動とが相乗していたならどうなっていたかと考えれば、いろいろな読み取り方が出来得る。

もっとも、理論はマルクス・レーニン主義であっても実践的には真宗思想に乗っかった儒教的エトスが強く、

真宗思想と共産主義思想との間では「乗り換え自由」といった歴史があったから、

日蓮主義国家運動の方がむしろ「異端」であったと言えるかも知れない。

 

 

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2017-11-14 16:30:11

「とんづらをかく」

テーマ:職人暮らし

「とんづらをかく」というのは、

漢字表記だとどうなるのか確かなことは分からないのだが、

要するに、「逃げる」ということなのだ。

が、

逃げるにも逃げ方というのがあって、

何が何でも眼前のいざこざから身を遠ざけて、

一切なかったことにしてしまいたいという根性で逃げることで、

「私には何の関わりもなかった」という態を装うのだが、

当然、指弾され責任追及され、大きな恥をかくのだが、

それでもひたすら逃げるという「狂態」をいう。

 

希望の党の小池共同代表が、その共同代表の職を辞任するという。

当然そうなるだろうとは大方の予想だったのだが、

そんな大方の予想通りに事態が動くというのが、今回の騒動の本質を物語る。

「都政に専念する」というのだが、

これもまた、「とんづらをかく」ことになるんだろうなぁというのが、大方の予想になる。

 

昔々、野坂昭如さんの小説に『騒動師たち』というのがあったのだが、

それを現代風に再現したみたいな話なのである。

ひどく分かり易い話なのだが、

二番煎じ、三番戦時というのがこの政治家の本性だから、

分かり易いだけに、一挙にブームになって、

分かり易いだけに、一挙に熱が冷めた。

 

選挙をゲームにしてしまったわけだったから、

その後の党建設というものも展望できないから、

党代表を選出してみても、誰もその者に付いていくべき理由がないから、

「立ち腐れ」になっていくことだろう。

この党が「憲法がどうたらこうたら」というのも、100年早い。

「面を洗って出直して来い!」と言うべき所なのだが、

次の選挙ではほとんどがその姿を消しているだろうから、その存在に何の意味があるだろうか。

 

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2017-11-12 08:14:01

バカにするにも程があるか?

テーマ:職人暮らし

近くに民泊施設が開業したようで、

見知らぬ通行人の姿を見掛けるようになった。

 

京都観光が今ブーム的に盛り上がっているようで、

社寺仏閣を参拝したり、京の街の風情に浸るような趣があって、

それはそれなりに楽しいものではあるだろう。

 

若い女性が二人で街を散策するといったシーンだったのだが、

それが、

派手目ながらの「浴衣姿」で、

この寒空に浴衣を着せるンかい!?」

 

古都の佇まいには和装が似つかわしいというのはある種の「思い込み」で、

その「思い込み」に付け込んで、

浴衣を貸し出す業者さんが多いらしい。

和装の着付けは簡単にはいかないし、高価な和服を貸し出すというのも憚られるから、

簡便な和装=浴衣、という図式が成り立つのだろうが、

「着回し」をするから、随分とひどいものを貸し出しているようで、

当のご本人たちは、いわれたままに着込むことになるのだろうが、

「知らない、弁えがない」ということに付け込まれて、とんだ恥曝しなことになる。

 

「写真は撮るなよ、

 京都観光に行ってきた、こんな姿にチャレンジしてみた、等と自慢するなよ、

 見る人が見ると、こんな恥曝しな扱いを受けて、怒らなかったのかい?と笑われ呆れられる。

 

京都観光というのは、

京都の街の「外の人達」に対するスタンスというのは、

「おもてなし」とか「一期一会」などと、もっともらしい言葉で粉飾しているのだが、

言われた通りの所を巡って、

言われた通りに消費して、

言われた通りに「納得」して、

言われた通りに「感動」して、

黙ってさっさと帰って、「京都は良かったわぁ」と周囲に吹聴して回ってくれ、という、

そういう「本音」がシステム化されている。

こんなことをしていると、いずれ、京都は見捨てられるという心配を、私らはしている。

 

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2017-11-08 15:33:02

「明日の約束」:関西テレビ系列

テーマ:職人暮らし

主演の井上真央さんというと、

以前にNHK大河ドラマで吉田松陰の妹を演じた時には、

何とも存在感が稀薄な役者さんでしかなかって、

何が期待されて主役に抜擢されたか意味不明なままに終わっていたので、

たいして期待もせずに初回から見ることになった。

テーマが重たいドラマだから、「棒読み台詞の演技でもそれなりに、かぁ」といったところだった。

 

しかしながら、そんな「期待」は見事に裏切られて、

初回よりは第2回、第2回よりも第3回・・・と、

回を追うごとにドラマの展開に没入させられることになった。

 

井上真央さんの演技が素晴らしいのだ。

 

クラス担任でもなく、学校管理職でもなく、

スクールカウンセラーという言わば第三者的な立場から真実を知りたいと関わるのだが、

職務としての立ち位置から関わろうとしつつ、しかしながら、第三者的な距離感をともすれば保てずに、

自分自身がそこに投影されてしまいそうな戸惑いが、実に繊細に描かれる。

このような微妙な演技表現ができる役者さんだとは思っていなかったから、

この人がいなかったなら成り立たなかったドラマだと思う。

 

もちろん、役者を生かすも殺すも「脚本」と「演出」なのだが、

一人の男子高校生の自殺が引き起こす「波紋」の連鎖を、

淡々と、しかしながら、情況の全体像を描き出そうというドラマ展開は、

ここしばらくテレビではなかった試みであることは間違いない。

最初は「毒母」がもたらすサイコ・サスペンス・ドラマかと見ていたのだが、

これは、仲間由紀恵さんがかつて主演したTVドラマの印象が強かったため、

その焼き直し企画かと考えてしまったからなのだが、

母親として強烈に動き出す仲間由紀恵さん(これは、本当に不気味だ)に対して、

ともすれば、その「毒」に引き摺り込まれる「弱さ」を抱える井上真央さんの立ち位置の好対照が、

井上真央さんの好演技をくっきりと浮き彫りにしていると見える。

 

この先どういう展開が待ち受けているのか、予想も付かないのだが、

「表現すべきものはきちんと表現する」という、制作陣の「覚悟」が窺えて、

私ら視聴者としても「見るべきはきちんと見る」という姿勢でなければいけないことだろう。

 

残念なことに、このドラマの視聴率が振るわないらしい。

その理由が「テーマが重いから」というのでは、ある種の「食わず嫌い」かと想像できる。

他の出演者の演技を見ても、

及川光博さんの演じる教師の、

教師としての自責の念と矜持とがないまぜになって事態の解決に取り組む姿はその通りだし、

生徒たちや、他の教師、クラブ顧問の対応も、その通りだと納得できるものとなっていて、

つまり、その原因にしろ何にしろ、「分からない」という戸惑いが深く演じられている。

制作過程が、余程丁寧に準備されていると、つくずく思う。

 

このような良質のドラマがある一方で、

アホみたいな、

がん首を並べておきさえすれば何とでもなるというようなドラマもあることは事実で、

そんなことをしているから、役者さんが「爆死する」といった事態が惹起してしまう。

 

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2017-11-05 16:01:59

島田裕巳著『日本の新宗教』角川選書

テーマ:読書生活

現代の新宗教(新・新宗教)の世界では、

その所属信者数が著しく減少をきたしてきていることが指摘され、

その原因として、いわゆる精神世界の流行に求められたりしていたりするのだが、

要するに「平成不況」が長く続いたことによって、

各宗派が保障すべき「現世利益」が有効に機能しなくなったから、

当然の如く、役に立たない信仰はあっさりと捨てられる結果でしかないと考えている。

「現世利益」を強調するということは、

信仰という行為に対する反対給付が実得されないといけないのだが、

その反対給付が実得されなければ、

信仰に関わる負担というものが丸っきりの「無駄」に帰してしまうのである。

反対給付が期待できないのであれば、自分探しにいそしんだ方がまだマシとみなされる。

 

「信仰」とは何か、何を以て「信仰」というか。

 

実は、この点が曖昧なまま、研究がなされてきているのだが、

ほとんど何も解明されないままにあると思える。

 

国家神道そのものも、きちんと解明されているとは理解しがたい。

アマテラスとスサノオと、どっちがどうという論争は結局決着されはしなかったのだが、

ツキヨミ(月読命)はどう位置付けるのかはほとんど顧慮されていない。

(しかしながら、月読命を主祭神とする神社は全国各地に散在している。)

3つの命がセットで神話世界に登場しているのだが、

仏教でいうと、ご本尊と脇侍仏で3体セットで祀られている例に事欠かないのだが、

そう言えば、アウグスティヌスの三位一体説も3点セットであるのだが、

古典古代の宗教観においては、3という数値は何か特別な意味合いがあったのかも知れない。

 

もっと不思議なことは、

サルタヒコ(猿田彦)を祀る神社は、数の上では圧倒的なのであるのだが、

このサルタヒコの正体がはっきりしないと指摘されている。

サルタヒコというのは、天孫降臨に際してこの地上で道案内を務めた地神であったのだが、

詰まるところ、

天孫に対して「お役を務めます」とばかりに寄り添おうとした神なのであって、

アマテラスという最高位の神に対して、その神々の体系の下での最下層にあって、

ひたすら「お役に立つ」事を使命とする神を祀り上げて、

そんな神を地域の氏子連は伏し拝むということで、

国家神道の体系に全国津々浦々の民衆全体を包摂しようという事を意味するから、

近代以降の国家神道の末端舞台装置だと考えられるわけで、

従って、サルタヒコとは何者か?という問題は、国家神道とは何か?とイコールになる。

うかつには手が出せない領域になりかねない。

 

(この項続く)

 

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