山の猟師が獣道に罠を仕掛けるように、海の漁師は魚道に罠を仕掛けるのです!!!!! | 浮き釣りの原点回帰~時は末政・心は元禄、釣り人が遊ぶ詩小説とプチ哲学~

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 ■不定期更新(毎月1日にチャレンジ中)


 ①雑感~事に逢(あ)えば心を生じ、事すぎればまた無心(荘子)⇒このブログのすべては、個人的なメモ帳、そのものです。


 いつか、どこかで、下記の様に、ネットの書き込みがありましたが、これって、この時代の、国際的な、最新のアフォリズム(警句。事の真実を簡潔に鋭く表現する言葉)、ではないでしょうかね。


 「どこにいてもテロを忘れず、
 銃声らしき音を聞いたらすぐに安全な場所を探して隠れるか、
 ひたすら遠くに逃げろ!!!!!」



 そうなのです、これって、

 学校や職場のいじめっ子と同じ、
 街中の権太と同じ、
 ひったくりと同じ、
 振り込め詐欺と同じ、
 交通の事故と同じ、そして、
 地震や津波と同じ

、つまり、

 人の世と生の、事実、現実、そして、真実

、このことではあんめーか。

 ああ。 (-。-;) 


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 ②竹田青嗣・西研のヘーゲル解読 6

 
 (以下のものは、わたしが、引用し、抜粋し、編集したのですが、お断りするまでもないことでしょうが、これは、あくまでも、わたしの自己責任、に他なりません。)


 まず、社会、このことです。

 社会、この言葉の意味は、人が他と関係しあいながら生活する時空間、のことなのでしょう。

 ネットの中には、社会について、たとえば、次の説明があります。


 社会・・・(『ウィキペディア』)

 社会は人口集団、都市形態、経済発展、政治体制、宗教などによって多様性を観察することが可能であり、時代や地域によってさまざまな社会の形態を見ることができる。


 社会は広範かつ複雑な現象であるが、継続的な意思疎通と相互行為が行われ、かつそれらがある程度の度合いで秩序化、組織化された、ある一定の人間の集合があれば、それは社会であると考えることができる。

 社会を構成する人口の規模に注目した場合には国際社会や国民国家を想定する全体社会や都市や組織などの部分社会に区分できる。

 さらに意思疎通や相互作用、秩序性や限定性という社会の条件に欠落があれば全てを満たす社会と区別して準社会と呼ぶことができる。


 人間は誕生してから死去するまで社会の構成員の一人であり、また社会の行為者でもある。

 都市または農村において育ち、家庭や学校などでさまざまな教育を受けながら成長する。

 この過程で社会に存在している規範や法、宗教や芸術などの文化に触れ、そして家族外の人間関係を拡大していく。

 これは人間の自我の確立と同時に社会化の過程でもある。


 成熟してからは自営業で、または政府機関や企業や軍隊に入り、労働を通じて報酬を得て生活する。

 これは国民社会、地域社会、家族などの多重的な社会関係を構築する人間の組織化であり、また分業化された社会における協働という社会交換の過程である。

 このように人間は、社会を形成すると同時に形成され、社会に働きかけながら社会から働きかけられながら活動している。



 ・・・・・


 それでは、本題に入りましょう。

 次の引用は、ランダムに拾い読みをしたものですが、いずれも、人間と社会、に関することですね。


 人間とはどんな『存在』でしょうか。

 人間とは、つねにある可能性へ向かうような存在、つまり『欲望』する存在です。

 でもこの『欲望』は動物のそれとは大いに違います。

 人間の『欲望』は、まず『自己への欲望』です。

 だから人間は何よりまず『自我』として生きている。

 しかし『自我』は『自己への欲望』だから、潜在的に『他者を求める欲望』でもあるのです。(・・・)

 人間は『自我』自身であることを捨てられないが、それはまた『他者』なしには成り立たない。

 人間の『欲望』は、そういう自己と他者の折れ曲がった『関係』の中に投げ込まれています。

 この『関係』が、じつは『ルールの網の目』なのです。(・・・)

 人間の生は、半分は社会との闘いですが、あとの半分は自分との闘いです。
 
 (『A Super Guide to Philosophy 愚か者の哲学』竹田青嗣、主婦の友社)
 


 もちろん、広義の社会=狭義の社会+人間、とまあ、こんなことでしょうから、安易に、人間と社会を分離すること、には無理があるのですが、しかし、とりあえずは、便宜上、人間は社会と自分を結ぶ時空間を生きる、そして、もちろんのことですが、闘いには、ルール(⇒決まり、作法)、がある、とまあ、こんな風に解釈してみましょう。

 一般的な、言葉の定義のことですが、社会、この言葉の類語には、世、世の中、世上、世間、巷間、人の世、浮き世、人中、人の輪、人間関係、ネットワーク、人と人の繋がり、天下、人倫、そして、世界、とまあ、これらの言葉があるようです。

 つまり、社会、この言葉の意味は、人が他と関係しあいながら生活する時空間、のことなのでしょう。


 ・・・・・


 次に、自我、このことです。

 自我、この言葉の意味は、自分が経験し身体化したルールの束⇒感受性、世界を感じる能力、つまり、そんな、こんな、自分、のことなのでしょう。

 ネットの中には、自我について、たとえば、次の説明があります。


 自我(じが)・・・(大辞林)

 自分。
 自己。
 意識や行為をつかさどる主体としての私。
 対象(=非我)や他者(=他我)から区別される。
 他我もまた一個の自我である。
 人格や作用の中枢として,認識の根拠・道徳的行為や良心の座となる。
 自分自身に関する主体としての意識の総体。



 ・・・・・


 それでは、本題に戻りましょう。

 次の引用は、拾い読みをしたものですが、いずれも、自我、に関することですね。


 最初にもつ『価値のルール』は親から与えられる。

 子どもは山ほどルールを覚えなければならない。

 だれでも(・・・)お母さんやお父さんに叱られながら、少しずつ生育していきます。

 ここには、じつは人間が、いろんな決まり、つまり『ルール』を身につけることで『人間』となる、という事情が象徴的に現れています。(・・・)

 子どもはつねにたくさんのルールを親から与えられて育ってゆく、ということです。

 はじめて与えられるルールは『だめ』という禁止。

 そもそも、大人と子どものはじめのルール関係は、『禁止』です。(・・・)

 人間の子どもは、いつでもたくさんの『ルール』を与えられて育ちます。

 考えてみれば、そもそも『言葉』がすでに一つのルールです。(・・・)

 子どもは、じつは恐ろしくたくさんのルールを貯めこんで育っていくことが分かります。

 人間が人間になるのは、こうしていつの間にかルールが貯まってくることによってなのです。

 そして、大事なのは、われわれは、自分の中に積み重なったこのルールの束を意識していない、ということです。

 このルールの束がいわば人間の『自我』です。(・・・)

 人間がいつの間にか身につけるルールはおびただしいものなので、そういうものをいちいち意識的に覚えているわけではありません。

 むしろたくさんのルールは、”忘れ去られる”のです。

 そしてじつはこれが、人間の『自我』というものの秘密です。

 『自我』とは何でしょうか。(・・・)

 『自我』とは、いろんな感覚、感受性、美意識です。(・・・)

 『あ、これステキだ』、とか、『これ、こわい』といった情動は、その大きな部分が、親から与えられたたくさんのルールがいつの間にか”身につき”、そして、”忘れられた”ことの結果なのです。(・・・)

 『自我』は感受性、世界を感じる能力です。

 でも人間の世界を感じる能力は、じつはルールの束なのです。

 これが、哲学による人間学の、はじめの一歩です。

 動物の生活は、だいたい本能によって秩序ができています。

 しかし、人間は本能の代わりに、むしろルールの束を作ってそれで生活の秩序を作りあげている、と言えるのです。

 でも、ルールは本能とちがって、自然に形成されません。

 人間はルールの束として作りあげられるのですが、そのため、これがうまくできないといろいろ不具合がでてくるのです。(・・・)

 まずここで確認したいことは、『自我』とは、すなわちこのさまざまなルールの束であるということです。

 (『A Super Guide to Philosophy 愚か者の哲学』竹田青嗣、主婦の友社)
 



 フー。 (;^_^A 

 整理してみましょう。


 『自我』は感受性、世界を感じる能力です。

 でも人間の世界を感じる能力は、じつはルールの束なのです。

 『自我』とは、すなわちこのさまざまなルールの束であるということです。
 
 人間はルールの束として作りあげられるのですが、そのため、これがうまくできないといろいろ不具合がでてくるのです。

 (『A Super Guide to Philosophy 愚か者の哲学』竹田青嗣、主婦の友社)



 オー。 (*´σー`) 

 そうなのです、人間は、そして、だから、社会は、ルールの束、なのです。

 そりゃ、あなた、色んな人間にも、色んな社会にも、それぞれの、色んなルールの束、があるのです。

 三者三様、十人十色、百人百様、千差万別、そして、・・・、なのです。

 自然法上は、どれが、正しいとか、間違っているとか、そんなことを裁く権利は、誰にもないのです。

 もちろん、誰であれ、それぞれの、自分の、自我⇒色んなルールの束⇒感受性、世界を感じる能力、があるのです。

 そうなのです、さらに、もう一度、繰り返しますと、自我、この言葉の意味は、自分が経験し身体化したルールの束⇒感受性、世界を感じる能力、つまり、そんな、こんな、自分、のことなのでしょう。

 アー。 (;´▽`A`` 
 
 そんな、こんなで、とにもかくにも、とりあえず、さらに、さらに、さらに、もうひとつおまけに、さらに、学習のスピードを上げて行くことにしたい。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 ③釣り遊びの6W2H 6


 「6W2H」・・・(『「iso.labo(イソラボ)」』)

 What 何を 【 仕事の内容、種類、性質、分量 】
 Why なぜ 【 意義・目的、動機、理由、狙い、背景、必要性 】
 Who 誰が 【 組織、担当、グループ、中心人物、役職、人数、主人公 】
 Whom 誰に 【 相手、関係、人数 】
 When いつ 【 着手時期(タイミング)、期限、時間、納期、スケジュール、季節、頻度 】
 Where どこで 【 場所、位置、職場内外、屋内外、出先、舞台 】
 How どのように 【 手段、方法、段取り、テクニック、進め方、期待度 】
 How much いくら 【 数量、予算、単価、範囲 】

 5W1Hの原則に対しては、近年では、「何人に対し(to Whom)」と「どれだけ(How much)」も加えて6W2Hとするなどのバリエーションがある。
 いくら(予算)を用意するかにあたる(How much)を追加した6W2Hは、事業計画をたてるときの基本。



 ・・・


 5.どこで(Where)


 段差底層釣りは、等高線ならぬ等低線に沿って、その側壁のキワを釣るのですがね。

 そして、もちろん、おおむね、近郊の湾奥の波止場、とまあ、そんなケースです。

 そうなのです、足下から、真正面に、海の底には、おおむね、段差、が伸びています。

 釣り座の真正面が、海岸線に対して、直行しているのなら、おおむね、海底は、等高線ならぬ等低線が、浅場から深場へと、伸びており、そして、反対に、平行しているのなら、おおむね、海底は、等高線ならぬ等低線が、前方へと、平坦に、伸びています。

 釣り座の真正面が、海岸線に対して、直行しているのなら、おおむね、ポイントを1点に絞り、アタリを取りながら、アタリを誘いながら、横一文字に、仕掛けを流し、そして、反対に、平行しているのなら、おおむね、ポイントを1点に絞り、アタリを取りながら、アタリを誘いながら、縦一文字に、仕掛けを戻します。

 いずれにしましても、1点に絞るポイントは、海底の段差のキワにある底層、です。

 海底の段差は、沈んだり、横に寝たりする、浮きの変化を見て、探ります。

 底層は、おおむね、海底から1m前後までです。

 海底の段差のキワにある底層、これこそが、比較的、多くの、魚種の、魚道、であり、食層、です。

 同じ、魚道、であっても、泳層、とか、逃層、なんぞは、食層、ではありません。

 山の猟師が獣道に罠を仕掛けるように、海の漁師は魚道に罠を仕掛けるのです。

 比較的、多くの、魚種の、魚道、である、食層、を、段差底層釣りの仕掛けが、ユラユラ、フラフラ、そして、ピクピク、舞い踊るのです。

 ポイントは、海底の段差のキワにある底層、です。  

 底層は、おおむね、海底から1m前後までです。

 海底の段差は、沈んだり、横に寝たりする、浮きの変化を見て、探ります。

 段差底層釣りは、等高線ならぬ等低線に沿って、その側壁のキワを釣るのですがね。

 これが、段差底層釣りのポイント、なのですがね。

 分かるかなあー、分からないだろうなあー、・・・。

 いずれ、機会があれば、もしかしたら、次号にでも、詳しく、書き出したいと、思います。


 ・・・

 
 もう一度、繰り返します。

 山の猟師が獣道に罠を仕掛けるように、海の漁師は魚道に罠を仕掛けるのです!!!!!

 σ(^_^;)


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 この続きは、次回のことに致します。

 ありがとうございました。 m(u_u)m

 (なお、手前勝手ながら、パワー欠乏のため、ペタ交換中断中、ごめんなさい。 m(_ _ )m )

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