永井隆と緑の友人たち 講演会 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで30年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

ミラノのアンブロジアーノ典礼は1月の最後の日曜日が「聖家族の祝日」。

 

サンシーロ小教区の教会で「長崎の鐘」で知られる永井博士と緑夫人に関する講演会が行われて参加して来た。

 

ミラノカトリック日本人会から、日本人も5名参加し、イタリア語の永井博士に関する本の序章を書かれた、ザべリオ宣教会のルチアーノ神父にも個人的に声をかけていた。(1963-82年日本宣教)はじめはローマ出張とぶつかっており、無理という話であったが、急遽それもキャンセル。お越しいただけるようになった。

 

ホスト側の教会は、去年まで私も聖歌隊隊員として歌いに行っていた教会で、今回のイベントもそちらの聖歌隊の指導者を通じて知った。

 

彼に会い、ルチアーノ神父に声をかけ、いらっしゃると思う、と言ったのが開演5分前。あっという間にオーガナイザーに話が通じ、神父到着まで待ちしましょうと言うことになった。

 

焦って神父に電話をするとまだ地下鉄に乗っておられ、あと一駅!ということであった。地上に出たら、63番か64番のバスに乗って下さいね!と声をかけておいたが、今年85歳になられる司祭。「車を出すからすぐに迎えに行ってくれ!」と上記聖歌隊指導者に言われ、いきなり初対面の男性と車で神父のお迎えに。

 

会場では、長崎に原爆が投下された時、一信者であった医師に関する講演会とはいえ、ミラノでこんなに日本人のカトリック信者が来るとは思ってもいなかった様子。しかも、本の序章まで書かれた司祭まで来られるなんて…!と大喜びの信者たちも多かった。

 

「神父様!今迎えに行きます。そこでお待ちください!」と電話して向かう事3分。すぐに神父をピックアップし、教会へトンボがえり!拍手で迎えられた。

 

 
それにしても、まだまだ永井博士の当時の活躍はイタリアではそれほど知られていない。もちろん、日本でも長崎は別として、信者でなければ、博士のことを知らない日本人も多いのではないだろうか。そこで、永井博士の功績を讃える話が続いた。
 

ところで"、Amici di Takashi e Midori Nagai" (永井隆と緑の友人たち)は、永井夫妻の歴史と信仰を知り、深い影響を受けた友人たちによって2021年3月23日にローマで設立された。長崎教区によって認められているグループだ。その目的は、彼ら夫妻の証言を広め、列福を求める運動を促進しようというもの。

 

ちなみに、列福、そして列聖とは、キリスト者として殉教を遂げた方、または敬虔な生涯を送られた故に、崇敬を受けるに値する人の列に加わることを言う。福者(列福された人)と呼ばれる人は、聖人(列聖された人)にあげられた人のその前列の位の人を指して、こう呼ばれる。

 

サイトを調べると、ここ数年、本が続々と出版され、ゆっくりだが、ヨーロッパでイベントが行われている。(昨日はドイツでも講演会が行われていた)

 

いつ列福になるかは想像も出来ないが、その運動の瞬間に参加できるということは嬉しいことだ。

 

講演会の内容は、列聖運動に向けて、とにかく永井博士の功績を知ってもらいたいと言うものだったが、緑夫人なしではそれもあり得ないと言うこと。永井博士の生い立ちから長崎に移り、緑夫人との出会い、そして結婚、長崎の原爆投下...そこで緑夫人を亡くされ、その後6年後に博士が白血病で亡くなられるまでの信仰生活について語られること1時間半。

 

ルチアーノ神父も挙手され、わざわざ前に出ていかれ、もともと運動を始めたグループに永井氏の話を紹介したり、長崎教区の大司教に長い手紙を出されたことなどの経緯を話された。

 

原爆は二つあったが、『怒りの広島、祈りの長崎』と言われており、その違いを生んだのが永井博士であるのだなあ、と感動。

 

 
彼の最期の生活及び活動の地となった2メートル四方の小屋である如己堂は巡礼の地であり、浦上の聖人として知られていることからサントス通り(聖人通り)と呼ばれる通りにあるのだそうだ。
 
信者であろうがなかろうが、永井博士と緑夫人の話を是非多くの人の知ってもらいたいと思える良い講演会であった。

 

パウロ永井隆とマリナ森山緑 の執り成しと列福列聖を願う祈り

 

 
今日の一句

なぐさめ 励まし 長崎の

あゝ 長崎の鐘が鳴る