社会契約とは、政治学、法学、哲学等で使われる用語で、ある国内で、その国家とその市民との関係についての理論上の契約をいうそうだが、国外にいると、何事も『契約』に基づいた関係だと思い知らされる。
難しい話は抜きにしても、身近なことだと、『結婚』も夫婦となる二人の契約である。永遠の愛を誓うのが結婚のはずなのに、離婚の場合は、財産をどのようにするべきかも初めに確認しておく。それって、離婚を前提にしているの?ともとれなくもないのだが、何事も『万が一』に備えてのことなのだろう。
今日、毎週出かけているボランティアのグループでも、契約書にサインするよう回ってきた。「何のため?」と聞いたところ、万が一(ここでも「万が一」と言っていた)仲間同士で、何か問題が起きて、訴訟になるようなことが起きても、このアソシエーションはあくまでも、ボランティア団体。非営利の団体に属している身とはいえ、個人の問題と団体は関係ない、という『書式』なのだろう。
ちょっとびっくりした。大体、奉仕をする人間が、第3者に対し、損得勘定、またはプライドを傷つけるような名誉棄損たることをするのだろうか?というよりも、それを受けたと言い張る人間が出てくるとしたら、本来の奉仕というのは、寛大さがない限りできないものではないのか?と感じさせられた。
契約書というのは、性悪説に基づいて書かれるもののように思えてならない。
専門的なことは、よくわからない。けれど、「万が一」に備えるものが、「保険」であり、保険に入ると「安心感」を得るのは、確か。
モ―セの「十戒」では、父母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。・・・などなど、ごくごく当たり前のことを謳っている。けれど、それをすべて守りきっている完璧な人間は少ない。
『契約』つまり約束事があるからこそ、人間は自由になれるのか?自由は責任ということなのか。
考えると、ややこしくなる。やはりなーなーに慣れてきた日本人としては、こういうのは、違和感を感じるのかもしれない。
とはいえ、
There is a sin of omission as well as of commission.
してはいけないことをする罪があるように、すべきことをしない罪もある。
カトリックの『罪』の定義は、「思い」、「言葉」、「行い」、そして上記のような「怠り」も罪となる。やはり完璧な人間は存在しえないってことなんでしょうね。
悩める一日であった。