あれから1年 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで30年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。


海外に住んでいて、一番怖いというか、心の奥底で常に心配なのは、両親に何かあった時、すぐに飛んで行けないということ。

毎年、帰国の際、成田に着くと、必ず父は、カメラのシャッターチャンスを待ちかまえながら、われわれの到着を待っている。そして、出発の時は、再び成田まで送ってきてくれる。ふだんは夫婦二人の生活だから、車も小さくするか処分したら?というのに、孫たちが来るから・・・といっていまだに大きな車に乗っている。別れる時は、涙が止まらなくなる。今生の別れになるわけじゃなし…わかっていても思い切り不安になるのだ。やっとぼろぼろになって「ありがとう」としかいつも言えない。わかりもしない明日のことを思い煩うな、そう自分に言い聞かせてきた。

昨年2月23日。

普段は朝起きて、一番にメールチェックをするのに、その日に限って忘れたかできなかった。今思えば、その方が、子供も無事何の不安もなく学校に行けてよかったのだが、子供たちを学校に送り出し、帰宅してからメールチェック。いきなりのニュースで胸がドキンドキン鳴り響くのがわかった。父が心筋梗塞で倒れて緊急手術中だったのだ。電話をしようとしても、いきなり日本の国番号が思い出せない。何度かけても失敗してしまう。母や弟にメールを送って返事を待った。

すぐに出発したくても、子供たちをアレンジしなくてはならないし、その日中には出発できず、結局翌日次男だけを連れて出発したのだ。

両親がやっとSkypeをやってくれるようになり、毎週週末には話し始めたころだった。週に2度以上かけようものなら「何の用?」といわれるくらい。 倒れる数日前の父の顔がよみがえる。元気そうだったのに・・・2月26日は父の誕生日。なんとか間に合いたい・・・。頭がそれでいっぱいだった。

術後、母は明るい声で、父は意識も戻り、元気だからわざわざ子供たちを置いてこないでもいいわよ。かわいそうだから。といった。でも後から長女に電話させたら母も泣いていたという。気丈な母は私の前では絶対に泣いたことがないのに、どんなに不安だっただろう。 今でもあの時の緊張感がよみがえる。

父は一命を取り留めた。担当の医師は「亡くなってもおかしくない状況でした。お父さんは頑張ってくれたので、僕が今後ずっとお父さんを担当します。」とおっしゃってくださった。その後、2度検査入院をし、カテーテルを入れている。あとは、日常生活を気をつけるしかないのだそうだ。

ところで、今日次男の学校が終わり、公園へ行くと、ブラジル人の親子に遭った。彼の奥さんはペルー人で彼らの長女が我が家の長男と小学校時代同じクラスだった。下のお子さんが、我が家の次男と一緒なのだが、クラスは別。6月現地校が終了後、ブラジルに帰国するのだそうだ。在イタリア20年。父親が急死し、駆けつけることができなかったという。その後も金銭面の問題があり、帰国できたのは5年後だったという。今は母親がブラジルに一人(とはいえ、きっと親戚は多いのだろうが)でいるが、いざ何かの時、もう父親の時と同じ経験をしたくないのだ・・・といっていた。確かに。

子供が大きくなるにつれ、教育の問題、そしてこちらで仕事をしていると、ひきあげるタイミングもあるだろう。

とりあえずは、父が元気になってくれたことに、感謝している。生きていてくれるだけでありがたい、ってこういうことなんだな。