【転載】「中二病」、カッコつけたがりだった自分が選んだ道 | 若者と社会をつなぐ支援NPO/ 育て上げネット理事長工藤啓のBlog

【転載】「中二病」、カッコつけたがりだった自分が選んだ道

【転載記事】
2014年5月から2015年4月まで、YOMIURI ONLINEジョブサーチ『「働きたい」に寄り添う』で掲載した記事を転載しています(許諾済み)

「中二病」、カッコつけたがりだった自分が選んだ道
岡崎剛(おかざき・つよし/メンタルワークス大阪 代表)


 「自分が行動もしないのに、若者支援をするなんて格好悪すぎる」と話すのは、この3月に起業したカウンセリングルーム「メンタルワークス大阪」代表の岡崎剛(30歳)だ。

 自らの幼少期を「なぜか勉強がとてもできた普通の子」と評する岡崎は、4人兄弟の長男として大阪に生まれ、母子家庭で育った。


[周囲の期待が「気持ち悪かった」中3時代]


 成績のよい岡崎に対して、周囲は「高い偏差値の高校に進学すべき」という期待をかけ続けた。それが「非常に気持ち悪かった」と言う。中学3年のとき、校長先生が自宅まで来たことがあった。自身の成績より偏差値が20近く低い高校への進学を希望したからだ。岡崎は当時の自分を「自意識が爆発した『中二病』期」と表現する。

 岡崎が進学した高校では同級生の8割が奨学金を受けており、母子家庭の友人も少なくなかった。部活に入る余裕もなく、大半の生徒が生活のためにアルバイトをしていた。岡崎も毎日スーパーでアルバイトをした。時給は750円だった。


[「カッコよさそう」と心理学を専攻]


 2年生になると進路を決めるため、担任との面談が始まった。「最初に就職した会社で一生働かないといけない」と思っていた岡崎は、まだ就職したくないという理由で進学を選ぶ。「授業中に寝ているなど態度があまりよくなかったが、成績は高校で一番だった」と言う。受験勉強にも懐疑的で、指定校推薦で大阪の大学へ進学する。特に目的もなかったため、「ちょっとカッコよさそう」という理由だけで心理学を専攻する。しかし、高校の担任からは「就職先なんかない。食っていけないぞ」と言われた。「意固地になり、この進路で食ってみせる」と返した。特に根拠はなかった。

 出席とリポートで単位は取っていたが、大学の授業は退屈に感じられた。その一方で、哲学書を読み漁り、「どうしたら社会はよくなるのか。自分には何ができるのかを自問自答し続け苦しくなった」と学生時代を振り返る。日中は友人と語らい、明け方までひとり社会問題を考え続ける日々。

 あるとき、師事していた先生に呼び出され、「お前、いつまで才能に頼って生きるんだ。手抜きはかっこいいのか。人生を変えるなら今しかないぞ」と言われた。大学生活を適当にやり過ごし、物事に対して斜に構え、深く考えているフリをして行動しない自分。「自らの世界に閉じこもる自分の殻を突き破ってくれた先生に感謝し、本気になろうと決めた」と岡崎は話す。そして、他者の内面に関わる心理職専門家という仕事があることを知り、臨床心理士になることを決断する。「毎日10時間近く勉強した」という岡崎は、徳島の大学院に進学、22歳で初めて大阪を離れることになる。


[「制度の枠外の人々」の存在に気づく]


 大学院在学中、岡崎は行政が行う、不登校の子どものための訪問支援事業に参加する。印象深かったのは非常に聡明な男子中学生のことだ。多読家であり、「学校の授業で学ぶことがない」と言い切る彼に、勉強を教えたり、出かけたりした。「大学時代に哲学書を読んだり、彼の疑問や質問にそれなりに答えていたからではないか」と彼に気に入られた理由を話す。しかし、彼が中学を卒業すると訪問できなくなった。高校に進学しなかった彼は学籍がなく、支援の対象者ではないのが理由だった。制度の枠外に存在する人々の存在を知ったことが、岡崎のキャリアに少なくない影響を与えた。

 臨床心理士は大学院修了後でないと資格試験が受けられない。「まだ資格を持たない専門職を雇う職場は少なかった」と話す岡崎に、大学院の先輩が手を貸す。大阪で若者支援機関がオープンすることになり、訪問支援ができる人材を探しているというのだ。訪問支援経験のある岡崎は、社会福祉法人つむぎ福祉会に採用される。

 就職先が決まった2か月後、中学・高校の同級生であり、大学入学と同時に同棲どうせいしていたパートナーと岡崎は24歳で結婚している。現在は一児の父親だ。岡崎の仕事について「興味はないが、仕事の話を家に持ち帰らないことに感謝している」そうだ。同じ分野の専門家として仕事をすることもある恩師は「よく頑張った。這はい上がった」と評価してくれていると言う。


[臨床心理士となり、マネジメントも経験]


 入社した翌年、岡崎は臨床心理士試験に合格する。それから3年間はメンタルサポートが必要な若者にカウンセリングを行っていたが、前任者の定年退職を機に組織のマネジメントを任せたいと伝えられた。27歳の岡崎は、「自分なんかで本当にマネジメントが務まるのだろうか」と不安を隠さなかった。しかし、前任者は「話をまとめられる。決断も行動力もある。物怖おじもしないから」と岡崎の背中を押した。

 「売り上げや経費はもちろん、制度運用や利害関係の調整など、大局的な視点を持って発言をするようになりました」と話す。この頃、岡崎は所属組織を越えた活動をしている。ひきこもりに関する共同研究に参画した際、チームメンバーであるクリニックのドクターとの出会いからカウンセリングを行い、また、各地からの講演依頼を受けることも増えた。

 このころ、岡崎の所属する職場や周囲の仲間との会話では、「制度でも支え切れない。行政事業でも限界がある」という話題が多くなった。若者支援のほとんどが行政の事業、つまり、税金であり、決められた枠組みに入れない若者を直接支援することができないことを嘆いていた。岡崎も、目の前の若者に、支援ができないため他所を紹介してきた。


[「柔軟な支援」には起業しかない]


 「チャレンジを続ける若者に、行政が決めたルールだから仕方がないと伝えているだけではだめだ。彼らのチャレンジに応えるためには、与えられた枠組み内で努力するだけでは足りない。柔軟に支援するためには起業しかないのではないか」と考え続けてきた。そして、2014年3月20日、30歳になった岡崎はメンタルワークス大阪を立ち上げた。個人事業主であり、現在はひとりで運営しているが、既に多くのクライアントが岡崎を頼って来ている。

 現在、岡崎は事業主、マネジメント、カウンセラーと三足の草鞋わらじを履く臨床心理士として活動している。複数の職場で働く不安定な状態を心配する声もあるが、「仕事を複数持つことでむしろ安定する場合もある。ひとつの仕事が途切れても、他の仕事で収入を支える方が安定的」という考え方と家族の理解が岡崎を支えている。

 これからも岡崎は活動の幅を広げながら、就職のみならず、病気や障がいなど、心身に悩みや不安を抱える若者を支援していく。