昨夜はかなり酔いながら思いつくまま書いたものの、今日になって改めて考えてみると、自分

の提出した問題の大きさに驚いてしまった。実は教育関係の本は20年前くらいにある程度読ん

だのだが、こういう問題について日常的に考えているわけではないので、ちゃんと書こうとする

と相当大変だ。

 紹介した本田和子の「異文化としての子ども」の、子どもを社会の秩序を揺るがす、文化の外

にある他者として捉える見方には多くの批判もある。本田の見解は基本的に文化人類学的で、も

ともと決定的に異質なものに対して、こちら側の方法によって、過剰な意味づけを与えてしまう

「自然」や「野生」へのロマンティックな憧れに満ちた、知的な遊戯に陥る傾向を持つ、と指摘

する小浜逸郎の批判などだ。

 彼は、子どもは全く、「文化の外にあるもの」や「秩序から無視されているもの」ではあり得

ず、生まれたときから大人との関係において、秩序性の方向に強力に組み込まれており、もっと

方法的に理解が可能な存在なはずだ、と1987年に出た、「方法としての子ども」という本の

中で本田の姿勢を批判している。もう、30年近く前の本だが。


 私は本田和子の子ども論は、文化人類学の視点に依拠しているとは思わないが、子どもの「他

者性」あるいは、「異人性」というのは30年近く前に比べて明らかに高まっていると思う。

子どもがわからない、なぜこのような行動様式を取るのか理解できないというベテラン教師の多

くが心を病んでいる。私の見るところ、ロマンチックな「自然」や「野生」の方角に子どもがい

るのではなく、無秩序な野獣としか言いようのない子どもが非常に多くなってきている。

一回、教室の中を走り出したらもう疲れるか飽きるまで、走り回るような子ども達だ。本田が言

ったのとは違ったレベルで、子どもの異人性(動物性?)は高まっている。

 
 その「わけのわからなさ」と「無秩序性」をしっかり管理したいという方向と、安部総理のナ

ショナリズムと結びついた形での教育への関心という方向、そして学習時間の削減などで落ちて

しまった学力を上げる方向などの中で、現在の教育改革は行われていくのだろう。


 さて、そのことが生徒が先生を数値化することとどう結びつくかを考えければならない・・・

面倒だし、うまくいくかどうかはわからない・・・・


取り合えず、新しい先生に登場してもらおう。


知子先生だ!
 







 常に青い服か、スカートを身に着けた知子先生を、子どもたちは、「ブルートモコ」と呼んで

いた。同僚の男の先生は陰で、「ブルーローズ」と呼ぶような珍しいほどの美人だった。

知子先生の家は名門の家系であり、祖父の寅衛門は娘、つまり知子先生のお母さんは、朝と晩に

「教育勅語」を声を出して暗誦させていた。


http://www.h6.dion.ne.jp/~chusan55/kobore8/4132chokugo.htm

http://www.meijijingu.or.jp/about/3-4.html


 
 厳冬の最中、祖母の登美代が謡う、喜多流の高砂の謡の声が階下から響く火の気ひとつない

和室に正座して、まだ小さかった知子先生は、大きな声で教育勅語を毎朝読むのだった。


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小さくても頭の良かった知子先生は、教育勅語の意味をしっかり理解していた。厳しい祖父の寅

衛門の顔を見ながら、日本人の道徳観の高さを胸が高鳴る思いで感じ取っていたのだった。

しかし、どうしても良くわからない言葉があった。

それは、「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」という部分だった。「天壌無窮の皇運」とは何だろ

う?それは宇宙の果てのようなものなのだろうか?皇運は何となくわかったが、扶翼というのが

またわからなかった。頬を紅潮させて教育勅語を読みながら、この部分になると、心の片隅に黒

い暗雲が湧き上がるのだった・・・・・

 しかし、小さな知子先生は、天壌無窮という言葉には、とても深い意味があるように感じて

そこだけより力強い声で読んでいたのだった。寅衛門は目を細めて満足そうにしていた。
 








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  大前神社の「天壌無窮世界平和」

  私はハッとした・・・・・