フラニーとズーイ

 

J.D.サリンジャー 著

村上春樹 訳

新潮文庫

 

 

 

 

「フラニー」「ズーイ」の二編が収録されています。

アメリカ東部の名門大学に通うグラス家の美しい末娘フラニーと、俳優で五歳年上の兄ズーイ。

フラニーはとある宗教書に救いを求めるようになります。

 

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で、ホールデンくんの気持ちにところどころで寄り添えたように、フラニーの感じようも、わからなくはない。エゴだらけの世界について、エゴだらけの自分について、様々な言葉で、恋人のレーンに向かって思いを吐き出そうとするフラニー。

そのほんの一部。

 

「私にわかるのは、私の頭がまともじゃなくなりかけているってことだけ」とフラニーは言った。「私はただ、溢れまくっているエコにうんざりしているだけ。私自身のエゴに、みんなのエゴに。どこかに到達したい、何か立派なことを成し遂げたい、興味深い人間になりたい、そんなことを考えている人々に、私は辟易しているの。そういうのって私にはもう我慢できない。実に、実に。誰が何を言おうと、そんなのどうでもいいのよ」

(「フラニー」/P.51)

 

大人になると、自分のことも周りのことも、大抵の波は「そういうもんだ」とか「そういう人もいる」とかの呪文で乗り越せるようになるけれど、フラニーから出される言葉には、自分もこうではなかろうかと、我が身に鋭く突き刺さるようにも感じたり。

でも、彼女の感じもわかる、って、今度は違う部位が痛くもなる。

 

 

一方で「ズーイ」の編は、独特の饒舌な語り口で一気に読み進んで、というか、読み転んで、というか、読み落ちて、しまうみたいだった。富士急ハイランドでジェットコースターに乗っているみたいに。

かと思えば、衝撃を受けすぎて、思わず本を閉じて、コーヒーを飲んで、お茶菓子を食べて、動揺を抑えてから、もしくは言葉が自分の中に深く浸透してから、続きを読むことを再開しなくてはならない箇所もいくつかあった。

 

家族間の愛情が、とても暖かい。

お母さんのミセス・グラスが好き。変なキモノを着ていて、釘やら何やらをじゃらじゃらと持ち歩いているお母さん。フラニーになんとかチキン・スープを飲ませようとするお母さん。

そしてズーイの語る、「太ったおばさん」についてのところ。

私は生涯忘れないんじゃないかという気持ちがする。忘れたくない。

 

グラス家の子どもたちは全員が、「イッツ・ア・ワイズ・チャイルド(なんて賢い子ども)」というラジオのクイズ番組に、長い期間出演してきた。

彼らはそこで少なからず何かを演じ、視聴者は彼らに何かを求める。

賢い子どもでなくっても、私たち全員も本当は、永遠にそんな番組の出演者であるのだろう。

 

*

 

私は『ナイン・ストーリーズ』、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、『フラニーとゾーイ』と読み進めてきて、次は『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章-』です。

村上春樹訳、出ないかなぁ。新潮さん!