お菓子とビール
モーム 作
行方昭夫 訳
岩波文庫
- お菓子とビール (岩波文庫)/岩波書店
- ¥907
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モームは魔法使いみたい。
冒頭のほんの数行を読み始めただけで、私の乗っている清潔な地下鉄は奇妙なかぼちゃの馬車に変えられて、一体どこへ運ばれて行くのか、まるで予測もつかない。
物語は次のような出だしで始まります。
留守をしているときに電話があり、ご帰宅後すぐお電話ください、大事な用件なのでという伝言があった場合、大事なのは先方のことで、こちらにとってではないことが多い。贈物をするとか、親切な行為をしようという場合だと、人はあまり焦らないものらしい。
たったこれだけで既に強烈な引力に引き寄せられて、離してくれないんです。
モームは面白い
読書する愉しみが、ふんだんに散りばめられています
とある大作家の伝記を書く手助けをしてほしいと、同業の作家から頼まれる主人公。
大作家やその妻との過去の日々を回想しながら、物語は進んでいきます。
進み始めたらもう、止まらない
表題の「お菓子とビール」とは、シェイクスピアの『十二夜』にも登場する句で、「人生を楽しくするもの」「人生の愉悦」という意味合いだそうです。
まさしくこの本自体が、お菓子とビール!
内容についてはあまり触れないように注意しつつも、とある女性についての主人公の談を引用。
彼女は無邪気な笑顔の、包容力のある魅力的な女性で、周りの多くの男性たちが彼女のことを愛するようになります。
そして彼女も、求められれば誰にでも惜しみなく愛を与える、そんな女性。
「(前略)彼女は欲情を刺激する女ではなかったのです。誰もが彼女に愛情を抱いてしまいます。彼女に嫉妬を感じるのは愚かなことです。譬えてみれば、林間にある澄んだ池でしょうか。飛び込むと最高の気分になります。その池に浮浪者やジプシーや森番が自分より前に飛び込んだとしても、少しも変わらず澄んでいるし、冷たいのです」
語り手のこの発言は、話し相手からは滑稽なものと受け取られます。
作者自身からも、愛で周りが見えなくなっている、滑稽な姿として描かれています。
それはでも、作者自身が、一人の女性を心から愛した自分の姿を滑稽だと視ているようでもあります。
(巻末の解説によると、モームが唯一愛した女性(彼は同性愛者だったのですね)が、今作のヒロインのモデルのようです)
お菓子とビールにうつつを抜かす、それに溺れる。
愚かでもあり、可笑しくあり、でもそれのなんと愉しい幸福なことか。
それもまた人生というものだろう?
そんなモームの声も聞こえてくるような気がします。
大作家が晩年通ったバーの店主の言葉。
「先生は、ここのバーにいたときがいちばん幸福だったと思います。バーが大好きだとおっしゃっていましたな。人生が見えるって。そして人生を愛しているとおっしゃっていましたです」
酸いも甘いも経験した彼が、人生を愛していると言ったことに、ほっとして。
そして、語り手が晩年の大作家に面会するときに、彼が何度か寄越した、不可解なウインク。
そのウインクの意味が後々にわかったときに、可笑しな気持ちになって
人生とは、滑稽なもの、悲しいこともあるもの、でも愛しいもの。
全編を通して皮肉と愛情に包まれたこの小説は、甘いような苦いような、ウイスキーボンボンみたいな、そんな大人の味わいでした