【 大野英章の“如蓮華在水”】

佐賀県小城市の日蓮宗寺院『仙道山勝嚴寺』副住職
佐賀・唐津・福岡市城南区・大分・別府の空手道場『白蓮会館』九州本部長


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厳しい言い方ですが、普通の人が神佛に御祈願をするといっても、それは自分の悩み悲しみを解決するために、意の如く神佛を使おうとしているのだけで、信仰とはかけ離れたところにあります。

自分に都合の良いような神佛を勝手に想い描いて、そんな虚構の偶像に自分勝手な御祈願をかけて、それで自分は信仰心があると思っている。

『道心は病より起こるべく候』
私たちの、今の難儀していることによってこそ、最高の智慧がいただけるわけであって、難儀していない時に最高の智慧はいただけない。健康である時に、健康 であることのありがたさがわからないのと同じです。不思議なことに、いったん身体が不自由になって、また以前のように健康な状態に戻って、初めて、ああ健 康ってありがたいねぇ、と言える。
ということは病気になって大事なことは、単に表面上の健康不健康を論ずるのではなく、自分を不健康になさしめた、自分の日常生活のあり方の問題を悟ること であって、それを、やれ病気が病気が、と悲嘆を繰り返すだけなら、いくら周りが頑張ろうとも、当人が心の底から目覚めなければ全く改善はならないのです。

煩悩を祓い清める心こそが必要なものを、わざわざ寺社に来て、これから因縁罪障を祓い清めたいという者が、不幸を人のせいにし、生育環境を愚痴り、他者を 憎み、そうやって自分でまた因縁罪障をかき集めて、自分でこしらえたニセモノの神に願をかけて、血で血を洗う、とよく言いますが、罪障で罪障を洗う。だか ら永遠の輪廻から抜けられない。

わたくしたち人間も、元々は自然の命であって、その自然の力によって人間としての姿や形が備わったものです。

その自然界をして神という。
それを悟るをして佛という。

ひたすらに自己を内省して、自分はなんて哀れだったのか、なんと愚かだったのか、ということに気づいて、そこで初めて自分に起きた出来事の真のありがたさがわかる。


『身より無数の光を放って佛道を求むる者の為に 此の希有の事を現じたもう(如来神力品第二十一)』
とありますが、ここで言う『佛道を求むる者』とは『根本に自らの佛心を求める者』ということです。佛道とはすなわち『自らが佛へ至る道』であり、佛を求めると言っても、
『どっかに自分を助けてくれる神様いないかなあ』
と物理的な外部世界に救世主を探し回ることではないのです。

ですから、よく当たる占い師、よく効く祈祷師など世間で評判の良いところにいくら出かけていっても、そこに佛はいない。いるかもしれませんが絶対に見えない。

なぜなら救いを佛ではなく、人に求めているから。人に頼ったところで、衆生が衆生の心を食べているだけですから、根本的な悩みがなくならないのは当たり前 です。もちろん全ての衆生には佛心はあるけれども、それは常に煩悩に追われている心ですから、それはやはり煩悩心であり、都合よく自分を助けてくれそうな 偶像であり、我々が求めている佛心ではない。いま困っている悩みを、新たに自分の煩悩が作り出した別の偶像でなんとかしようとしているだけで、そこに気づ かなければ真実、何の救いもないわけです。

我々ができることの第一歩は、既成佛教の修行機関が必ず修行僧に最初にさせるように、自分の家とその周りを掃除することかもしれません。
だいたい悩みが慢性化している方の家の中は整理されておらず、不要なものがいっぱいです(ウチもですが)。
佛へ至る道の入り口を発見するためには、履きものの上げ下げから全部勉強し直さねばいけません。
家の中を整理すると同時に、心の整理をします。だから心の整理は身の整理。これらは一体です。自分のカラダの内と外は一体なのだということを悟る。外(形)がいくら良くても、心が伴ってなければ、その心がやがて形を心の状態のままに壊してゆく。それを因果と呼びます。

お祖師様の遺言の中に
『夫(そ)れ以(おもんみ)れば日蓮幼少の時より仏法を学し候しが念願すらく、人の寿命は無常なり。出る気(いき)は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚 譬(たとえ)にあらず。かしこきも、はかなきも、老いたるも、若きも、定めなき習ひなり。されば、先(まづ)臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし(妙法尼 御前御返事)』
という有名な一節があります。

死ぬ、とは、自分には過去もない、持ち物も何もない、我一切ここにあらず、という心になるということであって、今もう自分は死んだ、という臨終の念を先に 自覚して、ようやく佛法の入り口に立てる、ということではないでしょうか。今まで自分が生きてきた中で作り、貯めてきた因果に縛られ、不要なものに囲まれ て、未練を引きずっていては永遠に佛道は見えない。

さあ、お掃除、お掃除です!
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今、自分に起きているどんな事象も、ことごとく吉祥である。

そう考えて、どんな現状をも受け止めます。

この世の中で生きている以上、人には見えない、それ相応の壁に必ずぶつかります。その壁があるからこそ、これじゃいかんともがき苦しむ。自分の能力が足りないと思ったら、悩みを解決する知恵を得るために学問に励むなり、悩みを解決するためにやるべきことを実行するなりするでしょう。

逆に言えば、災いを単なる災いとしか見なかったら、ただ自分が痛めつけられておしまいです。
災い転じて福となす、というのは、確かにどう見てもこれは災いなのだけれども、そのために災いを解決する智慧を得たいという心を起こすことのきっかけとなり得るから福なのです。

愚痴は逃避です。
本来の愚痴とは、菩提を求めない行動をとることを指します。
いくらもがき苦しんでも、愚痴をたれ、現状から目を背け、それを乗り越える智慧や力を備える努力をしなければ、また同じところに戻ります。

末法の濁国悪世に佛は出現します。それは、社会全体が汚れた時に佛が出現する、という意味だけではなく、これは己心の本尊が開顕するための条件として、自分が悩み苦しみを乗り越えるときにこそ精進の力が顕れ、すなわち人間の向上があり、菩提心が垣間見えるという意味でもあります。

その時、本尊に対して、懺悔・反省を以って精進を決定します。
なんでも時間がない、面倒くさいといって自分の能力を上げてこなかった。やるべきことをやらなかった。それから、もともと心をそちらの方に向けてなかったと、反省しなければなりません。
佛教で最も大事なこの『精進』というものを、他人には求めながらも、自分では怠ってしまいがちです。

此の経はたもち難し。もし暫くもたもつ者は佛すなわち歓喜す。また諸佛も然なり。
法の実践者の出現は、諸佛が喜ぶ。もしあなたが法を実践すれば、あなたも喜ぶ。あなたのご家族も喜ぶ。実際の人間社会においても、そうやってより良い秩序の構築に繋がるはずです。

そこに現実世界の向上(開運)というものがあります。物事の向上ではありません。人生の、心の向上であり、科学技術の進歩とは関係ない。
心の向上は、過去、現在、未来における平等で、時代は関係ないのです。

日蓮宗の本尊の脇士には、上行、無辺行、浄行、安立行という四菩薩がいらっしゃいます。みんな上の方の漢字ばかりに気を取られてしまいますが、二文字目には何て書いてあるかといえば、全て『おこない』という文字です。四菩薩とはそんな『行力』を擬人化して自分の心の中から取り出したものですから、四菩薩を礼拝するということは、四大菩薩行を行ずることに他ならない。なんのために本尊にわざわざ四人もの脇士が存在するのかと言えば、この四種の菩薩行の実践の後にしか己心の本尊涌現はないからです。

佛法というのは知識の教育ではありません。法華経の中でたびたび描かれているように、佛の智慧とは、必ず喜びを伴って心にいただくのです。それが授記です。

しかし知識は違います。心の震えがあってもなくてもとりあえず知識は入ります。だから同じ学校を卒業しても人によって全く心が違うのはそのためです。

佛に向かっているつもりでも、自分の欲望成就のために思い通りに神佛を操ろうという軽んじた心では、佛に近づくどころか、佛の方を向いてすらいないのです。そして、行いがなければ、喜びもないのです。

三毒に染められず、というのは、せっかく信仰していながら、あの人はこうだ、この人はこうだとか、ああでもない、こうでもないと、いったい自分は何を食べているのだろうか。佛教では、他と比較して優劣を競ったり、怒りの心を起こしたりすることを『毒』と言います。体に悪いから毒なのです。そんな毒を食べながら浄化できますよという神様はいないはずです。
人は気づかずにそんな救いのないことをやっています。こんな行為を謗法罪(ほうぼうざい)と呼びます。

だから逆に、深く己を懺悔し、佛に順じて自分を正します、というのが入信なのです。自分みずから懺悔の世界に『はいる』んです。

しかし懺悔の世界(唯心界)には必ず雑音があります。これを『悪霊』と呼びますが、それらが次々に襲ってきます。わたくしが言う『悪霊』とは、いわゆる『悪さをする霊的なもの』という意味ではありません。あなたの心が作り出す『毒』、つまり『愚痴』『嫉妬』『怒り』の心です。

唯心界とは、いわゆる霊界です。
俗に言う悪霊がうじゃうじゃいます。
本尊は己心と一体と言えども、その悪霊が邪魔して、みだりに御本尊からの声は聞こえてきません。
しかしゴーダマ(お釈迦さま)は、その時に、これじゃいかんと、これら祓う智慧をわれに授けたまえ、と願って修行をなされた。やがて現実社会において、いろいろな巡り会いの中でその功徳が生かされ、その通り真実の智慧が応現して佛となった。

本尊からの声とは、神道的には『神の御降り』とでも言いますか、法華経でいうなら『佛勅』という言葉と一緒かもしれません。

自分の中の悪霊を祓えば、それがひとつ降りてくる。
降りただけで、その智慧によって、悩みが解決します。

自分の中から聞こえてくるのです。

ただ解決したから、ああ、よかったね、で終わるのではなくて、この世の中には初めからそのように智慧があったのだ、ということを悟る。

自分はダメだとか、そういう理解では必ず己を殺します。
違うのです。よく見てごらんなさい。たとえ今のあなたの知恵が愚かなれども、今のあなたが戒徳を備えずとも、もともとはこんなに智慧は広いじゃないですか。深いじゃないですか。
ということを私たちは悟っていくのです。
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わたくしは佐賀の人間なので山笠を語るほどの知識もないし、思い入れもない。
ただ、わたくしが福岡に拠点を構えて早10年。
この10年間で生粋の博多っ子達の山笠について情熱的に語る姿を何度も目の当たりにしました。
わたくし自身は山笠をまだまだ理解できていませんが、少なくとも博多っ子達にとって山笠がどれだけ重大な意味を持つのかはわかるような気がします。

その山笠のクライマックスである追い山が本日15日早朝5:00に行われ、わたくしは遠く佐賀の地からテレビでその様子を観ておりました。

ちなみにわたくし達は前日14日の早朝に、山笠の舞台である博多総鎮守・櫛田宮からそのお隣の冷泉公園と、そこまでの道をFacebookでの呼びかけに呼応した仲間10人で掃除しました。

これが前日の櫛田神社の様子。
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あの時こんなにガランとしていた境内に、こんなにもたくさんの人がいるのか。
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もちろん祭り本番にはその場に居合わせることはできませんでしたが、少しでもこの祭りに寄与できたことを嬉しく思いました。


さて、急速な時代の変化の中で、伝統行事がどんどん淘汰されています。
地域の小さな祭りは人が集まらず、各地で格式高い祭りが絶えてしまっています。

そんな中、山笠が何故にここまで地域に支持されるイベントになったのでしょうか。
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昔ながらの地域の祭りを失った現代人は、お祭り騒ぎを求めて現代風な代替イベントを創出します。

しかし、そこには『祈り』がない。

本来『祭り』とは『祀り』であり、その根本は神仏に対する祈りであることは間違いない。

にもかかわらず、現代の『~祭』と名のつくイベントには御神体はまず存在しません。

『春のパン祭り』
『○○町産業祭』
『○○高校文化祭』
って、別にパンを高いところに遷座して1年間の報恩感謝を申し上げるわけでもなく、だいたいが規模の大きな各業種の発表会を以って『祭り』と称しているのです。

本来は『まるでお祭りのような人出』だったのが、いつしか『まるで』『ような』という比喩語が取れ、御神体から主役を奪いとって、人出の多い催事のことをなんでもかんでも『祭り』と言うようになったのでしょう。

最近全国各地で見かける行政主導のイベントは、核になるものが定めにくい。
あっちを立てればこっちが立たず。各業界の思惑が働きます。

いくらまち興しのために予算を投入しても、『祈り』という絶対軸に依拠しないところに別のものを無理やり立てても、どうしてもその旗印は長持ちせず倒れやすいのかもしれません。

もちろん『祈り』さえあれば長持ちするわけではない。
事実、ちょっと前まで全国どこにでもあった小さな祭りは、今や大半が姿を消し、残った祭りもそのほとんどが以前ほどの賑わいを見せなくなっています。

ただ、ここから残った、もしくはこれから始まる祭りが、5年とかそんなんでなく、20年、100年、500年と継続していくためには、やはり地域住民全員共通である感謝の祈りが不可欠だろうと思うのです。



それにしても山笠はテレビで観てるだけでもおもしろい。

神社への奉納なのに寺院にも寄る。

全員が男。女が入れない。
いったい彼らは、普段なんの仕事をしながら今日ここにいるのだろう。

沿道から見守る人達。
清めの水をかける地元の人達。
こんな早朝の集まりにくい時間(am5:00)に、どうやってこんなにたくさんの人が集まるのか。

また、日本の伝統芸能を継承する人形師にスポットライトが当たるのもいい。
こんなにも大勢の人に期待されながら自分の作品が世に出るなんて、大いにやり甲斐を感じながら仕事ができるはず。
しかも、自分だけでなく、他の人形師も一斉に作品を世に出すのです。
そりゃ時を経るにつれ作品レベルも上がる一方です。

また一面では、まるで近代スポーツのようにタイムを競い、それで一喜一憂する男達。

うーん。実におもしろい。




ところで。



ふと、気が付きました。



山笠の御神体って。



実は。



博多の街を支える『男達』そのものかもしれない。

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博多の街は、つまるところ、この男達が守っているわけで。

沿道の人達も、男達の輝く姿を仰ぎ見るために、ここに集まっているわけで。

まさに『神』。
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ということは、博多の総鎮守の本体とは、日々博多の街で生活を営む男達そのもの。



そんな男達が、唯一、神として祀られる日。

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それが7月15日の山笠追い山の時なのかもしれません。

合掌。

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あー泣けてきた。

ここにいらっしゃる男達全員が神様だったのか。

尊い。




追伸。

冷泉公園のすぐ隣に道場を構える無門塾・篠原秀嗣先生からお昼頃電話がありました。

『大野先生!
冷泉公園ば掃除したとでしょ?
なんで僕の耳に一言ゆーてくれんやったとですか!
お櫛田さんと冷泉公園っていったら、ウチの玄関先ですよ!
それなのにウチの門下生が誰も参加せず、白蓮の人達が掃除したてゆったら恥も恥ですよ!
白蓮でゆーたら、弓の馬場(白蓮会館の所在地)をウチの道場生が白蓮の抜きで掃除したて聞いたらどげん思いますか!
ゆーてもらわんと困りますよ!
これホントですよ!
もー!
こんど仕返しに弓の馬場をウチの道場生だけでこそっと掃除してやりますけんね!』

と怒り口調で叱られました。

そんなつもりは毛頭なかったのですが、大変申し訳ございません。

仕返しが弓の馬場の掃除って。

その仕返し、むしろありがたい気もしますが。

来年、合同でお櫛田さんのゴミ拾いやりましょう!



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