わたくしのマッサージを担当してくれている高山順一郎治療院の高山くんの話です。
高山くんがつい先日、とあるピアノコンサートに行った時のこと。
高山くんとそのピアニストはもともと面識があって、その縁でコンサートに誘われて行ったのですが、それはそれは大変に感動したそうな。
ところが、そのピアニストに対する一般的な評価は概して辛口らしい。
高山くんは音楽には詳しくない。
今回初めて生演奏を聴いて、素直に素晴らしいと思ったのですが、それもそのはず、コンサート終了後にプロデューサーその他の関係者と話した時に
『今回の彼の演奏は今までで一番よかった』
と誰もが絶賛されていたのです。
なんでも、コンサートの直前にプロデューサーが彼に
『いいか。絶対に譜面を読むんじゃないぞ。譜面通りの音を出そうとすると音楽はダメになる。自分の曲を奏でるんだ』
的なアドバイスをしたそうです。
で、今回初めて、そのアドバイス通りほとんど譜面を意識せずに演奏できた。
だからみんなも絶賛しているし、高山くんも感動した。
高山くんもわたくしも音楽のことはよくわからないのですが、これはスピーチにも通じます。
どんなに素晴らしい内容の話でも、もし原稿を読みながら話して人の心を打つだろうか。
不思議なことに原稿を読むと、いくらその文章が素晴らしくても、途端に人の心は感動しなくなる。
譜面を見る、原稿を読むという、本来の目的達成に必要な一挙動にちょっと気を取られた瞬間、その演奏から、もしくはその語りから、大事な魂が抜けてしまう。
高山くんはマッサージ師ですから、これをマッサージに置き換えてみるとどうだろう、と考えるわけです。
で、高山くんが考えた、マッサージの魂が抜ける場合とは
『残り時間の計算』
なのだそうです。
マッサージをしながら
『あと15分か。じゃあ、アレとアレやって次に移らなきゃ』
『あと8分か。時間がないな。じゃあ最後にアレやって終わろう』
などと、残り時間を頭の中で計算し始めた途端、この人の痛みを和らげてあげようというマッサージ本来の魂はすっかり抜けて、まるで消化試合のようなマッサージに堕ちていく。
なるほど。
よくわかります。
わたくしも思い当たるフシがあるから。
最近、各地に格安のマッサージのチェーン店が展開しています。
しかし安いからと言って、マッサージのクオリティは決して悪くない。
悪くないんです。
ただ、悪くはないんだけど、ぜひもう1回この人に自分のカラダをお願いしたい!などというような感動はない。
だから同じ人を指名したりしないし、しばらくすると店の名前すら忘れる。
なぜか。
チェーン店の経営は時間が命だから。
必ず大手チェーン店にはきっちりしたマニュアルがあって、マニュアル通りに施術時間を厳守し、できるだけ客を回転させ、最大利幅を確保しなければならない。
そこには、客との会話が弾んで、ついつい時間がオーバーしてしまった、などという牧歌的なサービスをすることは許されないのです。
だいたいそういう店舗には何人ものマッサージ師がいらっしゃる。
皆様、仕事に厳しくなればなるほど時間を守られることでしょう。しかし、仕事に真面目になればなるほど初期の目的達成から遠のいてしまう。
おそらくどんな業界にも存在する、上達のパラドックスです。
九州で懇意にしていた他流派の医者が、研修医時代に某全日本に出場し、ベスト8に食い込んだ。
同年、その流派が主催する全関西大会に出場し、優勝した。
みなさま、研修医という身分がどのようなものかご存知ですか。
医療の分野では、
『士→農→工→商→賎民→犬→猫→研修医』
と言われるくらい業界最下層に位置するポジションで、とてもじゃないが自分の自由な時間なんて持てない。
そんな研修医が空手の大会に出場し、しかも上記のような立派な成績を出せた。
時間の確保ができない時期なので、もちろん練習不足です。
その時、彼が練習不足をどうやって取り返したか。
それは。
試合中に、パンチを打つたびに
『このパンチで倒れろ!』
と気持ちを込めながら打ったんだそうです。
そしたら、その通り相手は痛そうな顔をする。
そして、ズルズル後ろに下がる。
だから全試合すんなり勝てたんだそうな。
そんなアホな。
練習せずに簡単に勝てるほど実戦カラテのトーナメントも甘くはない。
でも、そんな甘くない土俵で確かに勝ったもんだから仕方ない。
やはり拳に魂を込めたから勝ったとしか言いようがない。
ともあれ空手の試合は魂を込めやすいのは確か。
相手も殴りかかってくるし、痛みという強い臨場感があるので誰しも気持ちが勝手に入る。逆に、本番でカッカせずに、冷静に戦う訓練を日常でやっていると言ってもいいくらいです。
ところが御祈祷などの法要はどうだ。
短い法座でも20分。長ければ1時間以上の法座を勤めるわけですが、相手が見えないから臨場感を持ちにくい上に、時間も長い分、どうしても気持ちが散る。気持ちが散るということは、魂が抜けるということです。
効く祈祷、効かない祈祷、何が違うのか。もちろんそこに『魂』が入っていたかどうかでしょう。
では、魂が抜ける時とはどんな場合か。
いろいろ考えられます。
まず第一に、所作の習得度があります。
うまくやろうと考えながらやるのと、無意識にやるのとは違う。
だから、考えなくても勝手にカラダが動くようになるくらいまで、何回も何回も反復し、徹底的に所作を叩き込むと、少なくとも失敗しないように上手にやろうという雑念はなくなる。
わたくしの後輩がとある人に
『御祈祷の時に、音の出る一切のものを使わずにお勤めしてみてください』
というアドバイスを受けたことがあるそうです。
例えば金丸を鳴らすにしても、タイミングや当てる角度に気を遣い、木柾にしても、どこまで中拍子で引っ張って本拍子に切り替えようかとか、木剣だって肘を曲げちゃいけない、いい音を出したい、などと、とかく音の出る法具を使う時は『祈り』という行為の外側の事象に気持ちが向きやすい。
だから、一切の道具なしで御祈祷してみよ、とのこと。
なるほど、これは一理ある。
だからと言って、短絡的に
『ほほぅ、なるほど。つまり祈りには【想い】が大事で【かたち】は要らないんだね』
ということでもない。
想い、だけしかないというのは危険です。
なんらかのカタチがあるからこそ他人との共有も可能です。
また、想いだけなら果てしなく暴走してしまうのを止める術もないが、カタチがそれに秩序を与える。
先の研修医の選手が大会で優勝したのは想いだけじゃない。
もともとの研修医以前の空手の修練のベースがあってこそです。
カタチはカタチとして絶対に必要なのです。
それに。
例えば自我偈(法華系宗派で毎回必ず読まれる部分)だけ、題目(南無妙法蓮華經)を唱えるだけの時でも、効かない時は効かない。
自我偈や唱題だけなら、完全に丸暗記してることばかりだから
『失敗しないように』
『うまくやれるだろうか』
などということは考えません。勝手にカラダも動くし、口も動く。
確かにそういう雑念は防止しますが、今度は逆に余裕があり過ぎて別の雑念が首をもたげてきます。余裕があるからこそ昨日のことを考えたり、法要の終わった後のことを考えたりしてしまう。
だからわたくしが思うに、祈祷の魂とは法要に対する集中力ではないか、との仮説を立ててみたわけです。
兄に同じ問いを投げると全く違う答えでした。
どれだけ効くかというのは、加・持、双方の、きっと良くなる、という確信の度合いじゃないかと申しておりました。
兄の考えでは、祈祷者、受持者そのどちらかが治らないと思っていたら治らない。
少なくとも片方は確信していなければならないし、もう片方も治ると信じる気持ちがゼロでは効果がない。
確信……。
それは、どこから来るのだろう。
教義的な側面を抜きにすれば、確信とは、成功の実体験の積み重ねでしか湧いてこないのではないか。
だから、よく効く祈祷者は、ますますよく効く。
あまり効かない祈祷者は、やればやるほどさっぱり効かない。
ビジネスは全般にそうですな。
客が集まるとこには集まるし、集まらないところにはビジネスに確信が持てないからやっぱり集まらない。
というわけで最近、特に『気功』に興味があります。
『カタチ』ではなく『想い』だけの世界がどんな仕組みでできているのか。
『確信』があれば『集中』してなくとも効果があるのか。はたまたどちらも必要なのか。それとも全く別の要素が影響するのか。
まだまだ研究しなければなりませんな。